第5話

 シャァァァァァァ。


 体に当たって弾けるシャワーの音が浴室を満たしていた。立ち込める水蒸気は体の輪郭をぼやかし、四肢は爪の先まで赤みを帯びて艶かしかった。


「はあ~~~~っ」


 優太朗はまだわずかに湿った髪のままベッドにダイブし、長い吐息を吐いた。今日は金曜日。金曜日の夜というのは学校のことを一切考えなくていい、一週間で最もリラックスできる時間だ。


 風呂でほぐした体でベッドに仰向けに横たわり、何もせずにこの貴重な時間を貪るのが、優太朗にとって最も幸福な時間だ。カチカチと一定のリズムを刻む秒針の音は砂糖のように甘い。どんなクラシックよりも耳に心地よく感じられ、永遠に聞いていられる。


 カチカチカチカチ、ポロン。


 チッ。


 至福の時間をラインの通知音によって邪魔されたことに腹を立てて舌打ちをした。


 お母さんからか? 家にいるんだから直接言ってくれよ。普段そうしてるのになんで今に限ってラインなんだよ。それとも珍しくお父さんからか? どちらにせよ、今送ってこないでくれよ。


 しかめっ面で毒づきながら起き上がってスマホを見ると、送ってきたのは二人ではなかった。


 そうだった、昨日秋津とライン交換したんだった、と昼とまったく同じことを思い出す。常人の三倍の速さで忘れる男。それが優太朗だ。


 メッセージは、


「明日デートしたい!」


 脳筋すぎる誘い方だ。なんて返そう。正直、優太朗の気持ちはノー一択だ。自分のことをおもちゃだと思っているギャルとなんか少しでも関わりたくないし、そもそも休日に学校の人間に会いたくなかった。


 でも断ると、


「アタシの誘いを断るのかよ、生意気だな」


 となってバッドエンド一直線になるので断れない。何かいい理由を思い浮かべばいいが、考えている余裕はない。まだトーク画面を開いていないので既読無視にはならないが、どれくらいで「返事遅ぇな、無視してんじゃねぇよ」となるか分からない。臨界点は何分か何秒か。


 とにかく早く返信をしなければ……!


 タプタプタプタプ。


 とりあえず「大丈夫です」と打った。


 行きたくなさすぎて、どちらとも取れる返事になってしまった。拒否されたと思って怒るだろうか、それともワンチャン行かなくてよくなるだろうか。


 不安と期待を抱きながら返信を待っていると、奏は「やったぁ!」と気にもしてないようだった。


「どっか行きたいとこある?」


「特にないです」


「じゃあアタシに任せて! 13時集合ね!」


 ということで黒ギャルとデートすることになった。


「駅前のショッピングモールに集合ね。映画見てご飯食べよ。楽しみにしてて」


 彼女の押しの強さのおかげでデートの段取りもすんなりと決まってしまった。


 そして当日。


 30分前にショッピングモールに着くと、すでに奏もいた。入り口横のガラスに映った自分を見ながら、髪の毛をちょんちょん触っている。


 かわっ……じゃなくて、意外にも露出の少ない格好だった。もっとイカツイ格好を想像していた。ヤンキーやダンサーが着てそうな服というか黒マスクが似合いそうな服というか、そういう服を想像していた。


 黒のパンツに、それパーカーの意味あるんですかと言いたくなるような大胆にへそ周りをさらけ出した胸下までしかない黒のパーカーだったり、ハイレグ水着かと勘違いしてしまうようなボディスーツなるものだったり、そういう恐怖で童貞を殺してしまうような服を着ているもんだと思っていた。


 しかし今の彼女は、ブラウンのチェック柄のジャケットとタイトスカートに黒のブーツと白のソックスという女の子っぽい格好だった。


 ただでさえ人に声をかける経験がないのに、さらにそこに見てはいけないものを見てしまった感も重なって喉が凍りついた。


 そうしてその場に立ちつくしていると奏が振り返った。


 あ、ヤバい。


 彼女は全然清楚じゃなかった。ジャケットの下の白いシャツは胸下までしかなく、大胆にへそを晒していた。ほのかに縦筋の入った健康的な腹筋の陰影が逆に艶かしくて、優太朗は目を逸らした。


 その間に彼女はいつものようにしかめっ面になって、大股でズンズンと詰め寄ってきた。


「声かけてよっ」


 これまたいつものように怒りで頬をほんのりと赤くしていた。


「すっ……すみま、せん」


 相手の怒りを鎮めようと固まった喉から絞り出すと、極度に震えた気持ち悪い声が漏れた。自己嫌悪と羞恥から耳まで赤くなった。


 けれど彼女は気にする様子もなく、軽く両手を広げて、


「どう? かわいい?」


 と右に左に体を捻った。


「えっ、あ、え」


 優太朗の目も右に左に激しくきょどった。


 陰キャというのは生まれた時から女の子にかわいいと言えない呪いをかけられている生き物だし、彼女のどこを見ても肌が視界に入ってきて目のやり場がなかったためでもある。


「まあ、よしとしよう」


 彼女はなぜか、童貞の気持ち悪い行動を見たはずなのに、満足気な笑みを浮かべた。きっと後で「あいつマジキモかったんですけど」と仲間内の笑いの種にする気だろう。


 陰口には幼少の頃から慣れている。今さら騒ぎ立てたりしない。ただ黙って背中を向けるだけだ。心の傷に。


 優太朗がココアシガレットを咥えてハードボイルドに浸っている空想をしていると、奏は突然何か思いついたみたいな表情になってから優太朗に言った。


「そのかわり今日から敬語禁止ね」


「な、なんでですか!?」


「だって付き合ってるんだよ?」


 彼女の言っていることはまったくの正論だ。付き合っていることが嘘だということを除けば。


 とりあえず優太朗は思考停止で頷いておくことにした。


「は……Yes」


 途中で敬語だめなんだったと気付いて言い換えたのだが、当然のごとく奏に哄笑された。


「アハハ、Yesて! 普通うんか分かったでしょ。ゆうゆう面白いねっ」


 これもまた内輪の話の種になるのだろう。非常に不服である。


「やっぱり無理しなくていいよ。ありのままで」


 そう言った奏は、じゃあ行こっか、と軽快な足取りで先に歩きだした。


 どうやら昨日みたいに手は繋がないらしい。


 私服の彼女はスタイルがいいし服装もオシャレなので、撮影中の合間にちょっと抜け出してきたモデルのように見える。


 そんな彼女の横に並ぶと、自分の冴えなさやスタイルの悪さが際立ってしまう。光が強いほど影も濃くなるってヤツだ。それに昨日みたいにずっと無言になっても気まずいし、一日中心臓がドキドキと激しく脈打つのも健康によろしくない。なのでこっちの方が自分には都合がいい。


 そう思って奏の数メートル後ろを黙ってついていっていると、彼女は急に立ち止まって振り返った。優太朗は彼女の眉間に皺が寄る前に慌てて駆け寄った。優太朗が横に並ぶと、彼女はまたご機嫌になって歩きだした。


 ショッピングモールの中の映画館に着いた二人は、というより奏は、売店で両手に持つタイプの大きなキャラメル味のポップコーンを買い、二人は真ん中右寄りの座席に座った。


「楽しみだね」


「そうですね」


 もちろん嘘だ。


 今日見る映画は大人気漫画原作の国民的アニメの映画だ。世界一の歌姫のライブにやってきた主人公と愉快な仲間たち。けれどそこには巨大な陰謀が潜んでいて、主人公たちは巻き込まれていくという王道ストーリーに、漫画の人気キャラの登場や劇中歌を大人気歌手が担当していることも合わさって大ヒットとなっている。毎週漫画を楽しみにしている優太朗も当然見に行くつもりだった。


 しかし黒ギャルと一緒に見ることは想定していなかった。


 顔色を窺わないといけない相手が隣にいて楽しめるわけがない。例えるなら、昭和のちゃぶ台返しクソ親父と一緒に食べる夕飯みたいなものだ。こんなことなら人が多いからとか言わずに、さっさと公開初日に行くべきだった。


 はあ、と優太朗が暗い気持ちになっている横で奏は優太朗のことなんか知ったこっちゃねえと、太ももの間に挟んだカップからポップコーンをわしづかみにして口に放り、ムシャムシャと山羊のように美味しそうに食べていた。


 映画前に食い尽くすつもりか?


 優太朗が唖然として彼女を見ていると、その視線に気づいた奏と目が合った。彼女は視線をカップに戻し、滑らかにポップコーンを一粒つまむと、おもむろに優太朗の口に押し込んだ。


 !!!


 優太朗はぎょっとして首を引っ込めた。


 驚きすぎて声が出せなくなったので、無言で相手を凝視することによって抗議するが、奏はそれを嘲るように、


「欲しそうだったから」


 と、へらっと笑った。


「無理しなくていいんだよ。好きに食べたら」


 優太朗はゴクッとポップコーンを飲み込んだ。そしてなんとか否定の言葉を絞り出した。


「いや別に……」


 その時ちょうどシアターの照明が落ちた。


「あ、映画始まる……!」


 奏はもう優太朗には興味ないみたいに前を向いて、わくわくとスクリーンを見つめていた。


 なんて奴だ。こっちの心を乱すだけ乱しておいて知らんぷりだなんて。とんだ放置プレイだ。こんな状態で映画を楽しめるわけがない。


 腹立たしかったが、彼女に口答えすることはできないので、黙って映画を見るしかなかった。



 面白かった……!


 優太朗は照明の上がったシアターで、心に渦巻く感動を噛みしめた。


 横にギャルがいるから楽しめないと期待していなかったが、開始数分で惹きこまれた。まるで会場にいるかのようなライブ、感情移入できるキャラクターのバックボーン、かっこいい戦闘。すべてが完璧だった。


「オトちゃぁん……」


 隣の奏は映画のヒロインの名前を呼びながら号泣していた。


 同じ映画で同じように感動できることに少し親しみを感じた。そしてその感動を素直に表に現すことができる彼女を羨ましいと思った。


 とはいえ人前で子供のように泣きじゃくる人の隣にいるのは恥ずかしいので、優太朗は静かに立って映画館を出ようとした。


「ううぅ……」


 隣の人間に気付かれずに立ち去ろうとするのは土台無理があった。滝のように涙を流す奏は、胸に抱えたカップからポップコーンをわしづかみにしてムシャムシャと食べながら、優太朗についてきた。


「ちょっとトイレ行ってくるね」


 映画館を出ると奏はカップを傾けてポップコーンを口に流し込んでさらえてから化粧直しに向かった。


「お待たせ!」


 数分して戻ってきた奏は、便秘が解消された時みたいにすっきりとした爽やかな笑みを浮かべていた。


 優太朗たちはショッピングモール近くの彼女オススメのカフェに向かった。


「めっちゃ面白かったね!」


「はい、僕もめっちゃ面白かったです」


「オトちゃん、めっちゃ歌うまいし、かわいいし、まじ最強!」


「歌詞もストーリーと合ってましたね。最後の曲なんか特に」


「あ~また泣けてきた」


 奏は指で目尻を拭った。


「僕も思い出したら潤んできました」


 優太朗がそう言うと奏はこっちを向いて優太朗の瞳を覗いてきた。そして、


「どこがだよっ」


「グエッ」


 おもいっきり背中を叩かれた。たしかに優太朗の目はカッサカサだった。けどこんなに背中がジンジンするくらい強く叩かなくてもいいじゃないかと優太朗は思った。


 ただ不思議と嫌とは思わなかった。


 その後も映画の話をしていると、いつの間にかカフェに着いていた。


 オタクとギャル。陰キャと陽キャ。正反対の二人が盛り上がれるなんてアニメはすごいなぁとしみじみと感動した。作者は安倍晴明に違いない。


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