第21話 マテルランクの想い人(上)

おもひでの国 夜の国

そとは小雪もふりしきる

花の匂ひのする窓で

青い小鳥はないてゐよう


 それは目を閉じて想う。どこに隠れたって見つけるんだ。私が一番なんだから。ずっと、ずっと想い続けて来た。ずっと待っていた。なのにあのひとは消えた。たったひとりで。

 だから探すんだ、捕まえるんだ。私だけのものにするんだ、絶対に。





 「なんで迷うかな」

 メリルは訝しむ。前の集落を出て二日、街道を辿ればあと三日でこの地方では大きめの街に出るはずが、どこをどう間違えたのか深い森に迷い込んでしまった。

 「平坦な街道って地図には書いてあるぞ。こんな森があるなんて」

 リックレックが手元の地図とコンパスを見比べる。

 「まっすぐ歩いてましたもんね」

 杖をぎゅっと握りしめて、フレインが不安そうに言う。

 「このあたり……何か魔力を感じます」

 「魔力?」

 「気のせいじゃなさそうね」

 メリルが杖に念じると、周囲がぼうっと緑色に光る。

 「これは結界。人避けの術かな。あともうひとつ、良く判らない範囲魔法がかけてある」

 「魔物の仕業かい?」

 マガリアは背中の戦斧の重さを肩に確かめて、周囲に目を配る。

 「どうかな、結界は別として、広範囲の補助魔法って魔物は使わないんだよね。あと、もうここ結界の中だわ。何のための結界なんだろう」

 念じるのをやめると、周囲の発光が収まった。探知魔法は負荷が軽いけれど、広範囲にかけるとそれなりに消耗もする。

 「どっちにしても、進むしかないよ。たぶん引き寄せの力がかかってる」

 クラウスはそう言って歩きはじめる。

 「誰かが呼んでるっていうのなら、行ってみよう」

 「ま、そうするしかないよな」

 リックレックも続く。どっちにしたって誘導されてるなら、さっさと終わらせてしまおう。パーティーは覚悟を決めて、深い森の奥へと歩き続けた。




 いくつかの事件の影に共通する黒幕が存在する。謎を追い生命を守り、いくつかの偶然と必然が重なって共に旅をすることになった五人。少年剣士クラウス、少女司祭フレイン。女ドワーフ斧戦士マガリアにフロルスのスカウト・リックレック、エルフの魔法使いメリル。

 魔王との戦いが伝説となった世界。人知れず暗雲が世界を包もうとしている時代。かつて呑気で今はシビアなそんな世界、その名はサンクレア。

 これは、そんなサンクレアを舞台にして繰り広げられる、時代と歴史の果てに位置する物語である。




 突然に視界が開けた。それまで嫌な感じで漂っていた霧さえも晴れ、どんよりと曇っていた空もまるで素知らぬ顔をして晴天となっている。

 「なんだこりゃ」

 軽口は叩くが、油断なく周囲を探るリックレック。彼らの目の前には今、平和な村の風景があった。

 「地図にはこんな村、ないぜ」

 遠くで牛が鳴いている声がする。小鳥が囀りながら飛び回る。ごく普通の村人たちがそれぞれの仕事をしている。どう見ても辺境の平和な集落だ。

 ぱちん、とダガーを腰の鞘に戻すリックレック。彼の目から見て、特に脅威はないというサインだ。対照的に、メリルは杖を両手で握ったまま緩めない。そしてその視線は、村の奥からこちらに歩いて来る若い男でぴたりと止まった。

 「メリル」

 何かを感じたのか、フレインが不安げにメリルに近寄る。

 「……魔族」

 「えっ」

 メリルの呟きに小さく驚きの声を上げるフレイン。次の瞬間、その若い男が口を開いた。

 「ようこそ旅の人、マテルランク村へようこそ。歓迎します」

 五人の顔をぐるりと見まわして、男は微笑んだ。

 「私は村長のミスルカと申します。どうぞこちらへ」

 優雅に会釈をして、村の奥へと誘う男の仕草に、五人は戸惑いを隠せない。

 「ああ、警戒しなくていいですよ。私に害意はありません。さあ、どうぞ」

 その声を聞いて、クラウスは剣の柄から手を離した。

 「……みんな、行こう」

 ゆっくりと後に続くクラウスを見て、小走りに後を追うフレイン。

 「しゃあねーな」

 「行くよメリル」

 三人も仕方なしに後を追った。周囲の村人たちはそんな彼らを見てもただ静かに微笑むだけで、敵意も何も感じられない。それでもメリルは杖を握る手から力を抜くことはしない。なんだろうこれ、防御魔法に似た力がこの一帯を包んでる。邪悪な気配ではないけれど、村長と名乗ったあいつは間違いなく人間ではないし、強力なだけの魔物でもない。魔王と共に世界を支配していたという魔族かも知れない。エルフの里の伝承に少しだけ出て来た幻の種族。

 五人は村の中央にする教会の、礼拝室の奥にある小さな食堂に案内される。

 「どうぞ、お座りください」

 銀のトレイに透明なグラスを六つ並べ、水差しから水を注ぎながら男が言う。

 「道中お疲れになったでしょう。大したおもてなしはできませんが」

 テーブルについた五人の前にそれぞれグラスを置き、男は空いている椅子に座る。隣に座ることになったクラウスは緊張を隠せない。

 「……とは言っても、この状況で安心はできないでしょうね」

 「こんな村、地図にもないし近くの村でも話は聞かなかったぜ」

 「それに、あなたは人間じゃないですよね?一体何者ですか?」

 続けて問うリックレックとメリルに笑顔を向ける村長。

 「そうですね、この村は俗にいう隠れ村というやつで、村長の私は人間ではなく魔族です。いや、元魔族という方が正しいかな」

 「やはり」

 「今から、そのあたりについてお話ししましょう」

 男は自分の分のグラスから水を一口飲み、語り始めた。





 魔族は、滅びてはいない。

 魔王が力を失って消滅し、それにを契機に大多数の魔族はこの世界を去った。しかし、いつの日か魔王が再臨することをを願った一派は、密かに世界へ残ったのだ。

 果てしない時が流れても魔王の再臨はならなかった。一派の中からは離脱者も現れ始める。魔界への帰還を望むもの、魔力を捨て人として生きることを選んだもの。そして、自ら魔王となろうとするもの。

 西の果てに、そんな魔族の一族が生きる場所があった。周囲の国同士の仲は険悪で、紛争の影に隠れて人を喰うことは容易だった。

 どうして人は人同士、飽きずに殺し合うのだろうとその魔族の長は思った。力を示すために魔族同士が戦うことはごく普通だったが、それは相手を従わせるための戦いであって命を奪うためのものではない。

 長い間観察を続けても、結論は出なかった。人間が持つ知恵を使えば、戦って奪わずに生きることもできるはずだ。なのに何故だろう。もっと深く人間を知る必要がある、とその魔族の長は考えた。脆弱な肉体と短い寿命を持つ人間。魔族からすれば、効率の良い魔力の補給源でしかない人間。だがそんな人間の手で魔王は敗北した。

 一計を案じた魔族の長は、配下を使って人間をさらって来させた。



 「そして、その人間の世話と観察を弟から命じられたのがこの私、ミスルカでした」

 「世話、って」

 マガリアが呟く。

 「ええ、文字通り身の回りのお世話です。何せ私は、人を喰ったことのない魔族でしたから。他の者では、いつ食べてしまうか判らないですし」

 ミスルカはそう言い目を閉じて、また語り始めた。



 人間が様々なものを口にするように、魔族もまた普通に食事をする。ただひとつ違うのは、魔族は好んで人間を喰うことだ。人間ひとりも喰えば一月は魔力が持つ。人が魔族の存在を意識の外に置いたことで、政情が不安定な地域は格好の餌場となった。

 人を喰った魔族はその魔力を黒く澱ませる。一度味を知ってしまったものは、その魅力に抗うことができない。

 一族の長となるはずだったミスルカは、生まれてこのかた人を喰ったことがなかった。そのために、一族は弟のムスリクが継いだ。変わり者の、無能な兄と蔑まれながらただ静かにミスルカは生きていた。

 だから丁度良いとムスリクは判断する。東に山と海をいくつも越えた峠道、一人歩いていた人間をムスリクは配下に捕らえさせ、役目を持たない兄に与えたのだ。

 その人間はまだ少女だった。恐怖におびえきった彼女はミスルカの問いかけに応えることもなく、ただ石造りの部屋の片隅に縮こまってすすり泣くだけだった。

 ミスルカが人に化けて手に入れて来たパンを与え、食べるよう薦めても手も付けない。やがて夜になり、ミスルカは新しい水を用意してパンと共にテーブルへ置いて部屋を出、しっかりと施錠する。

 翌朝ミスルカが部屋を訪れると、水とパンは器を残して消えていた。だが、少女はその瞳に恐怖を滲ませたまま部屋の隅でじっと押し黙っているだけだった。



 「マリアと話が出来たのは、一月もしてからでした」

 懐かしい思い出に触れるように、微笑みながらミスルカは言う。

 「それが、その女の子の名前ですのね」

 おずおずと尋ねるフレイン。

 「はい。ちょうど今のあなたと同じくらいの歳でしたよ」



 ミスルカは毎朝、パンや果物などを手土産に彼女の独房を訪れた。始めのうちはミスルカの問いかけにも食べ物にも反応を示すことはなかったが、一週間が過ぎた頃にはおずおずと食事を摂るようになる。

 ミスルカはそのうち、無理に問いかけることをやめた。彼は私物のリュートを持ち込んでつま弾いたり、ただ静かに読書をするためだけに独房を訪れるようになった。

 幸いにして弟を始めとした一族は彼のそんな奇行に対しては何も言わなかった。

 「あなたは、他の魔族と違うのね」

 少女が初めて言葉を発した。

 「他の人みたいに怖くない」

 「そうかな。それはきっと僕が、人を食べたことがないからだよ」

 少女はびくっと身を震わせる。

 「私も……食べるの?」

 「僕は人間を食べないよ」

 「どうして?」

 「それは難しい質問だね」

 ミスルカは少しおどけたように答える。

 「どうして僕は人を食べなかったんだろう。食べる機会はいくらでもあったし、周りの連中も普通に食べてた。でも何か違う気がしてね。だからもう、食べなくてもいいやって思うんだ」

 少女はじっとミスルカを見つめた。何かが彼女の中で変わっているかのようにも思ったけれど、それは彼女自身にも判らないことだった。



 「魔力の補充はどうしてたのよ」

 疑うようにメリルが問う。

 「それはもちろん食事ですよ」

 平然とミスルカは答える。

 「私は、族長の兄ということで、私だけの領地を持っていました。ほんのささやかな土地でしたけれど、人間の見よう見まねで畑をやったり鶏を飼ったりしていたんです。そうして作った作物を持って、人間の里でいろいろなものと交換もしました」

 「働く魔族……」

 「我々も、その尺度は違いますが生きていますからね」

 ミスルカは苦笑しながら続けた。



 独房のある小屋の周囲千メルテ四方は、ミスルカの所領として不可侵だった。他の魔族はもちろんのこと、族長である弟さえも勝手に立ち入ることを許されない個人的な場所。

 その一部を切り開いてミスルカは畑を作った。魔力で井戸も作り、作物と交換で手に入れた鶏も飼い始めていた。雑木林の中には果実をつける木もあったので、季節を待てば人間と物資の交換をするに困ることはなかった。

 「つまり、ここから遠く離れなければ、他の魔族見つかって食べられる心配はないよ」

 独房の扉を開け放し、マリアに手を差し伸べてミスルカは言った。

 「君には色々教えて欲しいんだ。畑とか野良仕事って判るかい?」

 幼いマリアに深い知識を要求することは、最初から無茶だとは思っていた。ただのきっかけでいい、それで何かが変わればいいと思ってのことだったが、その意に反してマリアの農作業に関する知識はミスルカを上回っていた。物心ついた頃から家の手伝いをしていたマリアと、遠くからこっそり盗み見て得た知識しかないミスルカではそもそも勝負にならなかったのだ。

 水はけのよい畝の作り方、干し草の束ね方、りんごのジャムの煮方、小麦を挽いてパンを焼く方法。穏やかな時間が流れていく。

 独房だった部屋の分厚い木の扉は取り払われて、布を上から下げただけの簡素な仕切りに変えた。その部屋の中にもうひとつベッドを持ち込み、ミスルカもそこで寝起きをするようになった。

 人と魔族では、時間の流れが違う。笑顔で生活をすることに慣れきってしまった頃、マリアは美しく成長をした乙女になっていた。



 「ほんの十年で、人間は変わるものです」

 しみじみとミスルカは言う。

 「フレインさんでしたか。あなたもきっと美しくなりますよ」

 「わ、私は、そんな」

 フレインはちらりとクラウスの方を見るが、その視線に気が付いたものの、クラウスは特に何の反応も示さない。その無言のやりとりを見ていたマガリアの口角が上がった。自分の話は嫌がるのに、他人のこういうことには目敏い。



 その夜、族長の間に呼び出されたミスルカ。安逸な日常が永遠に続くと思っていた彼は、弟の意向に言葉を失った。

 「もういい。人に対する興味を失った。あの人間は私が喰うから、連れて来い」

 「いや、しかし」

 「なんだ、兄貴が喰いたいのか?なら喰っていいぞ」

 弟はそっと近寄って、済まなそうに耳打ちする。

 「すまん兄貴。これ以上一族連中の不満を抑えきれない。早いうちに、あの人間をどこかに捨てるか何とかしてくれないか」

 元は弟の命令で始まったはずの共同生活が、いつの間にかミスルカの道楽扱いされていること自体にも不服はあった。が、一族の意向を持ち出されてしまうと、立場の弱いミスルカではどうしようもない。

 「おかえり!」

 小屋に戻ったミスルカを、輝くばかりの笑顔で迎えるマリアだったが、その笑顔が今のミスルカには苦しくて仕方なかった。

 「マリア、話があるんだ」

 ミスルカは知る限りの全てを話す。元は人間を理解するために、遠くからマリアを浚ってきたこと。一族の中で特殊な立ち位置の自分だからこそ任されたこと。一族の中から、山立たずと言われる自分に対する風当たりのお陰で、族長である弟が苦労してきたこと、そしてもはや庇うこともできなくなったこと。

 「ずっと覚悟はしていました。あなたになら、私食べられても」

 「駄目だ!」

 自分でも驚くほどに大きな声が出た。

 「……君を解放する。望む場所があれば連れて行きたい。どこがいい?南でも北でも、どこでも連れて行く」

 「あなたも一緒には来られないの?二人ならどこでも暮らせると思うの」

 「僕は無理だ。一族の掟に逆らうことは出来ない」

 しばらく黙っていたマリアは、そんなミスルカを見て微笑み、そして自らの生い立ちを語り始めた。

 マリアはずっと東の村落で生まれた。火山の噴火でその村落は焼け落ち、両親も失う。叔父夫婦と共に移り住んだ村の生活は穏やかなものだったが、ある夜不意に故郷が懐かしくてたまらなくなり、家人に黙って家を出た。そして村を出てしばらく歩いたところで捕まった。

 「出来ることなら、故郷の村に戻りたいわ。でもあそこにはもう何もない。だから」

 ミスルカは背中の羽根を数百年ぶりに広げ、マリアを抱いて飛び立った。遥か東の地を目指して何日も飛んだ。一昼夜で国のひとつやふたつを飛び抜ける魔族の羽根でもすぐには辿り着けなかった。五日が過ぎ、ようやくマリアが親類と共に住んでいた村の近くに辿り着く。

 「このまま帰れるかしら。ねう十年も経っているのに」

 「君は魔族に捕まって、召使いにされていたとでも言えばいい。隙を見て逃げてきたと」

 「でも」

 「さあ、走るんだ。助けを求めて走るんだ」

 ミスルカは言い、その身に邪な力を漲らせる。マリアが今まで見たことのないどす黒いオーラがミスルカを包み、その体を異形へと変える。

 「さあ」

 戸惑っていたマリアだが、意を決したように走り出す。誰か助けて、助けてと叫びながら。

 十分な距離を見計らってミスルカも姿を現し、マリアを追う。村の人間が何か叫び、手に鍬や鋤を持って向かってくる。マリアが村人たちの中に入るのを見届けたミスルカは飛び立ち、また何日もかけて自分の領地へと戻っていった。



 「なんだか可哀想」

 メリルが目頭を押さえる。

 「どうして一緒に行かなかったんですか」

 クラウスが神妙な顔で訊く。

 「一族の中で立場もないなら、戻る必要はなかったんじゃないですか?」

 「そういうわけにはいかなかったんです。本来なら私が一族の長になる立場でしたし、私の勝手が弟の統率に悪影響が及ぶようなことは避けたかった」

 ミスルカは寂しそうに笑う。

 「その頃一族は魔界と連絡を取れる力を取り戻していました。その返事次第で一族の使命が決まるのです。留まって潜み続けるか、魔王の復活のため動くか、それとも魔界へと戻るか。そんな重大な取り纏めの控えた時に、長の兄が出奔など出来はしなかったのです」



 魔界側からしてみれば、まさか人間界に魔族が生き残っているとは思っていなかった。倒された魔王の恨みこそあれ、人間界に関わってもあまり得はないという考え方も主流になっていた。長い時が、魔族の考え方をも変えていたのだ。

 結論が出るまでに長い時間がかかった。一部の魔族の間では、人間界に残留した魔族の存在を契機に再侵略を主張する一派も現れた。がそれはごく一部の魔王狂信者に限られていた。魔界にいれば、わざわざ人間を食べる必要もなく魔力の補給はできる。拡大志向の魔王がリーダーでないのならば、人間界に関わる必要もない。

 魔界からはムスリクの一族に対して帰還の指示が出た。人間界への干渉は、もはや魔界の意思ではない。一族の長は迷わず帰還を命令した。魔界とのゲートを拓く魔法陣はあと一回の使用が限度。

 「兄貴はどうしたい」

 弟がわざわざ尋ねる。一族の長として帰還を命令すれば済む話なのに。答えを待たずにムスリクは言葉を続ける。

 「兄貴は戦う以外に能のない俺に族長を譲ってくれた。俺を表に出すために影に回ってくれた。だから兄貴がしたいようにしてくれて構わないんだ」

 ミスルカは黙って弟の顔を見つめる。

 「兄貴が人間に何か思う所があるのなら残っていい。誤魔化すくらいは訳はない」

 こうして兄と弟はその袂を分けた。魔法陣と共に消えていく一族を物陰から見送ったミスルカは、遥か東を目指して飛び立った。

 覚えていたつもりではあったが、記憶の中の村に辿り着くまでにさらに長い時間が必要だった。人間の魔法技術も進化しており、身を隠しながらの旅は思ったよりも手間がかかったからだ。



 「私はすっかり忘れていたんです。魔族と人との時の流れ方が違うということを」

 「時の流れ方かぁ」

 メリルが呟く。長命種のエルフである彼女にも、それは身近な問題だった。

 「私にとって大したことのない時間も、人にはとても長い隔たりとなる。私がマリアの村に辿り着いた時には、彼女と別れてから何十年もの歳月が過ぎていたのです」



 マリアを訪ねて来たというその旅人の佇まいに、村の司祭は何か胸騒ぎを感じた。魔法使いか何かだろうか、強大な魔力を内に秘めた青年。

 司祭は青年を海沿いの丘へと案内する。少し古びた墓標、それはマリアがこの村で生き、そして死んだ証だった。

 青年は無言でその墓標に刻まれた文字を指でなぞる。あと五年早ければ会えた。そう思った瞬間、彼の瞳から涙が溢れた。ぽっかりと胸に穴が開いたような寂しさに襲われた。せっかくここまで来たのに。それなのに間に合わなかった。これは後悔だ。もっと早く決断してさえいれば。決断のタイミングは何度もあったはずだ。

 無表情のまま涙をこぼす青年を宥め、司祭は彼をマリアの親族へ引き合わせた。マリアは生涯独り身を貫いたが、彼女の従姉の孫娘が彼との面談を承諾した。

 「マリアお婆さんから、あなたの話は聞いていました」

 その若い女性は青年を見て微笑んだ。記憶の中にある、別れた時のマリアに生き写しだなと彼は思う。

 「いつか会いに来てくれる、約束はしなかったけれどきっといつか。お婆さんはいつもそう、懐かしそうに言っていました。やっと来てくださったんですね」

 「だけど……間に合わなかった」

 絞り出すようにそう言って俯く青年の手を、彼女は優しく握った。

 「それでもお婆さんは喜んでいると思います。私からもお礼を言わせてください、どうもありがとう」

 彼はその日のうちに村を後にした。探していた人はもういない。空虚さだけが胸に去来し、ただあの日が懐かしくなる。

 そもそも彼女と自分を引き合わせたのは何だったのか。人とは何か、なぜ人は人同士争うのか。共に生きる知恵を持ちながらそうしないのはなぜかを理解したいという疑問からだったはずだ。

 彼は村から二日ほどかけて、マリアから聞いていた生まれ故郷の跡地に向かった。噴火の跡も溶岩の流れた形跡も、時間の流れと自然の力がほぼ消し去ってくれており、ここに人が暮らしていたという痕跡は緑に埋もれた教会跡だけだった。

 彼はそこに居を定め、魔法の研究を始める。人を幸せにする魔法。そのあまりにも漠然とした、具体的な効果すら不確定な魔法の研究に、彼は魔族の長い命を賭けようと思った。

 彼は教会跡を簡単に修理して雨風を凌ぐ場所を作り、一人そこで考える日々を送る。人とはなんだろう。幸せに手が届くと知りながらもなぜ背を向けるのだろう。そしてなぜマリアは、約束もしない私との再会を信じ望んだのだろう。

 長い月日が流れた。村の跡にはいつの間にか、他に行く宛のない人々が集まり始める。彼はそんな人々に食物と水を与え、望む者には周囲の平地を畑として与えた。家が増え人が増え家族が増える。人々は教会を新しく建て直し、何十年経っても容姿の衰えない彼を村長と呼んだ。

 そしてある日、事件が起きた。近隣を荒らしていた野盗の一団が突如村を襲ったのだ。

 村人は盗賊共と必死に戦った。盗賊団はこの地方でも有数の武闘派で、村人たちは次々に負傷して戦列を離れる。

 山奥へ薬草摘みに出かけていて不在だった村長は戻るなり、その状況を知って逆上する。彼の放った人の物とは思えない魔力とその異形の姿に村人たちは絶句する。盗賊団が残らず灰塵となり風に散った時、彼は村民たちに向かってこう言った。

 「隠すつもりはなかった。見ての通り、私は魔族だ。この姿を晒してしまった以上、もうここにはいられない」

 しかし村人たちは口を揃えて彼を引き留めた。種族など関係ない、みんな貴方に感謝していると。

 そもそも村民たちはそれぞれに事情を抱えた人々であって、決して善良でも勤勉でもなかった。しかしそのような彼らの出自が、村長の正体については沈黙すべし、という暗黙の了解の源となった。



 「それ以来、私はこの村の周辺に結界を張り、外界からの害意ある侵入者を防ぐことにしました。村人の中には事情があって逃げて来た者もいましたから」

 「犯罪者かい?それとも逃げ出した奴隷かい?」

 リックレックが皮肉っぽく訊く。

 「どうでしょう、新しい村民の受け入れについては村人たちが話し合って決めていましたので、詳しい事情までは知りません。でも奴隷制度というのはまだ残っている国もあると聞きます」

 「くっだらないよな。貴族だろうが奴隷だろうが、酒を飲めば酔うし顔を殴れば鼻血を出す。生まれながらの地位なんて馬鹿馬鹿しい」

 「ドワーフは明快でいいよな、そういうとこ」

 からかうように言うリックレックに、マガリアはムッとした視線を送る。

 「それで」

 メリルが口を挟んだ。

 「この村を包んでいるのは結界だけではないと感じます。研究していたっていう、人を幸せにする魔法が完成したんですか?」

 「それが、残念ながら未完成なのです」

 ミスルカは首を左右に振った。

 「結界以外に使っているのは、継続的に生命力を活性化させるだけの単純な魔法です。広範囲に薄くかけているので、病気になりにくく疲れにくいくらいの効果しかありませんが」

 肩をすくめるミスルカ。

 「そこで私は、時々近くを通る冒険者の方をこうして村に招き、ご意見をうかがっているのです」

 「意見?」

 「はい。人はみな幸せになりたいと願います。私は私なりに人の幸せ、生きる幸せというものを考え続けて魔法を研究してきました。楽しく生きたい、健康に生きたい、平和に生きたい、自分らしく生きたい。人の生きたいという欲求は、死と反発して強くなりますが平穏に包まれると弱くなる。日常的に死に接する機会のある、あなた方冒険者の方が考える幸せとはどういったものなのか」

 「まあ健康でありたいってのは間違ってないな」

 リックレックはぶっきらぼうに言った。

 「体が資本なのは別に、冒険者に限らないけどな」

 「なるほど」

 「確かに、健康じゃなきゃ、楽しく酒は飲めないな」

 マガリアも続ける。

 「酒そのものの質も大事だけれど、楽しく飲めない酒じゃ飲む意味もない。飲んで酔って笑う。自分一人でも味気ないな、気の合う仲間がいないと」

 興味深そうに聞くミスルカ。

 「あんたはどうなんだいメリル」

 「わ、わたし?うーん……」

 少し考えてから、メリルは杖を握ったまま答える。

 「私たちエルフは長命種だから、生きているっていう実感そのものが希薄っていうか、当たり前のことすぎて問題を先送りするくせがあるから、それが幸せかどうかなんてあまり考えないのよね。でも美味しいものを食べるのは好きだし、新しい知識を得るのも楽しいし、みんなと冒険をして目標を達成するのは充実してると思うよ。ただ、それが普遍的な幸せって言えるかどうかは、自信ないな」

 「ふむ」

 「まあ、人の幸せなんつっても漠然とし過ぎてて、そんなふんわりした感じじゃねーのかな。フレインなんかは、クラウスと一緒ならどこでも幸せだろ?」

 「や、やだもう」

 顔を真っ赤にしてフレインは照れ、ちらりとクラウスを見る。いつもリックレックに冷やかされると、自分と同じように照れるクラウスが、今日は何か真剣に考えこんでいる。あれ?どうしたんだろう。何を考えているんだろう……?

 「そもそも、人は幸せにされるものなのですか?」

 クラウスは静かに口を開いた。

 「僕はまだ子供なので偉そうなことを言える立場ではないと思いますが……人の幸せは人それぞれで、決まった形があるようには思えないんです」

 ミスルカはその少年の声を真摯に聞く。

 「マリアさんは人の暮らしに戻っても、またあなたとまた出会うことを望み続けた。あなたは魔界に、懐かしい故郷に帰るチャンスを捨ててまでこの世界にいることを望んだ。人の幸せって、そうやって自分で選んでいくもの、そして変わっていくものなんじゃないですか?」

 「幸せは選ぶもの……変わっていくもの……」

 「確かに、世界が平和になればみんな幸せになれるでしょう。でもそれだけで、誰もが幸せになれるとは思わない。虫歯の痛みは、世界の平和では治らないんです」

 虫歯?マガリアは唐突に出て来た単語に意表を突かれた。ただ、言わんとしていることは理解できるような気がする。社会的な、世俗的な幸福と個人的なそれは同じではない。そしてその幸せは、誰かから与えられるものではなく、自ら欲するものではないかとこの子供は言っているのだ。

 「成る程、それもまた幸せを求める心か」

 じっと両掌を見つめてから、ミスルカはふうっと大きくため息をついた。

 「……だとしたら、私はずいぶんと遠回りをしてしまったようだ」

 天井を仰ぎ見るミスルカ。

 「いや、この出会いに感謝しましょう。私は何か、真理に至るヒントをもらったような気がします」

 「いいえ、僕はただ、勝手なこと言っただけですから」

 クラウスはすごいな、とフレインは思った。堂々と自分の想いを口にする彼を誇らしく思うと同時に、自分にそんなことが出来るのかどうか?と考えて、少し胸が痛くなる。

 リックレックの言うように、自分はクラウスといれば幸せだ。彼と共にいることは当たり前すぎて、だから毎日が幸せだけれど、クラウスにとっての自分はそういう存在なのかな?そういう相手になれているのかな?

 しばしの沈黙があった。そしてミスルカはまた笑顔に戻る。

 「いやあ、今日は皆さんをお招きして大正解でした。ぜひこの村でゆっくりしていって下さい。温泉もありますので」

 温泉!五人の心は喜びの期待に満ちた。これもまた人の幸せ。




 見つけた。遥か遠くに光が見えた。それは、確かに感じた小さな光に懐かしい気配を感じて舌なめずりをする。ずっと追い求めていた光。

 背中の翼を広げ、それは飛び立つ。もうすぐ、もうすぐ会いに行くよ。ずっと隠れていた、ずっと探していた。ワタシハアナタノモノ、アナタハワタシノモノ……




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