長い生活の話

加藤三無

2024/4 日常をもがく

1999/08/30 まずい飯、チューペットの柄の一滴、そして氷

題目の通り、これからまずい飯の話を書きます。


後味最高、という話ではないので、もう一つの『息を吹き返す美味い飯』とセットでお読み頂ければと思います。


読んで下さる方が、どこかで温かく、なるたけ美味しいご飯を食べられますように。


* * *


子供の頃、母の言いつけは絶対であった。

母は美人で、それなりにいい大学を出ていた。

勉学も出来る方であっただろうと思う。

幼少期、母を尊敬していたのを覚えている。


ただ、今から振り返ると、母は殆どの分岐点で間違った判断をしていた。

気立てが宜しくなかった。

不安に駆られる癖もあった。

彼女の思い込みと激情は、長らく私と弟の人生を圧迫し、幾つかの大事な局面で、家族の心を折った。


彼女にも言い分はあると思う。

大負けに負けた表現を採用するならば、母はキャパオーバーだった。

九州から東京に出てきて、誰の助けを借りる事なく子育てする不安。

不安を強迫観念と八つ当たりで払拭する日々。

今思えば彼女の行動原理はそんな所だった。

ほんの少しだけとげのある言い方をお許し頂けるなら、幼稚だった。


常々不安を抱えていた母は、しばしば家庭内で理不尽の源となった。

理不尽の一つが、極端な節約であった。


吝嗇家の父の奨励を受けて、彼女は家族の人生の楽しみを根こそぎ削る勢いで、財布の紐を締め続けた。

それは人権が無くなるレベルの倹約だった。


洋服は全て従兄弟のおさがりだ。

年に一度新しい服を買って貰えればいい方。

文房具やノートを新調するのに、お伺いを立て、文句と共に小遣いを受け取らなければならなかった。

年に一度も、旅行に行く事はなかった。

私の小遣いは、高校まで一月500円だった。

たった500円。平成の話だ。


私は長年、親戚からもらったお年玉を切り崩して、友人と遊びに行っていた。

それでも貯金をしていた。

子供心に命の危険を感じていたから、持ち金を野放図には使えなかったのだ。

その金すら、一度親に盗まれた。

受験前に塾に入れて貰うのも極端に遅かった。

友人の誕生日は、ゲームセンターでクレーンゲームをして賄った。

好きな本を買う事が出来るようになったのは、大学に入ってからだ。

誰に相談しても一蹴された。

父にはそれなりの稼ぎがあったので。


金銭的な虐待は、諦めがつく。

だが、食事まで悲惨だったのだけは。

これは、今に至るまで看過しがたい。

そう、極端な節約は、毎日の買い物にも適応されたのだ。


母の手料理は、それはそれは、不味かった。


祖父が送ってくれる野菜と果物以外に、満足に食べられるものは食卓に上がらない。

最安値の食材にない腕を掛け合わせた、何か。

料理が苦手な人間の御多分に洩れず、減塩派。


食事の時間は最悪だった。

べたべたとした食卓。

茶色くなってカビの浮いた布巾で拭く。

生にえの古い野菜や、外が焦げて中が生焼けの肉が並べられる。

ああ、嚙み切るなり血の浮かぶ唐揚げ。

古い鶏肉の、味のしないぶよぶよの皮。

生焼けのさんま。

尾が干からびる程に焼け焦げたいわし。

水気を絞らず、水たまりの中にあるサラダ。

腐った、悪くなった食材も、平気で出てきた。

腐った蕪の味噌汁は、一生忘れられない。


節約の結果だから仕方ない。

それが彼女の一貫した主張であった。

彼女は絶対だった。

何故絶対かは、誰も理由を持っていなかった。

ただ、彼女と関わるのが面倒だったから、誰も掘り下げようとはしなかった。


もう少しだけ何とかしてほしい、せめて既製品を出してほしいと伝えると、母は激昂した。

私は一生懸命にやっているのに、と。

それは分かる。分かるのだ。だが。


いきり立つ母に向けて、子供が取りうる対応策は、何もない。

私が調理場に立つのも、蛇蝎のごとく嫌った。

専業主婦としての自分の役割を奪われるのが、恐ろしかったのだろうと思う。

高校の頃まで、私は本を読みながらしか、家で食事が取れなかった。

意識を逸らさなければ食べられない程だった。


『お金がない』我が家には、外食の選択肢はない。お菓子も、殆どなかった。


唯一存在していたのが、チューペットだ。

今も一般的なのだろうか。

縦長のソフトなプラ容器に果汁が詰められている、棒状のシャーベット。

真ん中で割って食す、あれだ。

少し溶かした後、縦長のプラ容器を少しずつ押して、シャーベットを口の中に押し出して食べる、あのアイスである。


今から思えば、あれは母の趣味だ。

氷菓子が好きだったのだ。

だが、節約を家族に強要する手前、高いアイスは買えない。

妥協案としてのチューペット。

10本、100円前後。

一回で食すのを許されるのは、パキッと割った半分のみだった。ここでも節約が顔を跨げる。


チューペットを割る時、弟と私は必ずじゃんけんをした。

真ん中で割ると、このアイスは柄のない方と柄のある方に別れる。

柄のある方が欲しくてたまらなかった。

柄の分だけ、果汁の容量がほんの少し多いから。


子供の体温は高い。

食べ終わる頃には、柄の部分のシャーベットは溶けて果汁に戻ってしまう。

あの最後の部分を、ちゅうちゅうと最後に啜るのが、ほぼほぼ唯一の楽しみ。

そんな時期が、確かにあった。

吸い過ぎて口の中がビニールの味だけになっても、暫く吸っていたっけ。


残念ながら、この話はここでは終わらない。

子供は自力で惨めな生活を止めうる力がない。

原因を作る大人は、原因を作り続ける。

芋づる式、底なしの惨めさだ。


母の気まぐれで与えられたチューペットという楽しみは、父の気まぐれによって破壊された。


いつの頃からだったか。

弟と二人でチューペットを楽しんでいると、意地汚い父がやってきて、取り上げて平らげてしまう、という事が続いた。


彼は好んで、柄のある方を横取りした。

皆が好きなぶどう味が先に消えてしまう、という事も良くあった。


彼は自分が一番美味しい物を食べる当然の権利がある、と思っているようだった。

私たちが怒ると、彼は平然と言い放つ。


「暑いから食べた。パパが稼いだ金で買ったんだから、当然だろう」


そういう事が続いて、

ある日、母が対処をした。

単にチューぺットを買ってこなくなったのだ。

弟と私の殆ど悲鳴のような抗議は、母にも黙殺された。


「だって、喧嘩になるでしょう」


彼女はあっさりとそんな事を言って、それ以上聞く耳を持たなかった。


母は単に、父をいさめるのが面倒だったのだ。

単に、チューペットに飽きたのかもしれない。


弟と私は、暫く製氷機を開けては、チューペットが入っていない事を確認していた。


翌夏。

私は製氷機の氷をひたすら齧りだした。

まだ小学生だった。

気を紛らわしたかったのを覚えている。


今思うと、冷凍庫の中にチューペットがない事を、愛情の在庫切れのように感じてしまっていたのだと思う。


製氷機を開ける。

今日もない。

今日もまたない。

それでもチューペットが入っていないか、確かめずにはいられなかった。


そのうちに、ふと音を立てて現れる氷が美味しそうに見えて、食べたのだ。


氷を食べても余り文句は言われなかった。

水道水で出来た氷は、殆どただだったから。

毎日食卓に上がる料理のように、酷い味もしなかった。


母はそんな私を見て、長らく笑っていた。

「何だ、氷で良かったの。安上がりでいいわ」


父はこういう時に訳知り顔で子供の肩を持つ。

「買ってやりゃいいじゃないか」

そういいつつ、何もしない。

彼もただ笑っていた。


弟は黙っていた。

私の愚行を見て、諦めの悪い奴、と思っていたかもしれない。


お金がなく、言葉を知らなかった私にとって、氷を食べ続ける事が、唯一出来る抵抗だった。

惨めではあったけれど、現実を凌ぐ方法。


時折、うらびれた高揚を思い出す事がある。

子供の影が大人の背丈より長くなる夕方、誰もいない台所で製氷機を開ける。

氷の粒がかしゃっと音を立てて転がる。

白い水蒸気と共に、保冷材の香りが広がる。

そっと一粒掴んで口に放り込む。氷が口の中でひっつき、ぱりぱり、とひび割れる。


一年ほど狂ったように氷を食べ続けた後、ある日ふと我に返り、食べるのを止めた。


今でも冷凍庫で氷を作る事は出来ないでいる。

チューペットを買う事も、もちろんない。

アイス全般が苦手なままだ。


ただ、飲み物に入った氷を見ると、どこか気分が安らぐのを感じる。

氷を奥歯で割って頭蓋に響く音を、口の中に広がるきつい水道水の味を思い出す。


あれは母の言いつけの枠外に逃れた私が初めて口にした、自由の味だった。

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