第22話 マテルランクの想い人(下)

 特殊な成り立ちの隠れ村であるここマテルランクに住む人々は、人種から出自から見事にバラバラだった。強制労働から逃げ出した者の子孫もいれば、先祖は大国の貴族だったという者もいる。よそではなかなか見かけない亜人の姿も多かった。村営浴場の管理人はホースマン……馬の半身を持つ亜人の一族で、さらに希少な【翼持ち】だった。ホースマンが翼を持って産まれる確率は低い。翼持ちが両親であっても、そうでない夫婦の間でも、子供が翼を持つことは非常に稀だ。

 遥か古代のホースマン一族には、必要に応じて後天的に翼を授ける儀式があったという。だが時の流れの中にそれは失われた。本当にそんな儀式があったのかすら定かではない。

 村にひとつしかない酒場を営んでいるのはオークのドグ一家で、クラウスは初めて友好的なオークという存在を知った。彼らは独自の価値観と信仰を持つ亜人で、基本的に人間を含む世界の大半と敵対している種族だったからだ。

 「さすがにゴブリンやコボルトはいないか」

 村を一回りして、酒場で一杯やりながらリックレックは言う。バーディ(鳥人)もいなかったがキャッティ(猫人)はいた。なかなかにバラエティに富んだ村だなとリックレックは思う。

 「おっさんはここ来て何年?」

 「俺は親父がここに越してきたからの子供で、ここの生まれだ」

 「ほお」

 昼間の酒場は、もう隠居しただろう老人たちがたむろする集会場になっていた。テーブルにはそれぞれ何人かの老人たちが幸せそうに語らっている。種族も服装もまちまちだが、みな一様に楽しそうにしている。

 「ある意味理想郷だよなここ」

 「親父もよく言ってたよ。人間やエルフと仲良くだなんて、表じゃ考えられなかったとさ。俺なんかはそうするのが当たり前で育ったから、余所のオークがどう生きてるかの方が判らんがね」

 「でも神様はオママ信仰なんだな」

 棚に飾られている木彫りの神像を見てリックレックは言う。勇ましい獣神オママは、オークの神話群の中で重要な位置にいる神だ。人間からは邪神とされている。

 「こればっかりはな。多分この信仰が、俺に残った最後のオークの部分なんだろう」

 「いいんじゃねえの?神様なんて信じたいものを信じればいいんだよ。選ばれなかったからって拗ねる神様なんていやしない」

 「違いないな」

 リックレックが昼間から酒を飲んでいる頃、メリルは村の雑貨屋で好奇心を満たそうとしていた。

 「私も元々冒険者でね」

 丸い眼鏡をかけた店番の男エルフは静かにそう言った。

 「色々あって、仲間と別れてここに残ったんだ」

 「お仲間はどこへ?」

 「さあ、どうなったろう。もう百年前だから」

 ああ、人間ならもう死んでいるだろう。足跡を辿るのももう難しい時間が経っている。

 「たまによそに仕入れにも行くけれどね、昔は流しの魔法屋もしていたから、魔法販売業資格が無期限で助かるよ」

 「ああ、判ります。私も前に流しをしてたことがあって」

 「へえ、そうなんだ。いいよね旅って。色々な景色に、色々な人々に触れてさ」

 遠く懐かしい光景を慈しむように彼は言う。

 「でも僕はここで手に入れてしまった。たぶん僕の旅は、ここに来るためにあったんだ」

 「あらお客様?」

 店の奥からエルフの少女が姿を現す。

 「いらっしゃい」

 「あ、ども」

 「パパ、ママが帰り少し遅くなるって」

 「判った。さ、早く戻りなさい」

 「はーい」

 「こら、家の中は走らない!」

 ああ、お子さんなんだとメリルは思った。家を出ていく勢いの良い足音と素直な声色に、きっと大事に育てられているんだろうなとメリルは思う。兄も妹も、父も母もいつもキラキラしていた。私はそのキラキラにいつも劣等感を抱いて、ああはなれないと思って村を出たけれど、それはひょっとしたら考えすぎていただけかも知れない。

 「全くお恥ずかしい。妻はこの村で教師をしていまして」

 彼は静かに言った。

 「たぶんあなた方も村長に招かれたのでしょう?私のいたパーティーもそうでした。私はここで妻と出会い、そしてここに残りました」

 カウンターの上につつつ、と指を走らせて彼は続ける。

 「人の幸せとは何か。村長の問いへの私の答えは、きっとここの生活だと思います」

 ああ、この一家は幸せなんだろうなとメリルは思った。窓の外をさっきの女の子が走っていくのが小さく見える。風の精霊の躍動感そのものに見えた。



 「伝えて来たよー」

 勢いよく教室に戻って来た少女は元気よく言う。

 「こら、廊下も教室も走らない!」

 まだ休み時間は残っている。黒板の横、教員用の椅子に座るエルフは娘を軽く叱った。

 「だって、私もお話聞きたいもん!」

 興味本位でこの村の学校を覗いていたクラウスとフレインは、不審者として教師から魔法による拘束を受け捕まった。彼と彼女が村長の招きを受けた冒険者であると判明し、不審な侵入者だという誤解は無事解ける。そして二人は子供たちの興味の的となったのだ。

 求めに応じて、クラウスは旅立ちから今までの旅をかいつまんで話した。村が消滅したこと、冒険者として旅に出たこと。そして誰かが何かの目的で、古代の力を集めていること。聖王国の王子とも共に戦った話をすると、教室内の女子がきゃーっと黄色い歓声を上げた。

 「王子様って誰?王太子のリチャード様!?」

 「ううん、第三王子のヘンリーク様よ」

 フレインは道具袋から魔法の石板を取り出して、並んで撮った写真を見せる。

 「わーかっこいい!」

 「これが私とクラウス、こっちが仲間のマガリアとメリルで、このはしっこがリックレック」

 撮影から逃れようとして、ちょっとブレてしまっているリックレックを差してフレインは笑った。

 「魂が抜かれるから嫌だ、なんて言うのよ」

 「迷信だね」

 「このおじさんが騎士団長で、こっちの女の人が大司祭さま。みんなとってもいい人よ」

 「騎士団長ってやっぱ強えーのか?」

 ドワーフの少年が興味津々に訊く。

 「すごかったよ、魔狼の群れを一人で追っぱらったんだ。王子様も強かったけど、団長はもっと強かった。剣の稽古をつけてもらったけど、冗談じゃなくて木の枝相手に負けた」

 クラウスの言にうおおう、と今度は男子が騒ぐ。

 「僕らの旅の目的は、消えてしまった村のみんなを探し出すこと。だけどどうも事情が複雑みたいで、今は古代の力を持つ神器を探しているんだ。その途中」

 そこで教師のエルフがぱんぱん、と手を叩く。

 「はい、そこまで!休み時間は終わりです、席に戻りなさい」

 生徒たちはしぶしぶ席に戻る。教師はクラウスとフレインに微笑みかけた。

 「二人ともありがとう。もし良かったら、授業に参加していく?」

 「いえ、仲間のところに戻ります。お騒がせしました」

 頭を下げて、クラウスはフレインの手を取り学校から出た。その手が熱い、とフレインは思う。

 「ね、クラウス」

 「うん」

 「きっと見つけようね。そして行こうね、私たちの村の学校に」

 「うん」

 クラウスもフレインも涙が出そうになる。突然に奪われた日常。当たり前にあったものが当たり前でなくなる現実。取り戻すんだ、取り返すんだ。お互いに残された最後の希望と共に。



 「意外にいい武器揃えてるじゃん」

 武器鍛冶の品揃えを見ながらマガリアは言う。

 「結界で色々防いでるんだろ?そんなに必要あるのかね」

 「なんでも防ぐってわけじゃないからな」

 老ドワーフは、マガリアの背の斧をちらちら見ながら答えた。

 「悪意だの害意だのってのは、本能で生きてる魔物やら獣にゃ関係ないからさ」

 「基本食い気だけだもんな、ああいうの」

 「人間の方がよっぽど扱いやすいな。……それ、あんたが打ったのか」

 それ、が背中の戦斧のことだと気づいたマガリアは振り向いて、老ドワーフに笑顔を向ける。

 「ああ、見てみるかい」

 「そうさせてくれるか」

 戦斧を老ドワーフに渡して、マガリアはもう一度店の中をぐるりと見まわす。古い建物はおせじにも手入れが行き届いているとは言えないが、陳列された武器には塵一つない。

 「いい出来だな。その若さでこれだけの腕とは見上げたもんだ」

 「まだ満足はしてないんだよ」

 いつか思い通りの斧を打てるようになったら、どこかでこういう店でも開こうか。そんなマガリアの前で、老ドワーフの目が斧の柄に埋め込まれた深紅の宝玉で止まる。

 「こりゃただの飾り石じゃないな、ひょっとして」

 「ああ、魂の石だよ」

 事もなげにマガリアは言う。

 「そいつのお陰で戦いは結構楽になるんだ。斧の出来とは全く関係ないけどね」

 「だろうな。欠片だけでも高価なものだ、これほどの石となると想像もつかん」

 斧をマガリアに返して寄越す老ドワーフ。

 「ま、それのお陰で旅を続けてるんだけどな」

 戦斧を背負い直して、マガリアは軽く右手を上げた。

 「邪魔したね」




 「まあ概ね平和な村ってことでいいんじゃないか」

 面倒くさそうにリックレックが言う。ここは村にひとつの酒場の二階で、宿になっている。六つのベッドが並ぶ部屋で、めいめい自分に割り当てられたベッドの上に思い思いの姿勢を取っていた。

 「村長があれってだけで、よくある隠れ里だな。まあ隠れ里なんて滅多にあるもんじゃないけど」

 ベッドの上に胡坐をかくマガリアも口調を合わせる。

 「そうだね、そしたら食料の補充だけして明日出ようか」

 うつ伏せに寝転んだクラウスも、起こした上半身をひじで支えながらさっぱりした顔でそう言う。

 「温泉あるっていうし、僕入りたいな」

 「風呂の管理人の馬ねーちゃん、美人だったぞ」

 下卑た顔でリックレックが言う。

 「さながら亜人大集合って村だ。よくもこんだけの種族が集まったもんだと感心したぜ。南の入り江には人魚が村ごと引っ越してきたとさ」

 「なのに近くの村には噂一つなかった。この結界術のせいかな」

 「それだけじゃないさ」

 仰向けになり、天井を見つめたままのメリルの問いに答えるのはマガリアだ。

 「みんなもうここを追われたら行く先がない。それを知ってるから余計なことはしない。見つからないようにしてる。店の仕入れも行商も、わざわざ山三つ越えた先まで行ってるそうだよ。ご苦労な事だけど、それだけここを守りたいんだろう」

 「そういうのを知れば」

 ベッドにちょこんと正座するフレインが、静かに言葉を紡ぐ。

 「……私たちみたいな冒険者も、黙っていたいと思いますもんね」

 「そうだね。そして本当に困ってる人にだけ、教えてあげてもいいとも思う」

 ああクラウスはいつも優しいな、とフレインは思う。自分が思っていても言葉にならない部分を、いつも言葉にしてくれる。

 「まだ晩飯の時間には早いから、温泉入るなら入って来いよ。俺はもう入ったからいいや」

 「いつの間に」

 「斥候は俺の役目だからな。美肌効果もあるってよマガ」

 「うっせ、余計なお世話だ」

 リックレックの軽口に軽口で返しながら、マガリアはふと何かおかしな感覚に気付いた。仲間に目を走らせる。大の字に寝転がっていたメリルがいつの間にか杖を両手に握り虚空を見つめている。フレインも錫杖を手に立ち上がった。

 「何か来る」

 鋭く言ってリックレックとクラウスが脱兎の如く部屋を飛び出す。斧を手にマガリアも続き、その後をメリルとフレインも追った。

 酒場の前に出る。西の空に何か不吉なものを感じるメリルは、小声で杖に念じて物理と魔法への防御魔法を仲間たちにかける。

 「こっちだ」

 村の西側に向かって走るクラウス。空から何か、よくないものが来る。悪意はない、害意はない。純粋によくないものだ……

 村の西側は少し開けた野原になっていて、そこには既に村長がいた。そして彼と対峙している異形。禍々しくも美しい、とクラウスは思った。

 「久しぶりねミスルカ。ずっと探していたのよ」

 それは言った。まるで風に揺れる鈴の様な、可憐な声に聴こえた。

 「なぜだ、君は魔界に帰ったんじゃないのかルビーナ」

 「私にはあなたが必要なのよミスルカ。なのにどうして呼びかけに応えてくれなかったの?私の声が届かないはずはないわ」

 「帰れ!私はお前に用はない、お前と共に行きはしない」

 「でもいいわ、こうして再会できたんですもの。さあ、共に神のところへ行きましょう」

 「話の通じない元カノかな」

 リックレックがダガーを手に言う。

 「あいつは……私がまだ族長候補の筆頭だった頃に、親が決めた許嫁です」

 伸ばした手から力場を生み出すミスルカ。

 「ルビーナ、婚約は正式に破棄された!君は皆と魔界に帰ったはずじゃなかったのか!?」

 「そんな親同士の勝手な約束なんて知らないわ。私はあなたが欲しいだけ。私のものにならないというのなら、あなたの力だけを得て、神を再びこの世界に引き戻す。そうして全てをやり直すの」

 ルビーナの全身から放たれる圧力が、じりじりとクラウスたちを押す。物理的に、そして精神的に。メリルが防御魔法のシールドを張るが、それを通り抜けて作用してくる。

 「神だと!?」

 「神の望みは刻戻し。そして神と私は何もかも取り戻すのよ。力を、体を、心を、想い人を」

 「いかん、マガ、周りを見ろ!」

 リックレックが叫ぶ。周囲の茂みに光る目が見える。ルビーナの瘴気に当てられて、周囲の魔物が続々と集まりつつあるようだ。

 「ちっ、村に入れるわけにはいかないね」

 戦斧の柄の宝珠を撫で、マガリアは横一文字に空気を切り裂いた。ルビーナからの圧力を切り裂いて、マガリアは魔物の群れに飛び込む。

 「反対側は僕が!」

 クラウスも剣の鍔に埋め込まれた宝珠に触れ、圧力を斬り魔物に向かう。

 「これは攻撃魔法じゃない、呪いです!だからこれで!」

 フレインは叫び、杖の宝珠に念じる。解呪のフィールドが彼女を中心に数メルテ展開し、メリルとリックレックも圧力から解放された。

 「私はずっとあなただけを見ていたのに、あなたはあんな人間なんかに心奪われた。でももうあいつはいない、あなたと悠久の時を共に生きられるのは私だけ。戻ってきてミスルカ」

 「……お前は、今までに一度でも私に愛を囁いたかルビーナ!?今頃になってそれを信じられるか!」

 「やっぱりそんなことを言うのね鈍感男、仕方ないわ。ならばまずこの村を手始めに、世界の生命を滅ぼしましょう。雑音共がいなくなれば、きっとあなたも正気に戻る」

 「私は正気だルビーナ。私は、そうやって自分たち以外の生命の重さを一顧だにしない、魔族の価値観が嫌なんだ!」

 「だから……一族を捨てたの?」

 「そうだ」

 「だから……私を拒むの?」

 「そうだ」

 ミスルカはじっとルビーナを睨む。

 「魔力補給の効率がいいから人を喰う?私は人など喰わなくても魔を蓄えて来た。脆弱だから、短命だから下等で粗雑に扱う?では、神は我々をどう扱うというのだ!?」

 「詭弁を!」

 ぐわっ、とルビーナの魔力が膨れ上がる。ミスルカの魔力をも圧倒的に包み潰さんと盛り上がったオーラは、周囲の木々などわけもなくちぎり倒す。

 「ひゃーおっかねえ、よく聞けば痴話喧嘩じゃないかよ。しかも一方通行でツンしかなかったっぽいな」

 「ちょっとリックレック、私に隠れないでよ!」

 「仕方ないだろ、スカウトの俺に、この状況で何が出来るってんだよ」

 跳ね飛ばされて来る木片や石を、防御フィールドの角度を変えて跳ね飛ばすメリルとその後ろに隠れるリックレック。

 「私と来いミスルカ!!私を愛せよミスルカ!!来ないならこのまま、ここでお前をすり潰して血の力だけ貰うッ!!」

 「そんなこと」

 ぎりっと歯が鳴る。ミスルカの抑え込まれていた魔力が、一気に膨張する。抑え込んでいたのはルビーナの魔力ではなく、ミスルカ自身の意思……

 「お前ごときにできるものか!!」

 ミスルカの叫びと共に周囲は光に包まれた。リックレックは右腕にメリル、左手にフレインの体を抱くように飛びついて二人を地面に伏せさせる。マガリアも咄嗟に地面へ伏せたが、ミスルカに背を向けていたクラウスは一瞬気づくのに遅れて吹っ飛ばされた。

 二十メルテほど吹っ飛ばされたクラウスが体中の痛みに耐えながら立ち上がると、既に周囲から光は消えていた。ミスルカを中心とした十メルテほどからは草も木も全て消し飛び、地面さえも抉れていた。

 これは、村と同じだ。その光景を見てクラウスは思う。えぐれ方は浅いけれど、これは。

 「じゃあどうすれば良かったのよ」

 その声にリックレックははっとした。ルビーナはまだ生きている。

 素早く起き上がり周囲に目を配る。立ちすくむミスルカと、その前に仁王立ちする若い女性の姿が見えた。

 「あれが本体なのか」

 リックレックは呟いて油断なくその女性を観察する。魔力のオーラのようなものは見えない。

 「そりゃ素直になれなかった私も悪いわよ。なのに一方的に婚約破棄されて、人間に入れ込まれて。何よそれ当てつけ!?」

 「婚約破棄はお前の家から出た話だ!人間の観察だって、あれはムスリクの指示だ!」

 「二人で楽しそうにパンなんか捏ねちゃって」

 「なんで知ってるんだ」

 「私にはリュートなんて聴かせてくれなかったくせに」

 「楽器などくだらないと言っていたのはお前だろう」

 体中の埃を払いながら、マガリアとクラウスはメリルとフレインを助け起こした。

 「なんだあれ」

 言い合うミスルカとルビーナを呆れたように見るマガリア。リックレックがうんうんと頷きながら口を開く。

 「いいかフレイン、よく見ておけよ。言葉と態度に出さずに伝わらないままこじれると、ああなるって見本があれだ」

 気付けば魔族の男女ともにその魔力の放出はしておらず、さっきの光で集まっていた魔物もどこかに消えていた。

 「とにかく」

 メリルが二人にすたすたと近寄る。

 「二人とも、一度落ち着いて頭を冷やしましょう。ね?」

 ルビーナがこくりと頷いた。ミスルカは目を合わせようとはしなかった。




 村営の温泉施設は、混浴ではない。

 なので、あの衝突で土埃にまみれた七人は。男性陣と女性陣に別れてそれぞれ体の汚れを落とすことにした。

 「あんたも常に冷静ってわけじゃないんだな」

 リックレックが笑って言う。そこに含みはない。

 「それは、まあ。私は村長ですから、村民に危害を加えられるのは、その」

 「まあそのへんは置いといてさ。あのルビーナっての、どう思ってたの?」

 「彼女は、元婚約者です」

 「ほー、それで」

 広い浴槽にゆったりと身を預けて、続きを促すリックレック。

 「私の集落には複数の有力家系があって、順番に族長家に嫁ぐしきたりがありました。そして私と彼女か許嫁となりましたが、この世界にやってきた私は、人を喰うことを拒否したために長を継ぐ資格を剥奪されたのです」

 「それで婚約破棄と一族内の冷遇ってことか。これがあんたの身の上話の前にくっつくわけだな。こらクラウス、湯船にタオル入れんな」

 浴槽にタオルを入れ、泡をぶくぶく作って遊び始めたクラウスを窘めるリックレック。

 「でさ、どうだったの、あの娘と」

 「子供の頃はたまに父の公務の時に顔を合わせる程度でしたし、こちらに来ても婚約の話がなくなるまではほとんど話もしたことはありませんでした。弟が正式に一族を継いだあたりから話をするようになったと思います」

 「どんな話?」

 「基本的には罵倒と嘲笑でしたね。まあ似たようなことは陰口で誰もが言っていましたから、はっきり悪意を向けてくる分ましだという認識でした」

 うわー、という顔をするリックレック。

 「何かこう、デレるエピソードとかないの?」

 「デレる、とは?」

 「なんていうのかな、例えば転んだあんたに手を差し出して【別にあんたのことが心配なんじゃないんだからねっ】とかそういう感じの」

 「ないですね」

 あっさり答えるミスルカ。

 「嫌がらせはされましたね、人喰いの強要とか私の領地に入れろとか。消し炭みたいになったパンを食えと脅されたこともあります」

 「うーん」

 それって超絶不器用なデレだと思っていいのか?しかしさっきの様子から見ると、たぶんデレと判断していい気がする。

 「で、だ。あんた自身はあの娘のことをどう思ってるんだ?」

 「どう、とは?」

 「まあなんでもいいから、思いついたことを言ってみな」

 「はあ」

 ミスルカは冷水でゆすいだタオルをきゅっと絞ってから畳み直し、頭に乗せて浴槽に入る。

 「彼女が魔界に帰っていなかったことは驚きです。一族の魔法陣はもう、ゲートを開くだけの力はないでしょうから」

 「ふむ」

 「魔族らしい女性だとは思います。知性も魔力も容姿も価値観も、全て破壊と殺戮に適した一級品です」

 「そこかな、その価値観。人を喰うのもあんたを見下すのも、全ては魔族の価値観と一族のヒエラルキーによるものだ。それにあんたは反発してる。しかも突然すぎる求愛だ、何もかも信じられるわけがないときたもんだ」

 「その通りです」

 水面に映る照明の光を見ながらミスルカは言った。

 「でさ、ここでちょっと考えてみようか」

 「考える?」

 「もしあの娘がそういったものを全部捨てると言ったら、あんた受け入れるかい?」




 一方、女湯では。

 「よしフレイン、あんたまず行け」

 「えっ」

 「だいじょぶよ、あの人魔力尽きてるみたいだから。危なくなったら助けてあげるし」

 マガリアとメリルは無責任にそう言うと、それぞれ自分の体のメンテに入る。フレインはため息をついて、洗い場の鏡の前に腰掛けて無言でいるルビーナの隣に座った。

 「ど、どうも」

 ちらり、とフレインを見てまた視線を鏡に戻すルビーナ。

 「あの、その、ミスルカさんとルビーナさんは、結婚の約束をしてらしたんですか?」

 「私は別に……父の命令だけで結婚を決めたわけじゃない」

 なんだか質問と答えがずれてる気がするな、と思いつつもフレインは言葉を続けた。

 「つまり、ルビーナさんはミスルカさんのことが好きだったんですね?」

 「過去形で言うな」

 「あ、はい」

 つまり今でも好きなんだな、とフレインは思いつつも、なんだかくたびれそうだなとも思った。

 「それでその、気持ちを打ち明けたことはあるんでしょうか」

 「そんな恥ずかしい真似、できるものか」

 ぼそっと答えるルビーナ。

 「恥ずかしい?」

 黙ってしまった。下を向いて泣きそうな顔をしている。どうしようどうしたらいいんだろう、とフレインは焦る。私みたいな子供には無理だよ。

 おろおろしながら振り返る。マガリアがニヤニヤしながら近づいてきた。

 「あのさお嬢さん。気持ちってのは言葉にしないと伝わらないんだよ」

 びくっ、とするルビーナ。

 「さっきのやりとり聞いてて思ったんだけど、あんたあの村長にベタ惚れしてるじゃん。なんで言わないの?立場とかプライドとか?それとも、男の方から告白させたかった?」

 こくん、とルビーナが頷く。マガリアさんすごい、とフレインは思った。

 「それで思いつめて、結局あんな風に迫ったんだ」

 また頷く。

 「可愛いねあんた。親父から、相手が族長でないなら結婚すんなって言われても一途に想い続けて、この世界に残ってまで探し続けてたんだろ?」

 ルビーナの瞳から大粒の涙がぽろぽろ零れる。

 「聞かせてごらんよ。あんたいつからあいつのこと好きだったの?」

 「子供の頃から」

 ルビーナはぽつりぽつりと話し始める。

 「小さい頃に、壮齢祭の控室で会って、とても綺麗な翼に見とれたわ。あの人が私の魔王様ならいいのにって思った。地元に戻って、父の付き添いで長の砦に行ったときにあの翼をもう一度見て、これは運命だと思ったの」

 なんだかよくわからん単語が出て来たけれどそのへんはまああいいか、とマガリアは思う。つまりは小さい頃から運命だと思っていたというのがポイントだ。

 「うちは武家の血筋だったから、気高く誇り高く育てられた。だから人前で弱みを見せるようなことはできなかったし、男性と親しくするなんて考えられなかった。でも婚約者なら無理に近づかなくても時が来れば一緒になれると思って我慢してた」

 魔族にもそういうのがあるんだな、とフレインは思った。なんだか少女向けの絵物語にあるような話だ。

 「そうしたら、ミスルカは人間を食べたくないと言い出して、使った魔力もなかなか戻らなくて、戦力にならないし示しもつかないからって弟のムスリクが族長を継いで」

 あーそのへんの話は聞いたな、とマガリアは思う。思うが口にしない。まずは言いたいことを全部言わせないと。

 「父は怒って、婚約の話は無しだって言ったけど、私は嫌だって言ったの。だからそれから、恥ずかしいのを我慢してあの人のところに行くようにした。なのにあの人は人間の娘なんか拾ってきて、一緒に住んでにこにこして。十年我慢して、色々言ったけど全然聞いてくれなくて。だから家臣や一党を連れて、ムスリクに抗議したの。あんな人間食べてしまえって」

 そこでそうなるのか。一方の視点だけでは判断できないこともあるんだな。しかしなんかこう、別のやり方もあるんじゃないか?とマガリアは苦笑する。

 「なるほどね、念願叶って人間を追い出せたと思ったら、今度はあいつは魔界に帰らなかったと」

 こくり、とルビーナは頷く。

 「いくら探しても転移陣にいないんだもの。まさかと思ったら木陰に隠れてて。だから私も、転移寸前の陣から身一つで出て、この世界に残ったのよ」

 「うーん、あいつもねじくれてるっぽいけど、あんたも素直じゃなさ過ぎる。こりゃ、どっちかが折れるんじゃなくてどっちも折れないと、どうにもまとまらないね」

 フレインはメリルの姿を探した。メリルはなんとも呑気に浴槽でくつろいでいる。

 「ちょっとメリルさん、メリルさんも話に入ってくださいよ」

 「あー、エルフってこう、恋愛感情とか希薄なのよ。たぶんフレインのほうが、ちゃんとアドバイスできると思うよ」

 するりと躱された気がする。フレインは仕方なく、もう一度ルビーナの方を向いた。魔族とか関係なく、好きな男の人の前で素直になれない人とだけ考えよう。だけど……

 「ルビーナさん、全部捨てましょう」

 えっ、という顔をするマガリア。この子は突然何を言い出すんだ?

 「魔族であることを捨てましょう。家のことも捨てましょう。たぶん、あなたが意地を張っているのは全部あなたが魔族だから、魔族の名門の人だからです。その血に、立場にこだわっているからです」

 静かにフレインは続ける。

 「魔界に戻れないなら、もう何もこだわる必要ないじゃないですか。ミスルカさんなんて、この村の村長をしているんですよ?たくさんの種族と分け隔てなく暮らしているんですよ?魔族をやめるから、もう人を食べないから一緒にいてって言えばいいじゃないですか」

 「人間なんてもう三百年は食べてない」

 「ならいいじゃないですか。本当の気持ちをちゃんと打ち明けないと駄目ですよ」

 うんうん、それそれとマガリアは頷く。

 「でも」

 ルビーナが口を開く。

 「あいつは人間を愛した。あいつの心にはまだあの人間がいる。だから私を受け入れないんだ。なら、あいつの血を飲んで、神を蘇らせようと思った。神の望みは刻戻し、想い人を再び手に入れることだ。だから私もあいつを、人間を知る前のあいつを手に入れようと思ったんだ」

 「死んだ人が恋敵って、それはもう諦めるしかないと思うよ」

 いつの間にか、すぐ後ろにメリルが立っていた。

 「お互いが初恋同士のカップルなんてめったにいるものでもないし、結婚しても離婚してまた別の相手見つけるのも多いわ。そういうのが全部正しいとは言わないけれど、死んだ相手にはもう絶対勝てないんだから、勝負しようなんて無駄」

 唇を噛むルビーナに、メリルは続ける。

 「だけどね、心には容量がある。昔の事ばかりをずっと考えてるわけにはいかないの。彼の心に彼女が残っているのが嫌なら、あなたが一緒に暮らしていくことで、少しづつ全てを過去に追いやってしまえばいい。新しい日々の思い出で、過去に浸る暇なんて与えなければいいのよ」

 「ほー、それは長命種の経験談ですか?」

 感心したように訊くマガリアに、メリルは顔を赤くする。

 「違うわよ、一般論。人間と結婚したエルフは、必ず先に連れ合いを亡くすからね。一人に戻った先にどう生きるかなんて、よくある問題なのよ」

 肩をすくめるメリル。

 「いいからみんな、体洗って温まってらっしゃい、風邪引くわよ」




 千日手。

 ギャクスという盤上の駒を取り合うゲームで、赤と青の打ち手が同じ手を五度に渡って打ち合うことを言う。膠着状態の比喩表現であり、互いに身動きが取れない状態を指す。

 押し黙ったままの魔族二人。そして見守る五人。用意された夕食は手を付けられないまま、既に冷めている。

 どうすんだこれ、とリックレックは思う。とりあえず向こうの好意は明らかなんだから、嫌いじゃないなら過去のことは忘れてやれと助言はした。譲れる部分と譲れない部分はちゃんと言葉にしないと駄目なんだぞ、とも言った。クラウスは子供すぎて全く役に立たなかった。

 微かにルビーナの唇が動いていることにフレインは気づいていた。声に出したいけれど勇気が出ない。そして時間が経てば経つほどに、言葉は出ない。

 その沈黙を破ったのは、意外にもメリルだった。

 「よし判りました」

 えっ何が?と魔族ふたりを除いた視線が集中する。

 「さっきリックレックとも話したんだけど、二人とも自分しか見てなさすぎなの。まずルビーナさんなんだけど、あなた乙女なわりに不器用過ぎ」

 「不器用……」

 「人間女と彼がパン作ってたのに嫉妬して、失敗の黒焦げトースト食べさせようとするとかダメダメでしょ」

 ルビーナの顔が真っ赤になる。

 「そういう時はちゃんとしたもの作らないと逆効果。案の定、彼は嫌がらせされたって思ってたわよ」

 「嫌がらせじゃなく。対抗意識だったというのか?」

 「この期に及んでそんなこと言うミスルカさんもひどい。リュートの話とか何十年も前のことが出て来るのよ?彼女にとってどれだけ印象に残ったと思ってるのよこの朴念仁」

 「朴念仁……」

 多少なりともショックを受けたような二人を前に、メリルは続ける。

 「もうこの際だから言っちゃいます。ルビーナはミスルカにぞっこんラブです。小さい頃からずっと密かに想ってました。だから魔界に帰らずにずっと探していました。彼の事を考えすぎてここ何百年も人間を食べなかったくらいです」

 おーおーすげーな言っちゃったよ、とリックレックは思った。

 「でねミスルカ、彼女はあなたと結ばれるなら、魔族であった過去を捨ててもいいと思ってるよ。彼女が逃げもせずこの場にいることがその証明」

 「さあどうするね村長」

 リックレックが言葉を継いだ。

 「あんたが嫌がらせと思い込んでた色々は、なんのことはない不器用なお嬢さんの自己アピールだったんだよ。でももう家も身分も関係ない、故郷さえ捨ててずっとあんたを探してきたカワイ子ちゃんだ。何にしても答えを出してやるのは、男の責任だとは思わないか?……それとさ」

 言ってリックレックは立ち上がった。

 「大多数を幸せにする魔法なんか考える前に、目の前のひとりを幸せにすることを考えてもいいんじゃないかね」

 メリルが、マガリアが、そしてフレインも椅子から立ち上がる。

 「ん?」

 一人意図を掴めなかったクラウスは、フレインとマガリアに引きずられるようにして食堂を出ていく。メリルが、そしてリックレックも食堂から出ていき、扉が静かに閉じられる。後にはミスルカとルビーナだけが残された。





 「僕、今回全然活躍できなかったと思う」

 クラウスが少し拗ねたように言う。

 「そりゃ仕方ない、人生経験が足りないからね」

 マガリアがからからと笑う。

 「でもフレインはなかなか判ってたね。将来有望だ」

 「もう、マガったら」

 「ま、そんなのは人それぞれでいいじゃねーか」

 リックレックが真面目な声で言う。

 「みんながみんな同じ視点から意見なんかしたら、気味が悪いさ。クラウスはまだまだ餓鬼だけど、それなりにちゃんとしたものの見方が出来てる。おせっかい焼きなんておばさん共に任せておきゃいいのさ」

 「なんだとこのおっさん!」

 「ガキおやじ!」

 そう、きっとあの二人の元魔族はあの隠れ村で生きていく。その寿命がいつ尽きるのかは知らないけれど。

 それよりも。

 メリルはルビーナが言っていた【神の望みは刻戻し】という言葉が気になって仕方なかった。神自身が過去に戻りたがっている?神は想い人を取り戻したいとも言っていた。その辺りの事までちゃんと聞かずに出てきたのはもったいなかったかな、でもあのベタベタ見るのもなんだか腹立つし。

 結界を抜けてしぱらく歩くと街道に出た。次の村まではあと二日といったところだろうか。

 魔王との戦いが伝説となった世界。人知れず暗雲が世界を包もうとしている時代。かつて呑気で今はシビアなそんな世界、その名はサンクレア。


 これは、そんなサンクレアを舞台にして繰り広げられる、時代と歴史の果てに位置する物語である。




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