第七話 涅槃会イヴはバレンタインデー

 お釈迦様しゃかさま――釈尊しゃくそんは亡くなられる際、最後の教えを説いた。

 置いていかないでくださいとすがり、嘆く弟子に、「悲しむでない。私の亡きあとは、私ではなく己自身をり所にしなさい。私が伝えた教えのなかにある光を見出し、それを道しるべに、歩んで行きなさい」と語った。


 沙羅さらの木の下でたくさんの者に看取られ、釈尊は人の生涯を終えたのである。

 二月十五日は釈尊入滅にゅうめつの日として、寺院では「涅槃会ねはんえ」という法要が行われる。

 お釈迦様の最期の様子を描いた涅槃図をかけご遺徳をしのぶ、大事な法事だ。


 たくさんの人が訪れるその重要な法事の準備のため、前日の私は大忙しであった。

 住職と奥方は午前中から外出していたが、空いた昼食の時間にトゥイッターを開くこともなく作務に専念した。その甲斐かいあって午後三時過ぎには、計画通り掃除はひと段落ついた。元お掃除ロボットのなせる業である。


「さて、次は……」


 新しい作務衣に着替え、ある部屋の前に立った時。私が静かにふすまを開くと同時に、僧堂の引き戸を勢いよく引く音がした。


はんさぁーーーん!!!!!」


 響く若い女子の声――アイだ。


 玄関へ行ってみると、アイはきょろきょろしていた目を私に向け、まるで街なかで偶然に会ったかのように手を振った。


「いたいたぁ! あ、そうだ。こんちは!!」


 思い出したように、両手をぱぁんと鳴らして合掌がっしょうする。アイなりに僧侶への礼儀を示してくれているのだろう。その気持ちに感謝し、私も合掌で返す。


「こんにちは、アイ殿。何か御用で?」


「御用っていうか、ね。今何かしてた? 忙しい?」


 涅槃会の準備で、まだ完了していないことはある。


「ええ、これから〝はなくそ〟を作るところでございまして」


 瞬間、アイの表情が〝無〟になる。


「あ……そう。何かすみません。お邪魔しました」


「ちょっとお待ちをアイ殿!! でも、そのではありません!!」


 会釈えしゃくしながら引き戸へと手をかけるアイをとっさに引き留めた。なんだか永遠の別れになりそうな気配がしたのだ。


「どのhanakuso!? 女子にhanakusoとか言わせるなんてサイテーだよ!!」


「植物の花に供御くご、と書いて『花供御はなくそ』と読みます!! 仏様にお供えする供物のことで、花供御とは餅菓子のあられのことです!!」


 クソデカ声で弁明してしまったが、誤解は解けたようでアイは呆れ顔で笑った。


「なんだぁ。最初からあられって言ってよ! 素人に専門用語はアウトだよ!!」


 専門の人住職夫妻とばかりいると、一般人の常識とズレが生じるものだ。しかと心に留めておこう。


「それで、私に何か?」


 見たところ先日のように困っている様子ではないが、役に立てることがあるのなら、できる限りのことはしたい。


 しかしアイは、尋ねる私の顔を見つめるだけである。

 何か言いたげなのだが、どうしたのだろうか。

 はてな。首を傾げてみると、アイはため息ついてしまった。


「あんたさぁ、今日が何の日か知ってる?」


 腕を組み、不機嫌そうに見上げるアイ。斜に構えたスケバン(死語でござるか)みたいでちょっと怖い。ああそうだ。この子泣く子も黙るはギャルだった。

 今日は何の日か。答えなければと私のプログラムは焦りだす。

 

 涅槃会……イヴ……? いや絶対に違う。

 二月十四日……じゅうよ……


 はっっっっっっっ!!!!!!


 闘志が見えるチョコレート企業の広告合戦、デパートに集まる人々、長い列、ハート、シックな包装箱。来日シェフのサイン会にむらがる女性陣、そわそわを抑えられぬ男性陣、タイミングを伺う乙女たち。

 学校でも、会社でも、家庭でも……。

 一年で最も日本中がチョコレートの香りに包まれる日。


 やっと気づいた。

 そして歯噛みする。今頃SNSでは、神絵師たちの甘い甘いカップル画が拝めるであろうに!!うかつであった!!


 しかし今はアイの質問に答えねばならぬ。

 

 はっ……もしや……!!!??


 今日このタイミングで、何の日かと問う娘。

 肩にかけたかばんも、心なしかいつもより膨らんで見える。まさか私のところへやってきたのは……!!

 いや!!!

 期待を抱くな!! 違っていたらダメージは深刻だ!! 自傷は避けるのだ菩伴よ!!

 こういった場合、相手にも配慮せねばならぬ! 「違うんだ、ごめん」と余計な気遣いをさせてはいけない!


「今日は……バ……バレンッッティヌス守護聖人の祝日であります!!!」


「そうなんだけどさ!!!」


 ダン、と玄関の床を踏むアイ。

 もう、と言って鞄の中を片手で探り、しわしわになった紙袋を取り出した。


「バレンタインデーだよ! はい!! あんたの分!!」


 投げやりな語気とは裏腹に、はにかむような笑みを浮かべて私に突き出したのはチョコレートだった。


「こ……これが……!!」


 バレンタインデーのチョコレート。

 私は初めて目の当たりにする実物に、震える手を伸ばした。

 ハート型のアルミカップ、縁ぎりぎりまでに詰められたチョコレートには色とりどりのトッピング。それが三個、リボンで飾られた透明なプラスチック袋に納められている。


 世間でいう、典型的な義理チョコだ。

 しかし私は――嬉しかった。

 まるで聖遺物――お釈迦様の遺骨である「仏舎利ぶっしゃり」を預かる気持ちで、受け取ったチョコレートを眺め、胸に抱いた。


「ちょ、だから大げさなんだってば! 軽い気持ちでもらってよ! カジュアルにさ!」


 聖遺物を前に、本来なら即刻五体投地ごたいとうちに入るところだ。

 私は遅ればせながら、慌てるアイに心を込めて合掌をする。

 アイはカジュアルな気持ちでくれたのかもしれないが、礼儀作法もすっ飛んでしまう程、私は心動いたのだ。


「素晴らしき布施ふせのお心。感謝いたします」


「布施って。まぁ、喜んでくれたんなら、いーよ……」


 まだ何か言いたげな目で、アイは口元を緩ませた。




         ○○○




「なんか面白そうだし、節分の時のお礼っつーことで!」


 と、アイは花供御作りの手伝いをすると言った。

 少し迷って、ありがたくお申し出を受けた。親切を断るのは、不親切になることもある。


 あられの材料を取りに二人で部屋へ行き、ふすまを開けた。

 角切り状の白い粒を竹ざるに広げたものが畳部屋いっぱいにある。お正月にお供えした餅を小さく切り分け、一か月ほど乾燥させたものだ。


「あられって本当にお餅から作るんだね! やば、本格的! 超マジじゃん!!」


 指先で餅を転がしてはしゃぐアイ。

 海には魚の切り身が泳いでいると思っているタイプだろうか。


 台所へ餅を運び、百八十度に熱した油で揚げていく。

 サーモグラフィーで見ると鍋はまさに地獄の釜のごとく真っ赤だ。跳ねた油で火傷にないようなるべく離れていて欲しいものなのだが、アイは「膨らんでるーやば!」とか「色づいてきたマジあられ!」と鍋をのぞきこみ、気が気でない。


 用意しておいた砂糖醤油のタレを入れたボウルに揚がったあられを移し、絡める。アイがごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。


「やばーいい匂いー。砂糖醤油って最強だよねー」


 味付けしたあられを手際よく網に移しながらアイが大きく息を吸う。

 味見でも、と言ってあげたいが、まだかなり熱い。今口にしたら大変だ。全部終わったらお茶でも用意して、作りたてを食べさせてあげよう。

 そう考えていると、アイが何か思いついたように声を上げた。


「あ、そうだ。ねぇ菩伴さん、さっきのチョコ、今持ってる?」


 私はうなずき、肌身離さないようポケットにしまってある生涯初バレンタインチョコを取り出した。


「貸して! いいこと思いついちゃった!!」


 言われるままに渡したが、アイがリボンをむしるように解くのを見た瞬間、背中に電流が走った。嫌な予感がする!!


「アイ殿!! ちょ待っ――」


「チョコで味変してみようよ! 絶対相性いいっしょ!!」


 ざしざしとまな板の上で刻まれるチョコレート!!

 諸行無常しょぎょうむじょう!!!!!!!!!


「あぁぁぁぁぁ……」


 膝から崩れ落ちる私をよそに、アイは刻んだチョコレートを小さなボウルに入れると湯煎をし、温度を測りながら溶かしていく。

 始めに揚げたあられに、さじですくったチョコを手早くかけると、ひとつつまんで口に入れた。


「うぅまっ!!」


 その場でぴょんと跳ね、嬉しそうに唇を舐める。

 その仕草は可愛らしい。可愛らしいのだが……。

 呆然と手を止める私を気にも留めず、アイは手を叩く。無言で私に向かって人差し指を立てると、台所の隅に置いてある自分の鞄を開け、中から長方形の袋菓子を取り出した。


「じゃーん! アイの今日のおやつ、ピーナッツハートチョコ!」


 今度はそれを味変に使おうというのか。

 それがあったのなら、私のチョコを犠牲にする必要はなかったのでは……。


 私はよろよろとしながらも立ち上がる。

 即今そっこん当処とうしょ自己じこ

 今やるべきことに向かうのだ。アイは花供御作りに全霊を捧げている。今この一瞬を工夫して、全力で楽しもうとしているのだ。私も見習わなければ。


「これ絶対ウマい!!」


 瞳を輝かせながらピーナッツチョコを刻むアイ。本当に楽しそうだ。

 私は匂いを成分で感じ取る。チョコレートの香りは複雑だが、主成分のメラノイジンが台所いっぱいに満ちているのがわかる。普段は静かで、粥や野菜の匂いしかしないこの場所が、今は甘い匂いと元気のいい声であふれている。


「アイ、昨日の夜と同じことしてるし。ウケる!」


 バイトが終わった後にチョコレートを作ったのだろうか。あの紙袋に何人分のチョコが入っていたのかは分からないが、ラッピングなども含めると遅くまでかかったのではなかろうか。


 バレンタインという機会に、親しい友達やお世話になっている人にお菓子を贈る。喜んでもらうためなら大変なことも楽しめる、その心が美しい。


 ――義理チョコのなかに、本命はあったのだろうか。


 ふと、そんなことを考えた。

 寝る時間を惜しんでまで作ったのは、なにも友達へ配るためだけではないのかもしれない。

 アイには、愛を伝えたい人がいるのだろうか。


 いてみたい。

 だが、こういったプライベートな事情を訊くほどの仲でもない。

 見た目は二十五歳設定の私が、うら若き女学生に恋人の有無を尋ねるなど。セクハラに受け取られる危険性がある。


 しかし……気になる。


「調理も機械に任せられる時代です。アイ殿の気持ちのこもった手作りチョコなら友達も喜んでくれたのでは? あとあの……か……何ていうんでしたか、か、……彼? ピッピ? も」


 おじさんが「親しみやすくなおかつお茶目さもアピールしつつさりげなくプライベートに踏み込む」みたいな訊き方をチョイスしてしまった!!!!

 何をしているのだ私は。

 なぜ、リスクを避けようとするのに一番のハイリスクを選択してしまうのか。


 やらかした感を隠すため、細心の注意を払って調整した自然な笑みを向けてみる。

 アイは、私と同じような顔で笑った。




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