第16話 はっぴいうえでんぐ
天藻と暮らし始めてから二か月が過ぎた。最初のうちこそ文明の利器におっかなびっくりだったこの幼い狐っ子は、もう一人で色々なことが出来るようになった。
耐熱ラップと電子レンジの使い方、漫画雑誌を読むこと、そしてタブレットでの動画視聴。もっともこれは私がそばにいる時だけの約束にしている。
天藻は見た服を妖力で再現できるので、子供向けのファッション雑誌もいくつか買って、一緒に街へ出かけてもいる。普段着の巫女装束があまり動きやすくはないようで、着替えるのは大抵スポーティーでシンプルな格好だ。私としては、もっとフリフリのついたキュート系も見てみたいのだけれど。
二か月の長期休暇が終わり私が出勤する日、一度試しにと天藻に留守番を頼んでみた。私はいつもお弁当を朝作って持って行くので、もうひとつ作って天藻のお昼ご飯にと置いていった。帰宅してドアを開けると、顔をずるずるに泣き腫らした天藻が文字通り飛びついてきて、大泣きに泣いた。
もう一人はいやじゃ、置いてかんでくりゃれと泣き喚く天藻を私は一時間ほど抱きしめて宥めた。お弁当も食べずに孤独に耐えていたとしゃくりあげる天藻とゆっくり湯船で暖まり、割引シールのついたお惣菜の夕食を摂る。
「わちは気づいたのじゃ」
「何に?」
「かかさまは吒枳尼さまを守護する狐じゃ」
だし巻き卵を掴もうとしてうまく掴めない天藻。
「そしてわちはその子じゃ」
「うん」
「わちが、寝床を守護するなどおかしな話とは思わぬか」
ああ、もう留守番嫌なんだな、と私は内心微笑む。
「つまりその、わちは希海をば守護してこそち思う」
「理屈は通ってる、のかな」
「だから希海と一緒に行くち決めた」
少し自信なげに、上目遣いで言う天藻。
「よかろ?わちも行ってよかろ?」
私は自室の様子をもう一度眺めてみる。ベッドが多少乱れているようだけれど、たぶんこれは泣いて暴れた跡なんだろうな。それ以外に、家具や調度を壊したり傷つけた様子はない。物に当たり散らすようなことはしてないみたい。
「いいわよ、明日からは一緒に行こ」
研究室では、私は個室を与えられている。実験器具や機材も色々あるけれど、しっかり言い聞かせておけば平気でしょ。天藻の顔がぱっと明るくなって、桃色の箸でだし巻き卵を突き刺した。
「あっこら行儀悪い」
「この卵、活きが良すぎなんじゃ!」
ぱくりと卵を口に放り込む天藻。
「にひひー、逃がさんちゃ」
「んもう」
ほんの数時間前には大泣きしていたのに、もう安心しきって笑っている。そうなんだ、と私は少し納得をした。稲荷神社を守護する狐の妖神、その一族の長が彼女の母。社の守護役として表に出るのは年上の、力の強い姉たちであって天藻たちのように一族の末席にいる者に出番はない。
出番のない幼い狐たちは、新たな社の建立に席を求めるか、妖力を伸ばし人間社会に紛れて生きていくか、永遠に近い時間をただひたすらに待つしかないという。
天藻が留守居が得意と言ったのは、そういう風に歳の近い姉妹たちと祭殿の片隅で慰め合いながらじっとしていることには馴れている、というような意味で、ただ一人置いて行かれることではなかったんだ。
可哀想なことをしたな。そう思うと目の奥がきゅーんとしてきて我慢できなくなった。
私は天藻に背中から抱きつく。
「ごめんね天藻、寂しい思いをさせて」
「うん、わちこそ済まぬ」
天藻は箸をお皿の上に置く。
「人が、希海が生きていきよるには働かんといけんと判っちょる。わちのために希海に負担かけたくないちゃ、留守居しよ思たんよ。でも」
天藻は鼻をすすりながら続ける。
「まだわちはよわよわの味噌っ子やき、離れてしまうち希海のことが感じられんようになる。寂しゅうて悲しゅうてどうにもならんくなる。こげなんをかかさまは、でらおそぎゃあち言うとらした」
なんだろう。名古屋弁かな?
「希海、ずっと一緒な?わちが希海を守れるようなるまで」
「うん、一緒だよ」
二人で残りのお惣菜を食べてから、洗面所で歯を磨く。天藻はミント味の歯磨き粉を嫌がったので、いちご味のこども歯磨きだ。でもこの子一体何歳なんだろう?
ふと浮かんだ疑問も次の瞬間には簡単に消えるものだ。そしてそれは、次に思い出すまでに結構な時間が必要だったりもする。
灯りを落として、天藻とベッドに入る。
「えへへ、のーぞみっ」
嬉しそうな天藻の声。
「早く寝なさい、明日は一緒に行くんだから」
「ふくくくく、わちは絶対に希海を守るきに」
変な笑い方までしている。私はひとつため息をついた。
「うん、お願いね。さ、寝ましょ」
布団に頭まで潜ってしばらくはくすくす笑っていた天藻だけれど、そのうち黙ったかと思うと寝息を立て始めた。ああ、この子の分まで交通費は出ないわよね。そんなことを考えているうちに、私も眠っていた。
「わちは稲荷狐の天藻じゃ!希海に仇為す者には容赦せん!」
両足を肩幅に開き胸を張り、左手を腰に当て右手を開いて前に突き出し。そしてドヤ顔で言い放つ。これを、研究所で会う同僚全員に天藻はやってのけた。
「おやおや」
主任研究員の北枕博士が、その目を丸く見開いた。禿げ頭にぼうぼうの白い髭、まさにマッド・サイエンティストの見本のような北枕博士は、私と父の恩人でもある。
「これは可愛いお狐さまだな。桜木くんが面倒見とるのか?」
「はい、ちょっと前から」
「だそうだぞ男性研究員諸君!桜木くん攻略には、まずこの子からだ!これは難関だな!」
「ちょ、ちょっと博士何言ってるんです」
周囲のどよめきを聞いて豪快に笑う北枕博士に、天藻はきょとんとする。
「おぬし、稲荷狐は珍しゅうないのか?」
「あ?」
博士は真顔に戻って天藻を見る。
「ちょい昔には別に珍しくもなかったわい。儂の知り合いには、屋島狸と暮らしてた奴もおる」
「たぬき?」
「なんじゃ狸知らんのか」
「知らん」
教授は呆れたような顔をする。
「桜木くん、ちゃんと知識は与えないといかんぞ。可愛がるだけではいかん」
「はあ、そのあたりについては私も考えてはいるんですけど」
「希海は色々教えてくれる!いじめるな!」
博士の口調が詰問気味だったのと、私の返答がトーンを落としていたので、二人の間に天藻が割って入る。
「ほほう、何を教えてくれたかな?」
「ふふん。まずここはとっきょーとと言うんじゃ。電車は人が降りてから乗って、靴は脱がんでいい」
得意そうに言う天藻。私は自分の耳たぶが熱くなっているのを自覚する。はっ恥ずかしい!
「かっぷめんはうまいがあんまり食べたらあかん。あと」
急に天藻の勢いがしぼむ。
「あと、知らない人の前であんまり狐だって言うたらあかんと言われちょったな……」
「うん、それは大事だな。だが安心しろ、ここの人間はみんな桜木くんと仲良しだから」
「大丈夫か?」
「大丈夫よ」
不安げに訊く天藻の頭を撫でながら私は言った。安堵の吐息を漏らす天藻。
「それでその、連れて出勤したいと思うんですけど」
「もう来とるじゃないか」
「お電話より、実際に見ていただいた方がいいかな、とか」
「桜木くん」
北枕博士は呆れたように言う。
「相談の事前連絡くらいはしても良かろう」
「そっ、そうでした」
「むっ」
ファイティング・ポーズを取る天藻。
「いいのよ天藻、そういうのじゃないから」
「ふうむ」
博士は天藻を耳の先から靴のつま先までじろじろ眺める。
「まあ、いいんじゃないか?」
「ありがとうございます!」
「でも交通費は出ないぞ」
「そこはまあ、自腹覚悟です」
「ふうむ、まあそうだろうな。子供に見えるが、学校通ってなければ学生定期は無理だから、どの道毎回切符だな」
そうなのだ。しかも回数券もその姿を消して久しい。
「まあ君は優秀だし、手当てを増やすように依頼はかけてみる。かけてはみるが増えるかどうかは判らんぞ」
「あっ、ありがとうございます!」
お辞儀をする私を見て、天藻も真似をしてぴょこんと礼をする。
「そう言えば博士、父は」
「健一郎くんか。昨日からずっと第三に籠ったままだな」
「そうですか」
私はひとつため息をつく。父とは同じ職場にいるというのに、もうずっと顔を合わせていない。たまに電話をするくらいだ。
「いまひとつ実験がうまく行ってないようでな、こういう時は少し時間を取るといいんだが」
父はきっと、博士に、この研究所に、この国に、そしてこの世界に対して感謝を捧げたいのだ。だから仮説と仮説を綱渡りのように辿ってまでも、理想を追う。
「ちち?希海のととさまもおるのか?」
「いるんだけどね、ずっと仕事場に入って出てこないの」
「そっか。なら挨拶はこの次やな」
「挨拶?」
博士が変なところに食いつく。
「そうじゃ、挨拶は大事ぞ。希海のととさまならわちのととさまも同じじゃ」
「同じになるんかね?」
その博士の言葉に、天藻はふふんと得意げな顔をする。
「わちも神狐の娘ぞ、姉さまので見慣れちょる。えへん、親父殿。そこな娘御をわちにくりゃれ」
え。
「これではっぴいうえでんぐなのじゃ。二人は仲良う暮らすのじゃ。にひひひひ」
「桜木くん」
染まる頬に両手を添えて照れる天藻を眺めながら、博士が静かに言う。
「おめでと」
「いや違いますから!天藻もよく判ってないだけですから!それに博士は父じゃないじゃないですか!」
私は食い気味にそう抗弁した。するよね普通。
「勢い良く突っ込むな君は」
感心したように言う博士、そして目を閉じなにやらうっとりし始める天藻。もうやだこれ……
そんなこんなで、天藻は研究所のみんなに大体(父とは合わずじまい)好意的に受け入れられた。翌月からのお給料もちょっと増えたので、天藻用のIC乗車券も買った。
私の仕事中、天藻は研究所内の休憩スペースをうろうろしているらしい。これは自己申告なので良く判らないのだけれど、おはげ(北枕博士の事らしい)に絵本を読んでもらっているという。桃太郎やら浦島太郎を歌っていたのはたぶんそのせいだ。
私の研究そのものはあまり進展がない。過去へのゲートを開いたというシステムの改良、それが父と私の悲願。北枕博士への恩返しであり、この世界への福音になるはずなのに。
時間はあまり残されていない。なのに手がかりはなく、伸ばした手は空を掴む。
でも諦めない。諦めたくない。それが私たち父娘の使命だから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます