第六話 レッツトライ☆仏教修行

 空気を割る声の波動。

 前に立つ三人の身体がびくりと跳ねる。鳥が鳴き、羽音を荒立たて木々の間から一斉に飛び立つ。残響はしばしその場の時を止めた。

 はるか昔、中国唐代に生きた場祖道一ばそどういつ老師が元祖であるという〝一喝いっかつ〟である。


「……っくりしたぁぁ」


 目を真ん丸にしたアイが息をつく横で、しょうは尻もちついた格好でぽかんと口を開けて私を見上げている。着ている橙色だいだいいろのTシャツにしわが寄って、プリントされている変身ヒーローは首をうずめてもがいている風に見える。

 私が一歩踏み出すと、翔は尻を浮かせて小さく喉を鳴らした。


「ひぇ」


「翔よ。そなたがはらう鬼は何処いずこにいる? 私か? 違う。小さい弟や、親切な女人にょにんに容赦なく豆をぶつける、その心が鬼だ!!!」


 アイの顔と太ももには、ほんのわずかだが赤らみがあった。小さな豆粒でも、強く投げられれば細胞は負傷する。例え遊びだとしても、一方的な攻撃はやがて精神にもダメージを与えるだろう。


「ふ、う……」


 一喝された翔は鼻から水をたらし、目にいっぱい涙をためて歯を食いしばっている。


「ちょ、菩伴ぼはんさ……」


「おにいちゃん!!」


 アイが動くより早く、縮こまっていた弟のゆうがへたりこむ兄の元へと駆け寄った。ニット帽の後ろに鬼の面がある。


「おにいちゃんはオニなんかじゃない! ぼくがないてるといつもたすけてくれるんだ、オニじゃないもん!!」


「ユウ……」


 頬を赤くして兄に抱きつき、私に向かって叫ぶ。自分をかばう弟を、翔は力なく見つめた。本来はきっと頼れる兄なのだろう。


「強くなりたいか、翔」


 兄らしくあろうとする心に、いつしか傲慢ごうまんという鬼が住み着いたのかもしれない。

 私の問いかけに翔は、唇をぎゅっと噛んでからうなずいた。


「うん、俺……強くなりたい!!」


 うむ、いい顔だ。

 守るべき者を持つ、兄の目だ。


「よし。では修行を始めよう。まずは基本中の基本、掃除だ!!」


「わかった!! やる!!」


「おにいちゃん! ぼくもいっしょにやる!!」


 互いにうなずき合う兄弟。美しい光景だ。

 私はほうけているアイに顔を向けた。


「さぁ、参りますよアイ殿」


「え、アイもやんの!!?」


「旅は道連れです」


 肩を落とし、アイはため息ついてから短い金髪をかき上げた。


「わかったよ。首突っ込んだのアイだしね!! 付き合うよもう!!」




         ○○○




「一に掃除、二に信心!! 悟りの道も掃除から!! 始めッッ!!」


 本堂の床に手をついた状態で横一列に並ぶ、アイと翔、悠が私の号令でスタートを切る。手の下には雑巾がある。これは雑巾がけという立派な修行だ。


「心の曇りを拭い去るように!! 床をおのが心と見よ!!」


 裸足が木の床を蹴る音がするなか、ズダンと規律を乱す物音が響いた。


「っぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!!」


「おにーちゃん!!!」


 兄の悲鳴に、直線からコースを斜めに脱線していた悠が振り返った。よたよたと雑巾がけをしながら倒れている翔の元へと向かう。


「ぐぅぅぅ……!!」


 翔はひざを抱えて苦悶くもんの表情を浮かべている。コケた拍子ひょうしに膝小僧をりむいたようだ。雑巾がけあるあるである。摩擦力による皮膚の損傷は大いに痛むことだろう。半袖短パンという格好が雑巾がけにはハイリスクであった。


「痛ぇぇ……! 雑巾がけなんて、家庭科の授業でしかやったことねぇよ……!」


「おにいちゃん……!」


「大丈夫だ、ユウ。こんな傷、俺ぁ慣れてるからよ」


 床はお掃除ロボットに任せるのが当たり前の近代、雑巾がけなど、誰もが忘れたスキルである。汚れに気づくことは心の乱れに気づくことであり、汚れる前に掃除をすることが、生活を正し、心身を整えることにつながるのだ。


「洗礼を受けましたな。まずは、傷の手当てを……」


 たかが擦り傷と甘く見てはいけない。念のため用意しておいた救急箱を持って翔の近くへかがみこんだ時、背後を軽快なリズムの足音が通った。


 そうだ。アイも制服のままであるから、転んだりしては大変だ。いくら科学の力で絆創膏ばんそうこうの治癒力が向上したとはいえ、年頃の娘には些細ささいな傷あとも気になるだろう。


「アイ殿、あまりスピードを出さずに……」


「これ腹筋にくる~! インナーマッスル? だっけ? バチバチに効くわ~!」


 顔を向けた私の目に飛び込んできてしまった光景。

 軽やかかつしっかりとした足さばきでけていく、やわそうなしろい太もも。チェック柄プリーツスカートの下で跳ねる小ぶりな尻のライン。らすように揺れるスカートからちらりのぞく――。


「ぐぅぁぁぁぁぁあ!!」


「坊主師匠!?」


 目を覆い崩れ落ちる私を心配する翔の声。

 危ない!! 神々しさに視覚が故障するところであった!!


「はぁ……はぁ……大丈夫です。不意の攻撃を受けたもので」


 どこから!? と周りを見渡す兄弟二人。

 目に見えるものではない。これは私のなかに存在するマーラ悪魔の暴走によるダメージだ。

 二次元の萌えイラストはあくまでも芸術品として見ている。三次元の存在にショックを受けるとは、僧侶として未熟である証拠だ。


 太ももは、ただ太ももであり、尻は、ただただ、尻であるのだ。

 そう悟りがあるのならば、パンティーのひとつやふたつ目にしたところで、心乱されることはない。

 そう、パンティーなど……


「ふおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 私は雑巾を手に取った。


「す、すげぇスピードだ! ターンに無駄がねぇ! 坊主師匠すげぇ! これがブッキョーソウ……!!」


 邪念を拭い去るべく、私は雑巾がけに専念する!

 一行三昧いちぎょうざんまい、掃除三昧!! 掃除とひとつになるのだ! 私は雑巾であり、また床である!!!!


「ちょーっ! 菩伴さん大人げない!! プロの本気に勝てるわけないじゃん!!」


 競争心を謎に燃やすアイが後ろから追いかけてくる。追い抜かれたら今度こそ終わりだ。顔を上げないでいられる確証がない! この勝負、負けられない!!

 ちなみにアイのパンティーのお色は秘密だ。その分別は守らねばならぬ。どうしてもというのなら、カラーチャート数値R255、G182、B193、とだけ言っておこう!!



         ○○○




 本堂の床を曇りなく磨きあげた後は、掃除と同じくらい重要な修行、坐禅ざぜんを行うことにする。

 生活の場に向き合い整えたら、今度は自分と向き合うのだ。

 本堂の広縁ひろえんに「坐蒲ざふ」という丸くて厚みのある敷物を並べ、それぞれ前に立つ。


すわることにも作法があります。決まった動作で行うことが重要なのです。やってみましょう」


 坐蒲を転がし形を整えるところから始める。アイは「丸くてなんか可愛いー」などとはしゃいでいたが、幼い兄弟二人は真剣な眼差しで私の所作を目で追っている。

 合掌がっしょう、礼を繰り返し、足を組んで坐る。慣れないうちは簡単な組み方でいい。坐禅は我慢大会ではない。ただ、今ここに坐ることが目的なのだ。


 静けさが辺りを包む。やがて色々な音が聞こえてくる。風に揺れる木々、鳥の羽ばたき、遠くから響いてくる街のざわめき、誰かのくしゃみ。

 坐禅中は目を閉じず、半開きにする。眠ってしまわないためだ。

 本来は本堂内などの室内で行うが、幼い男児二人にはさすがにストイックすぎるかと思い庭の見える場所にした。


 坐っていると、スリープ状態に近くなる。認識していない場所でデータの整理が行われ、不要なものが消えていく、または必要ないことに容量を使用していることに気づいたりする。

 やがては今、世界の中心で世界に包まれる己の存在を感じるのである。


「あら、あら、あら! ほほほ、皆で坐禅中だったのね。お邪魔しちゃったわね」


 聞き馴染なじみのある声に注意が現実へと戻る。顔を上げると、檀家だんかの田中さんが猫の日向ぼっこを見る眼差しをして立っていた。

 いかん。来客だ。対応をしなくては。

 アイを見るとうつらうつら、首をもたげている。


「アイ殿」


「ふにゃ?」


 膝掛けを強引に貸したため(ミニスカートで坐禅会へ行ってはダメですぞ)、温かくて眠気を起こしたのも無理はない。兄弟二人はというと、悠は足がしびれたのか、田中さんの登場がきっかけで姿勢を崩して後ろに転がっている。


 翔は意外にも、背筋を伸ばしたままじっと動かずにいた。だが鼻から汁が垂れている。寒さを考慮するのを忘れていた。可哀そうなことをしたが、その根性に私は感心した。


「いい素質だ、翔」


「ほんと!?」


 声をかけられたのを坐禅解除と見なしたのか、翔が足を緩めて私を見た。会った当初のオラオラ感はなく、きらきらとした、子供らしい笑顔だった。


 親からのRINNEメッセージが届いたとかで、兄弟二人は帰って行った。


精進しょうじんする気持ちを忘れずに、二人とも」


「おす!! 師匠!!」


「またね、おねぇちゃん! ししょー!」


 元気に走って行く兄弟。山門の段差をまたぐ時、兄は弟に手を貸してやっていた。


「あはは、弟子ができたね。ナニコレ? って展開だったけど、ショウ君もいいお兄ちゃんだったね」


 兄弟に手を振り、アイがとなりで晴々とした顔で言った。


「人は皆、本来は仏なのです」


 修行とは、それを心で知るためのものだ。


「あー、疲れた! でも何だかんだ楽しかったかも! そういえばさっきのおばさん、帰っちゃったけどよかったの? アイたち邪魔しちゃった?」


 また住職さんに叱られる? と心配そうに私を見上げるアイ。


「大丈夫です。田中さんは恵方巻をおそなえに来てくださったのです」


 イクラとカニがはみ出している海鮮巻きと、和牛で包まれてある肉巻きが、高級デパートの紙袋の中に納められていた。『住職さんには内緒よ! 菩伴さんで食べちゃってね! ね、ね!』と、押しつけるように渡された。


 仏教僧は肉、魚は基本口にしない。近代ではだいぶ戒律かいりつも緩くなったものの、私のような修行僧は自重するものだ。ただし、頂いたものは別だ。断ることは礼儀に反する。それを知っている檀家の方々は、やたらと御馳走ごちそうしてくださるのである。


 私がアンドロイドであることを知らない田中さんは住職の留守を狙って届けてくれたのだ。しかし私は食べられない。住職と奥方は本山で節分会が終わったら食事会があるので夕食は不要。明日の朝食にするには酢飯が固くなってしまう恐れがある。


「アイ殿、よければ私の代わりに召し上がってください」


「え、マジ!? いいの!? やったぁラッキー! 今日ママ遅いから、アイが夕食当番なんだよね! 二人で食べるね! ありがと!!」


 アイの両親は離婚したのだと聞いた。今は母親と二人暮らしのようだ。

 紙袋を受け取ったアイは中をのぞいて、「ヤバ! おいしそう!」と笑った。しかしふっと笑みを消すと、ため息交じりにつぶやいた。


「引っ越し先が公団住宅でさ。子供多くてよく声が聞こえるんだけど。バイトの帰りにマンションの前で見かけると、夜なのに子供だけでいたりすんの」


 気になっていたから、今日、翔と悠に声をかけたのか。


「でも子供って難しいね。テキトーに遊んであげようって軽く考えた自分に後悔しちゃった」


小善しょうぜん大悪だいあくに似たり、大善たいぜんは非情に似たり」


「しょ……だい……何?」


「その人のためになると安易にほどこす行為は、時に相手のためにならないこともある。しかし真剣に相手のことを思って行うことは、鬼の所業に見えることもある、という意味です」


 私の言葉に、アイは肩を落とす。


「だよねぇ。アイが甘かったの……」


「しかし、私はアイ殿の気持ちは間違ってないと言いたい。自分には関係ないと歩き去る人間と、どちらが魅力的でしょうか」


 アイは少しの間黙って私を見つめ、そして笑顔を浮かべた。


「うん!! ありがと!!」


 この笑顔を見ると、力になれてよかったと思える。


「節分とは季節の節目のこと。明日の立春りっしゅんは旧暦では新年の始まりに当たります。よって今日は年越しともいえるのです。アイ殿の新しい生活のスタートとして、今日を節目にするのもいいかもしれませんね」


「そうなの!? 大晦日おおみそかと正月はバイトで忙しかったから、そう考えると気持ち切り替えられるね! よっしゃー、アイの新年はこっから!!」


「その意気です」


 私はポケットから豆袋を取り出しアイに渡した。豆は「魔滅まめ」に由来する。季節の変わり目に生じる邪気を祓うための豆まきなのだ。


 帰り際、山門を出たアイは振り返り、


「ショウ君に喝入れた時の菩伴さん、さすが大人って感じでカッコよだったよ!!」


 と言うだけ言って背中を向けた。

 みるみる小さくなっていく後ろ姿を、私は呆然と見ていた。


 カッコよ……カッコよ……カッコよ……!!?


 カッコよ=恰好がいい=好ましい=待て待て何を考えているのだ私は!!!

 ギャルの言葉など!! その場のノリがほとんどだ!!

 偏見へんけんはいかん!! だが事実だ!!

 心乱すなSelf喝ッッッッッッッ!!!!!!


 しばらく山門でフリーズ状態にあった私は、意外に早く戻った住職に背後からどやされることとなった。


 その後田中さんがトゥイッターにアップしていた、私とアイたちが並んで坐禅を組むほのぼの写真を奇跡的に発見し、それを見せたことで住職の私へのサボり疑惑は晴れた。


 ただ、この金髪の子は誰だとしつこく訊かれるはめにはなった。どうやらアイは住職の好みのタイプらしい。

 豆をもらいに来た女子高生、とだけ答えた。

 私のプログラムは、「ギリ嘘ではない」と見逃してくれた。


 日付が変わった夜、〝ai〟のアカウントには、「あけおめ!! #旧暦 #明日から本気出す」という文と共に、豆袋の写真が載っていた。




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