2024/09/07 息を吹き返す美味い飯

長年飢えて育った私は、お金を稼ぐようになった後、美味しいご飯に執着するようになった。


最初はケーキ。

次にパン。

居酒屋。

カレー。

寿司。

行きつけの店ができた所で、そこの店に通ってメニューを食べ尽くす。


そうやって、ずっとまともなご飯を食べられなかった、欠乏を埋めて行った。


実家での最悪の食卓の記憶が自分の精神に大きく影響している事は、自覚していた。

無意識にすら、その影響は侵食していた。

最初はかなり意識しなければ、まともな料理は作れなかったから。


店を調べ、足を運んで。

料理を口に入れて、再現できないか考える。

自分の舌と脳を少しずつ矯正し、長年かけて、辛かった食事の時間を『気楽で美味しい食卓』の記憶に塗り替えていった。


人と話しながら、美味しい物を食べる。

これが幸せでなくて、なんだろう。

この感覚を取り戻したくて、食事にこだわっていたのかもしれない。


中でもひときわ気持ちを緩めてくれたのは、行きつけにする事を許してくれたお寿司屋さんだった。


柔らかく職人肌の江戸前寿司の大将。

私でも通える、良心的すぎる価格設定。

数々の思い出がある、美しい木のカウンター。

店に入った瞬間のかぐわしい寿司ネタの香り。


ご存じですか。

美味しいお寿司を頂くと、体の中に海が出現し、魚が泳ぐような心地にしてくれるのを。


大将の技を堪能すべく、かれこれ10年以上は、数か月に一度、通っていた。

やはり美味しい料理と対話は人を幸せにする、と噛みしめる日々だった。


好きが高じて。

昔からひそかな夢であった定食屋を本格的にやってみよう、と考えもして。

コロナ禍を通じて料理の腕を上げ、週末の間借り弁当屋を開こう、と動いていた。

いよいよ企画書も出来て、場所の候補も見繕い、弁当ケースの発注を考えて。


そんな矢先の事だった。

アニサキス・アレルギー、と診断されたのは。


特にストレスのあった時期、刺身を食べては異常に吐き戻すという事が、二度あった。

もしやと思って血液検査をお願いしたところ、確定診断が下った。


アニサキス・アレルギーとは、海洋生物の魚のはらわたに住む寄生虫のアレルギーだ。

つまり、海の魚が食べられなくなったのだ。

症状の酷い方は魚の出汁すら飲めないという、なかなか過酷な食生活を強いられる。


当然、いきつけの寿司屋に以前のように通う事も、ままならなくなった。

今でもたまに寿司屋に顔を出し、アニサキスが存在しないウニだけのコースをお願いしはするが、魚は一切頼めない。


星鰈も、墨烏賊も。

桜鯛の押し寿司も、づけも。

大トロも、いくらも。

ヒラメも、トリガイも。

魚のすり身の入った卵も、ボタンエビも。

ますのすけも、鰻も、あなごも。

締めのトロたくも。

今まで、殆ど踊りながら頂いていたネタたち。

ほぼ全て、口にできなくなってしまった。


当然ながら、週末間借りで出そうとしていた弁当屋の話も、白紙に戻した。

満足には出汁の試食ができない人間に、人様にお出しする料理は無理だろう。


十代の頃からひそかに持っていた夢の一つを、私は静かに諦めた。


身体の中で鮮やかに泳いでいた魚たちは、地引網で根こそぎ水揚げしまったかのように、根こそぎ私の人生からいなくなった。

美味しい料理も、ささやかな夢も、頼みにしていたストレス解消方法も、同時に消え去った。


魚のいる海が、塩素の香りのするプールに変わってしまったような、そんな感覚だった。


両親という大きなストレスを抱える私に、これ以上ストレスを与えなくても良いものだ、とは、流石に思う。


分かっている、実際は逆なんだろう。

ストレスを抱えすぎて、身体に支障が出ている、それだけ。


―――家族を捨てればいいのか?


少なくとも、それを決めるのは私だ。

断じて他人ではない。

神様ですらない。

結論はまだ、出していない。

すぐに出す必要はないとも考えている。


* * *


さて、そこから一年半が過ぎた、昨日の事だ。


アレルギーを考慮してもらうのが申し訳なくて訪問を遠慮していた、とある店に行った。

野菜だけでコースを仕立てて数日間限定で出してくれる、と聞きつけて。


本当に久しぶりに、五感全部で美味しかった。


凝っていた魂から不意に手足がにょきにょき生えてきたような、珍妙で陽気な気分で、この文章を書き残している。


生のモロヘイヤにとんぶり。

アボガドのソース。

炭火で焼いたとうもろこし。

トウモロコシの実とバナナとトンカ豆、そしてコブミカン。

ピーマンの炭火焼、発酵キウイと豆腐。

大きなマッシュルームに、コーヒーを少しまぶして揚げられたもの。

無花果と生の落花生のソース。

野菜づくしのプレートのにぎにぎしさ。

デザート二種も、また美しかった。

デザートのクレソンとメロンの鮮やかさ。

三種のかぼちゃのデザートの、華やかな事。


ペアリングで駆け抜けていった水出しのお茶たちも、見事であった。

スモークアーモンドにジャスミン茶。

ルイボスとクランベリー。

うきは茶と実山椒。


脳が喜んでいるなと思ったら、遅れて身体の細胞の隅々に届くような、不思議な感覚。

追加で頂いた、半月型のオレンジの浮かんだジャスミン熟茶のカクテル、あれも良かった。


本当に全部が楽しく、美味しかったのだ。


久しぶりに、使っていなかった心身の箇所が、こそこそと動き始めた気配がある。


やっと、アレルギーで失ったものに気づいた。

四季だ。

私は寿司屋の大将の握る寿司で、旬を摂取していたのだった。


大将曰く、海の方が季節がワンテンポ早くめぐってくるそうである。

冬には春らしい魚が、夏には秋らしい魚が出回るそうだ。鰆は冬の魚だそうで。


あの旬のエネルギーを頂いて、私は世間と渡り合っていたのだ。


激務と家庭の負債を抱え、私には余裕がない。

せめて、海の旬をまとったネタを身体に取り込んで、そうして生物としてのバランスを保っていたのだと思う。

その寿司が口にできなくなって、大げさでなく生命の源が、ぷつりと絶たれていたのだ。


道理で、この一年半、生活がやけに味気なく、単調で早く過ぎ去る訳だった。

つい最近まで、自炊もやる気が出ずに、判で押したようなものしか作れなかったし。


埋め合わせは不意に、こうやってやってくる。

拝みたくなるような人の善意に乗って。


帰り道、口にしたものの余韻が体の中でキラキラと膨らんでいく感覚があった。

温かい気分で食事をしたのは久しぶりだった。


ああ、歳をとったから、満ち足りた感覚が失われた訳ではなかったんだ。

季節を五臓六腑で身体に取り込む、この心地よさを、この一年半、諦めていた、返ってきた。


食事に期待しないなんて、勿体無い事をした。


シャンパン色と赤、二色のご機嫌なスカイツリーを脇目に、私は自分の人生を反芻した。


私はとうに、実家から、両親の軋轢から、彼らの支配下から、自力で抜け出している。


だって、『料理から四季を全身で味わう』なんて気持ちのいい感覚は、半分は祖父の野菜が、半分は自分で食べ歩いて作ったのだから。


今も脳裏に残る酷い食卓は、過去だ。

遠い遠い、ただの思い出なのだ。


泥水とレモンを不均等に混ぜて、ゴムで煮締めたような料理たち。

誰もが黙って口を動かす、あの緊張。

一度両親が口火を切ったが最後、金切声と嘲笑が響き渡る。

全部、もう終わった物語だ。


私のアレルギー事情をお話ししたガストロノミーの皆さんは、今度店の看板料理の鴨だけのコースをやって下さる、と約束して下さった。


ありがたい。

決して捨てたものではない。

人生も、自分も。


随分遠くまでやってきた事を、今は寿ぎたい。

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長い生活の話 加藤三無 @katosanmu

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