閑話 奥方と住職

 アイとあんまんを食した夜。

 予想通り、住職夫妻は遅めの帰宅をした。


「戻ったぞ菩伴ぼはん! ちゃんと修行にはげんだか? ひっく」


「おかえりなさい和尚おしょう。ええ、釈尊しゃくそんのお姿を感じたように思えます」


 赤ら顔の住職は鼻を鳴らす。


「ふはっ! まったく口は達者だな。ま、精進せい。わしは檀家だんかさんのおもてなしを受けるのに心を苦しくしながら肉を口にした。早めに寝て胃を休めるとする」


「おやすみなさい、和尚」


 廊下を歩いて行く和尚が見えなくなるまで合掌の姿勢を保つ。酒のにおいだけが廊下に漂った。明日の朝は粥の味付けを薄めにした方がよさそうだ。


 自分の部屋に戻ろうとした私は、台所から聞こえてくる物音に足を止める。

 奥方が軽食でも用意しているのだろうか。うかがった先であまり召し上がらなかったのかもしれない。

 これは配慮に欠けたと、台所へ急ぐ。


道子みちこさん、御用ありますか」


 入り口で声をかけると、薄紫色の着物を召した後ろ姿が振り返った。


「あら、菩伴さん。まだうろうろしているの? 丹英たんえいさんに味噌汁でも、と思ってね。だいぶ飲まされてしまったから」


 丹英たんえいとは住職の僧名である。

 奥方はひとり分のインスタント味噌汁のカップに視線を戻し、やかんのお湯をそそぐ。非常食として備蓄してあるものだが、実際は住職の酔い覚ましのためだったりする。

 箸で丁寧に味噌を溶かす奥方の顔に、ふわりと湯気が立ち上る。


 目尻と口元に細いしわのあるその横顔を私は黙って見つめた。

 白髪の交じる髪を後ろできっちりと団子状にまとめ、細めの眉はあまり動かない。一見厳しく見えるが、夫である住職に対する愛は深い。


「明日の朝は粥を薄味で頼むわよ。でも漬物は多めにね、よろしくて?」


「かしこまりました」


 合掌する私を「おどきなさいな」と脇に寄せ、奥方はカップの載った盆を手に台所を出て行った。

 そのままになっているやかんをしまおうとして、いや待てと考える。


 住職はかなり酒を飲んだようだから、途中目が覚めてしまう可能性が高い。そのときにすぐ摂取できる水分を用意しておくといいだろう。

 お湯は丁度いい量が残っている。私は砂糖と塩、かぼすを使って経口補水液を作っておくことにした。

 奥方の気遣いを見習わなくては。



『喉が渇きましたらお飲みください』と書いたメモと一緒にやかんと湯飲みを盆に載せ、住職夫妻の部屋へと向かう。

 戸の近くに置いておけばいいだろうと、ふすまに手をかけたとき、中から声が聞こえてきた。まだ起きていたようだ。


「もう、ほらぁ、ちゃんと貝も食べなきゃダメでしょ英たん! はい、あ~ん」


「わし~しじみ嫌いじゃ~でもみちゅこちゃんが食べさせてくれんなら我慢するぞ~ぶっ! わはは、熱い! 殻ごとは無理じゃて~わはは! ひっく」


 奥方は丹英和尚のことを「英たん」と呼び、和尚は奥方のことを「みちゅこちゃん」と呼ぶ。しかし二人きりのとき限定だ。


 水を差してはいけない。盆を再び手に、私は静かに廊下を引き返す。

 台所に置いておけば、必要なとき飲めるだろう。


 以前に一度だけ宴の席に同席したことがあるが、そのときに住職が奥方との馴れ初めを語っていたのを聞いた。

 寺を継ぐ気のなかった若き日の住職はスポーツカーでぶいぶいいわせる毎日を送っていたそうで、アメフトで鍛えた肉体には流行りの服をまとっていた。

 ある日夜の盛り場で奥方と出会い、ひとめぼれした。


 猛アタックにもいまいちそっけなかった奥方だったが、何度目かのデートのときに、急遽ヘルプとして葬式に出た後そのままの姿でやってきた住職にオチたのだそうだ。

 デートに遅れないよう、袈裟けさを着たまま慌ててスポーツカーに乗り込んで正解だったと住職は笑っていた。


 仏教は明治時代から戒律が緩和され、選べることが多くなった。

 もともと仏教は結婚も禁じていたが、平安時代には世継ぎのため僧侶が結婚していた記録があるという。

 偉大な大師である法然上人は「独り身で仏の道をゆけなければ結婚すればよい、結婚して仏の教えを聞けなければ独り身でいればよい」と言われている。

 

 お釈迦様は人が生の苦しみから抜け出すための教えを説いた。

 仏教は、よりよく生きるための道しるべなのだ。絶対にこうでなくてはならない、とこだわることはお釈迦様も否定している。要はバランスだと思う。


 今日という日も、気づき多き一日であった。

 私は布団を敷き、横になると意識をスリープモードに切り替える。

 安らかな気分で漂うネットの海は、きっといい夢路になるだろう。

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