第7話 へっぽこエルフの魔法屋日記
いい村だな、とメリルは思った。
故郷を一人離れて百年になる。家のことは二十歳上の兄に任せて旅に出た、と言えば聞こえはいいが、実家ではやることがないので旅に出ざるを得なかったというのが正直なところ。
精霊魔法の得意なエルフ女子は、本当なら村で重宝される人材なのだけれど、魔法は普通に優秀なレベルのメリルに対して、十歳下の妹は稀に見るような天才的才能を持っていた。比べられてしまえば居場所がないのだ。
なので村を出て、魔法の修練も兼ね流しの魔法屋としてあちこち旅をして回っている。この島……大陸と呼ぶにはやや小さく島と呼ぶにはいささか広すぎるが、住民たちは【島】と呼ぶ……には魔法使いが住んでいない集落も多く、そういった場所にはメリルのようなたまに訪れる魔法使いが必要不可欠なのである。
王都から南西に一週間ほどの距離にその村はあった。丘の向こうには青々とした麦畑が広がり、小さな風車小屋とその先には広場を中心とした集落が見えた。
あそこにしよう。メリルは心の中でそう思う。あの規模の村なら恐らく魔法使いはいない。同族であるエルフが所帯を持つのなら、もっと大きい街のはずだ。
整然と風に揺れる稲穂と村へ続く白い一本道。ここは平和でいい村だな、きっと。メリルは軽く微笑んで、その白い道を歩き始めた。
麦畑の間をしばらく歩き、坂道を降りるとやがて集落に辿り着く。午後ののんびりとした広場には数人の子供と老婦人たちが思い思いの休息を楽しんでいた。
「こんにちは」
メリルは精一杯の営業スマイルを作って、近くにいた老婦人に声をかける。
「はい、こんにちは」
ゆっくりと老婦人が答えた。その声にはいささかの警戒も疑義もないので、メリルは安心する。
「すみません、こちらの村長様のお宅はどちらでしょう?」
「ああ、村長の家ならそこの教会の裏だよ」
老婦人が指さす先には村に相応しいささやかな教会があった。
「どうもありがとう」
メリルは笑顔のまま軽く会釈して、村長の家へと向かう。教会の前では老犬が寝ており、その周りを鶏がうろついている。メリルが近寄ってもまるで人を怖がる様子もない。
うん、いい村っぽい。メリルはもう一度そう思った。
教会の裏手に回ると、そこには集落の他の家屋より多少しっかりした作りに見える家が建っていた。まるほどこれが村長宅なんだな、とメリルは一人うなづき、玄関の扉を二回ノックする。
「はいはい」
家の奥から年寄りの声がしてしばらく後に扉が開いた。
「どちら様かな?」
禿頭に長い白髭、絵に描いたような老人が厳かにそう問うたので、メリルはにこやかに会釈を返してこう言った。
「お初にお目にかかります。こちらの村長様でいらっしゃいますか?」
流しの魔法使いは通常、まずは集落の長に挨拶を通す。自らが魔法使いであると名乗り、常在の魔法使いがいるかどうかを確認する。いるなら営業は諦めて、近在の集落で魔法使いがいない場所がないかを尋ねる。魔法使いがいないなら、この集落において数日から数週間に渡る魔法屋の営業許可と、その間開く店の場所や宿を借りる交渉をするのだ。
村長はメリルの来訪をひどく喜んで、是非お願いしたいとしわくちゃな顔にさらにしわを寄せた。聞けばこの近隣には魔法使いがおらず、またここ数年流しも訪れずに色々と不便をしていたという。
こうしてメリルはこの集落、ナスタル村でしばらく店を開けることになった。
案内された建物は元雑貨屋で、営んでいた一家が五年ほど前に王都の近くへと引っ越してからはずっと空き家だったという。多少古びてはいたがそれなりに掃除はされていて、すぐにでも使えそうに思えた。
「いつからやりますかな」
村長が期待に満ちた声色で問う。
「そうですね」
カウンターや棚の様子に目を走らせて、メリルは答える。
「今日これから準備して、明日からできそうです」
「そうですか、では村の者にはそう伝えておきますでな」
「よろしくお願いします」
この店舗兼住居を一週間借りて五千ガルドというのは実に安価だ、とメリルは思う。素泊まりの宿でも一泊で千ガルドが相場なのだし、商売の場所までついているのだから半額以下だ。
村長が満面の笑みで店舗を出て行ったので、メリルはひとつ大げさにため息をついてからトランクを開けて商売の準備を始めることにした。
魔法屋の業務にはいくつかの分野がある。ひとつは魔法道具の修理、ひとつは魔法薬の精製、そして魔物退治。
魔法道具の修理はわりと依頼が多い。古代魔法王国時代に作られた道具は基本的に頑丈だが、それなりにメンテナンスをしないと不調をきたす。照明器具や伝声装置などは数年に一度は調整した方が良いとされているが、これは一般人の手に負えるものではない。
魔法薬の精製も、農家相手ではそれなりに需要がある。肥料に混ぜて効果を高める薬、家畜の病気を癒やす薬。僧侶や神官が使う回復魔法には及ばないが、怪我や疲労を回復する薬を作ることもある。
魔物退治は……基本的にこういった村落に出没する魔物は物理攻撃で撃退できるので、腕っぷしの強い農夫や狩人がいればそちらがなんとかできるので、あまり魔法使いには依頼されない。古代遺跡から迷い出た魔法生物の類でもない限りは、魔法使いの出番はないと言ってもいい。
メリルのトランクは内部の空間が魔法で圧縮されているので、見た目の数倍以上は物が入る。旅人用の道具袋にはだいたい同系統の魔法がかけられていて、大量の荷物を一度に持ち運べるようになっているのだが、王都に顔を出す魔法使いたちの間では、その圧縮魔法を改良して容量を増やすことが流行していた。メリルも数年前に王都を訪れ、その流行に乗ってみたのだ。
ただ無暗に容量を増やすのではなく、入れるものごとに階層分けをするという手法を編み出してはみたのだが、元々あまり整理整頓が得意でないメリルがそれを活かしきっているかといえば、おそらくは否だろう。
とにかく、トランクから魔法道具の修理に必要な道具を取り出してカウンター裏に並べる。魔法薬を入れる瓶や薬品を調合する乳鉢なども取り出しておく。魔法薬のレシピを記した古い魔導書も出しておかないと慌てる元になる。
さてこんなものかな、とメリルは店内を見回して一人頷いた。いよいよ明日から商売開始である。ここの借り賃と食費を相殺してもうちょっとくらい儲かればいいかな、とささやかな希望を胸に抱くメリルだった。
この世界には、大きく分けて三種類の魔法がある。
ひとつは論理魔法(ロジカル・マジック)。ひとつは神聖魔法(ホーリー・スペル)。最後は精霊魔法(シャーマン・ルーン)。
論理魔法は、この世界に常在する魔力に対して術者が自らの魔力を以て働きかけ、効果を発する魔法だ。ごく初級の物探しや鍵開け、おまじないに近いものは勉強すれば誰にでも習得できるし、当人の能力と努力があれば魔物と対抗する力も得られる。熟練の魔法使いなら様々なオリジナルの魔法を編み出すこともできるし、既存の魔法をベースにして発展させることもできる。
神聖魔法は、主に僧侶や神官の使う癒しの魔法である。創世神の慈悲により授けられた魔法で、基本的には神職にしか使うことはできない。信仰心の高さや心の清らかさが使う魔法の効果に比例すると言われているけれど、そうも言いきれない実例が過去に数多くある。が、宗派は違えど基本的に寺院や教会の教義では僧侶・神官に対して潔癖さや高潔さを求めるので、若いうちはともかく高齢の神官は人格者と呼ばれることが多い。
精霊魔法は、自然界に存在する精霊の力を借りる魔法である。使役するには精霊との契約が必要になるが、種族によっておおまかに使える魔法の種類は違いまた個人によっても相性がある。
エルフが関わりを持つ精霊は風や植物、水や火などの自然に関係するものが多い。ダーク・エルフは主に死や破壊など抽象的な力を司る精霊とつながりを持つが、その大元はやはり風であったり水や火であったりするので、自然の持つ力の一側面とそれぞれ関わっているのだと解釈されている。ドワーフは主に大地や火の精霊と関わるが、フロルス等特定の精霊と関わることを避ける種族や人間のように可もなく不可もなくといった中庸さ……中途半端さかな……を持つ種族もある。
論理魔法を中心に使う魔法使いには人間が多く、神聖魔法の使い手は神職なので種族を問わない。精霊魔法についてはエルフ族が大多数だが、自然に魅了された人間もごくまれにいる。系統の違う魔法を学ぶこともできるが、神聖魔法の術者には基本的に殺生が禁じられているので、論理魔法や精霊魔法についてはごく初歩的な部分までとしている者が多い。
論理魔法か精霊魔法のどちらかを専門的に習得していくと、ある程度進んだ時点で選ばなかった方の魔法の力があまり伸びなくなる。できることなら両系統の魔法をばりばり使いこなしたいと向上心のある魔法使いなら思うところだけれど、その試みがうまく行った試しはほとんどない。
しかしまぁうまくしたもので、論理魔法の分野でも精霊魔法の分野でも、日々の暮らしに役立つようなささやかな魔法についてはどちらの魔法を専門にしても扱える範囲に収まるので、論理魔法使いでも精霊魔法使いでも【流しの魔法屋】なんて商売ができるのだった。
まぁ、各々得意不得意はあるにせよ。
流しの魔法屋が村に店を開くというニュースは、住人たちの間に一晩で行き渡った。娯楽も変化も少ない村だから、そういった新しい話題はすぐに広まるものだ。だから、朝食を持参していたパンで軽く済ませたメリルが、店を開ける前に宣伝用のビラでも刷った方がいいのかなと軽く思い立った時には、もう興味津々の村人が何人も扉が開くのを待ち構えていたのだった。
穴の開いた鍋の修理に始まって魔法具にかかっている魔法の延長、常備薬や肥料の精製など予想していた範囲内の仕事がほとんどだったが、午後になると村の子供たちが学校を終えた足で店にやってきた。字がうまく見えるような気がするインク、真心を伝えられるような感じの便せん。リラックスできそうな香りのお茶と良い夢を見ることができるかも知れないお香。
子供のお小遣いで買えるような魔法グッズ類は、基本的にはおもちゃの域を出ないものばかり。悪用しようにも他の使い道を思いつかないようなアイテムが中心なのだが、これは魔法使いが商売をするにあたっての取り決めでそうなっている。売った物が不幸を招いては後味も悪いし、魔法使い全体の信用を下げることにもなりかねない。自分で如何様にも対処できる魔法使い相手ならともかく、一般大衆を相手に変なものを売りつけても仕方がない。
なのでメリルの扱うラインナップは、主に努力を促すグッズを中心としていた。髪をさらさらに、つややかに整えるブラシや肌がしっとりする石鹸などで、一日二日だけでなく最低半月は使うと効果があるかも知れないよ、という売り文句なので、売れ行きはさほど芳しいものではなかった。
恋のおまじないグッズを扱うともうかるよ、と同業者に聞いて試してみたこともあったが、おまじないは想定外の使い方をする子もいて、その対処に苦慮した経験から扱うのをやめた。あまり非日常的、非現実的な欲望を刺激するアイテムは危険だとメリルは心底思うのだ。
「例えば」
その女の子は期待に鼻を膨らませて言う。
「お守りみたいなものはないんですか?」
「お守り?」
「はい、お守り。うちの父ちゃんは狩人だから、怪我しないお守りとか」
「ああ、そういうのなら」
メリルは笑ってカウンターから、首掛け紐のついた片手に収まるサイズのアミュレットを取り出す。
「絶対に怪我をしない、っていうお守りはないの。大怪我になりにくい、っていうのならこれよ」
「そうなんだ……ちょっと頼りないのね」
「お守りってそういうものだからね」
「ふーん」
子供は魔法に対して絶大な期待感を持つ。魔法使いそのものの数が多くないことに加え、そんな魔法使いが誰の目にも明らかな活躍をする場合、たいていド派手で恰好良いからだ。
「お守りとかおまじないっていうのはね、その人がたくさん努力をした上で、あとちょっとの足しになってくれるものなのよ。護符の力だけで勉強ができたり、薬だけで豊作になるなら学校も農家もいらないわ。魔法は人を助ける力だけど、魔法だけでは何もできないの」
「そうなんだ」
そのアミュレットに込められている魔法は、防御力を一ランクアップさせるというありふれた魔法であった。ありふれているからこそ効果も証明されているし、効果も半永久的だ。材料と魔力付与の場所と時間さえあれば案外簡単に作れるものなので、各種補助魔法を付与したアミュレットは魔法使いにとって割のいい収入源である。
「ひとついくら?」
「百ガルドよ。と言っても、ふたつつけても効果は強くならないから」
「じゃあそれください!」
「はい、ありがとう」
手製の紙袋にアミュレットを入れて、銀貨一枚と交換に渡す。受け取った女の子は嬉しそうに、飛び跳ねるようにして店を出て行った。
またねー、と軽く手を振って見送るメリルに、次はもう少し年上の少女が話しかけてきた。
「あの、すみません」
「はいー」
「この【虫よけの玉】なんですけど」
少女が指さすそれは、古代魔法王国時代の遺物を解析して作られた魔法道具である。クルミ大ほどでほのかに黄色く透き通った水晶玉のようなそれは、王都にある工房で生産されているものだ。籠の中には透明な外皮に覆われたいくつもの玉が無造作に積まれていて、メリルはひとつ手に取った。
「これね、持ってると蚊が寄って来なくなるの。ポケットに入れておけば山道を歩いても刺されないし、夜は枕元に置くとゆっくり寝られるわよ。ただ注意点があって」
「なんですか?」
少女は少し不安そうに尋ねる。
「だいたい半年しか持たないの。有効期限が案外短くてね、始めにこの透明の皮を剥くと効果が出るんだけど、日が経つにつれてどんどん小さくなって最後には消えちゃう」
「消えちゃうんですか」
「剥かない限りは小さくならないから、いくつか買い置きする人もいるわね。このあたりの気候なら必要なのは夏くらいだと思うし、消えるころには秋も深まってるんじゃないかしら」
「おいくらですか?」
「ひとつ二百ガルドね」
カウンター裏に貼り付けた価格表をちら見しながらメリルは答えた。仕入れ値は七十五ガルドで、他の魔法屋では五百ガルドの価格を付けるものもいる。あまり高くは売りたくないし、さりとて慈善事業でもないという煩悶から付けた価格が二百ガルド。
「じゃあみっつください」
「ありがとう、みっつで六百ガルドね」
紙袋にひょいひょいと玉をみっつ放り込み、代金と引き換えに渡す。
「持ち歩く時はポケットに入れるか、何か布の小袋に入れて首から下げるといいわよ。あと皮の袋に入れると効果が落ちるから気を付けて」
「わかりました」
あれは家族の分だろうか、それとも全部自分で使うつもりなんだろうかと考えながら、お辞儀をして店を出て行く少女をメリルは笑顔のまま見送った。
開店初日はこんな感じでひっきりなしに客が訪れ、それなりに忙しい。夕暮れで店は閉店とし、夜には昼間受け付けた魔道具の調整・整備をする。
古代魔法王国時代の遺物は王都にある技術院にて解析され、その原理が解明されて応用が可能となったものから工房で量産され販売される。基本的にはごく初歩的な論理魔法をその動力源とする道具であり、こういう分野での精霊魔法応用例はほぼ存在しない。
例えば、魔物を雷撃で攻撃する論理魔法がある。これは非常に高等なもので、精霊魔法の使い手であるメリルには習得できない。しかしその雷撃魔法の初歩の初歩、静電気を起こす論理魔法程度であれば問題なく使うことができる。
今メリルが修理にとりかかった卓上照明具も、その初歩の初歩な雷撃魔法が動力源なのだ。薪ほどの厚みがある台座の組細工を外して底の板を外す。中に設置されている長八面体の水晶が動力源で、これが光を失っていると照明は明るくならない。そしてやはり、その水晶は光を失っていた。
一回五分の魔力充填で、普通に夜間照明としてなら三十年ほどは使える。迷宮探索や鉱山の中などで使うには心もとない光量だが、一般のご家庭で使うには十分な明かりだ。
水晶を取り外して左手に握り、右手をかざし目を閉じて呪文を唱える。左手の中の水晶が次第に発光を始め、メリルの左手から幾条かの光が零れる。
五分ほどで規定通りの呪文詠唱が終わると、左手の中の光が弱くなる。メリルは目を開けて、そっと握っていた拳を解く。光を失っていた水晶はメリルの手の中でその光を取り戻し、穏やかに輝いていた。
よしよし、と口の中で呟いたメリルはその水晶を元の通りにセットして底板をはめ込み、外れないように組細工の部品を差し込んでから照明器具をまっすぐに置いた。手元の丸い印に軽く触れると、ぶうんと軽い音が一度して、上に伸びる半透明の円筒部分が光りはじめた。丸い印を左に擦ると光は強く、右に擦ると弱くなるのを確認してからもう一度印に触れ、器具は光を消した。これで修理完了だ。
辺境の村々の生活水準では必要以上の魔法具導入は難しく、そのため修理と言ってもたいていは簡単な道具の微調整や動力の再充填であった。遠隔通話装置も都市部では普及が進んでいて、公共の場に設置されている共用品以外にも自宅に自分専用のものを置くことが流行になりつつある。この村にも公衆用の設備はあるようだが、その手の器具は王都にある通信会社が設置し保守もしているので、メリルのような魔法使いが触ることは滅多にない。
教会のオルガン、粉挽きの風車や水車、便利フライパンなど魔力によってその効果を増幅されているようなものや照明器具、脱穀機、自動石臼など魔力を動力に利用しているもの。そういったものを修理し調整して日が過ぎていく。三日もすると急ぎの修理依頼はほぼなくなって、魔法雑貨と王都で仕入れたうわさ話が主な商材になるのだ。
そしてもうひとつ……【原因がよく判らないけれど困っていること】の相談が持ち込まれるのも、だいたい商売が一息ついてからだ。これはどこの村に行っても同じで、メリルの経験上そういった相談事のない村は存在しない。だからこそ、流しの魔法屋は歓迎されるのだ。
メリルが店を開いて五日目の昼、村長が店を訪れたのはまさにその手の頼みごとをするためだった。
村はずれの森に入り、小道をしばらく進むと小さな泉がある。澄んだ水が滾々と湧き出す清らかな泉だが、村には古くから使われている井戸もあるし小川も近くに流れているので、森に用事がない限りその泉に村人が立ち寄ることはない。
それでも、夏の暑い時分に小川の水が減ったり井戸水の出が悪くなるようなことがあれば、天候には全く左右されない泉の水は助けになる。はるか遠くの高山の雪解け水が地下水脈となって湧き出ているのだろう、と昔村を訪れた流しの魔法屋が鑑定したそうだが本当のところは誰にも判らない。
備えあれば憂いなしを地で行くそんな泉の水が、どうも最近出が悪いようだと村長は言った。
「泉が枯れるのであれば仕方ありません。が、何か原因があって水が減っているのであればなんとかしていただきたいのです」
何としても戻して欲しい、という依頼ではないことがメリルには好ましかった。なので、二つ返事で引き受けて森に入ったというわけだ。
やっぱり森は落ち着くな、とメリルは思う。木陰のひんやりとした空気、草木のしっとりとした香り。エルフにはやっぱり街中よりこういった場所が合っている。
たまにしか人が入らないという割には、泉までの道はそれなりに整備されていたので、メリルの足でも泉までの道は全く問題なかった。
「これが問題の泉」
木々が少し開けた場所にその泉はあった。直径三メルテ程の澄んだ水たまりだが、その周囲の様子を見る限り、本来なら倍くらいの大きさはあったらしい。
メリルは杖でとん、と地面を突き、口の中で小さく呪文を唱えて目を閉じる。周囲にある力の流れを読み取る精霊魔法で、本来なら戦いの前の偵察に使うものだったとされる。
閉ざされた視界の暗闇に、一条の青い光が走る。これは村長の言っていた山脈からの伏流水だな、とメリルは思った。そもそもこの伏流水自体が何者かの魔力によってここに導かれている……
その流れをゆっくりと遡ってみる。すると、はるか遠くから来ている流れが途中で分岐しているのが見えた。ほぼ同量に分割されている流れは東に向かっている。分岐の様子を察するに、割と最近設定された分岐点に見えた、
ふう、と一つため息をついてメリルは魔法を終了させ目を開けた。
「東」
そちらには古代魔法王国時代の遺跡がある、と村長から教わってはいたが、その手の遺跡には魔物がつきものだったりもする。あーめんどうだなぁと思いつつ、仕方なしにメリルは東へと足を進めた。
村はずれに古代魔法王国時代の遺跡があるのは別に珍しいことでもない。たいていの村の近くには何らかの遺跡があるし、遺跡のない村にも過去に何かがあったという伝承なり古文書なりが存在した。
しかし、存在するからといって別に何かすごい秘密が隠されていたり古代のアイテムが落ちているわけでもなく、ただ石や金属作りの建物が半壊したまま放置されているだけの話だ。もう何十年も前に王都の調査隊がめぼしい遺跡の発掘調査を行ったけれど、有意義な発見はほぼなかったというのが通説である。
調査の結果、遺跡にはいくつかのパターンがあることが判った。砦と思しきもの、集会場のようなもの、工房のようなもの。地方によって構成素材はまちまちだが、間取りはおおよそ共通していた。
森を抜けてメリルが辿り着いたのはそんな遺跡の中でも、集会所形と言われる遺跡だった。
こういう遺跡には魔物が棲む。魔物でなくても、野犬や蛇やコウモリなどの住処になっている場合が多いので、一般人はあまり近寄らない。
まあそんなこんなで、村はずれの遺跡はどこもただ存在するだけの場所と認識されているのだけれど、水の流れがそんな場所に誘われている、という事象はメリルの知る限り始めてだった。
杖の先に小さな鈴を付けるメリル。この鈴……ダウジング・ベルと呼ばれる……には魔力探知の術が掛けてあり、魔物や魔術の場所を調べるために必要なものだ。
「どなたも……いませんよねー?」
声をかけながら遺跡に入るのは、小動物などに人の気配を教えるためだ。毒を持たないような小動物が人の気配を察してくれれば、こちらに飛び出してくることもない。低級な魔物も同じことで、これでも向かってくるものは全て倒せばいい。
「倒せれば、ね」
メリルは独り呟く。向かってくるものなら全て倒せばいい、とそう言ったのは遺跡探索のコツを教えてくれた王都のレンジャー部隊の隊長だった。向ってくる魔物なんて全て倒せばいいなんて簡単に言ってくれちゃってさ、と今でもメリルは思う。そう簡単に倒せるのなら、この世界から魔物なんてとうにいなくなってるわよ。
この世界に漂っている魔力。それは常に循環し洗われている。それでも淀みは生まれ、そして世界に余れる悪意と混ざった時に魔物は生まれるとされる。人の営みがある限り魔物が生まれるという話はあまり信じたくない説だったけれど、王都の魔法学会では定説とされていた。だから人はより善く生きねばならないのだ、と寺院は人に説く。善き心こそ世界の平安を招くのだと。
ここの遺跡は深い緑色の金属で出来ていた。蔦や苔などで汚れて見えてはいたが、金属そのものに劣化はないように思えた。古代魔法王国時代の遺跡なら、色は違えどだいたいどこもそんな感じだ。
扉や窓などは全てすっぽりと抜け落ちているようで何もない。木の扉だったのかガラスがはまっていたのか、往時を知る術は残されていない。集会場型の遺跡の場合、中央通路を抜けた先は大広間になっていて、そこには多数の長椅子が向かって奥の祭壇に向けて並んでいるのが通例だった。そしてやはりここもメリルの知る遺跡と同じ様子だった。
古代人はここで何らかの宗教的儀式をしていたとされる。というより、今も行われている教会での集会とほぼ同じだったのではないかと推測されている。この遺跡を教会遺跡と呼ばずに集会場型と呼ぶのは、単に先入観で決めつけてはならないという判断からだったが、メリルからすればこんな構造の建物は大規模な教会でしかありえなかった。学者の考えなんてナンセンスよね、とメリルは思う。
構造が同じなら。メリルは祭壇裏の衝立ての奥に、予想通りの下に降りる階段を見つけてほくそ笑んだ。地下には司祭用と思しき控室のようなものがある。魔力探知した水の行先はたぶんこの先だと当たりを付けているメリルは道具袋から魔法のランタンを取り出して灯りを点し、ランタン片手に階段を降り始めた。
「それほどでもない、かな?」
どうしてこういう場面では独り言が増えるのかな、とメリルはふと思う。パーティーを組んでの探索であれば、周囲と状況を確認しながら進むので声掛けが重要視されるのは判っている。
「まぁそういうことよね」
独り言はたぶん、自分の不安、心細さを誤魔化して心を落ち着けるためなのだ。普通の冒険者なら数名で徒党を組んで探索をするもので、不安も心配も頭割りで負担できるとメリルは思う。こういう時にソロ営業の魔法屋は不利だよなぁなどと考えたところで階段が地下通路に行き当たったので、メリルは軽く頭を振って余計な考えを心から追い出した。
地下室は大抵数室に区切られていて、地上部分と同じようにドアも調度品も何もない。盗掘されたのか風化して消えたのかさえ判ってはいないし、何かに利用しようという人もいないので新たに物品が持ち込まれることもほぼない。たまにアジトにする盗賊団がいるらしいけれど、長く居座ることはないと聞く。
ランタンを掲げて見ると、通路の床に光が反射する。なんだろう、と目を凝らすメリル。
「……水だわ」
階段からかがんで床面を指で触れてみて、ひんやりとした感触にメリルは呟いた。たぶんこれは、泉への伏流水が分岐されて導かれたものだろう。
メリルのブーツには汚れ防止・撥水の防御魔法がかけられてはいたが、くるぶしほどまである水の中を歩くのはやはり気分的によろしくない。あまり長時間水に浸かっていたら、防御魔法のコーティングも掛け直さないといけない。
面倒なのよね、今度は口に出さずメリルは思う。道具への効果付与には一時的なものと長期的なものがあり、長期的なエンチャントにはそれ相応の時間と準備が必要になる。武器への攻撃増強や防具への防御力上昇などは昔から使われる機会も多く、その手法にも様々な工夫が凝らされてかかる時間も短縮されているのだけれど、汚れや表面劣化防止などの、要はあまり冒険の利便に直結しないような魔法は研究する者も少なく、あまり発展していないのが実情だ。
まぁまた旅に出る前に掛け直せばいいか、と思いながらメリルは地下室を手前かにひとつひとつ見て回る。一番奥の部屋に入ると、奥の壁面に白いものが見える。
呪符だ、とメリルは直感する。
設置型の魔法を使うには、その場所に魔法力を配置する必要があり、その手法は複数存在する。地面に魔法陣を描く方法と、魔法の構成要素を紙や木の板などに書きつける方法がある。この場合はたぶん後者で、水脈をこちらに導くための魔法を書いた紙片を貼り付けているのだ。
辺りを見回すとメリルの推測通り、呪符の下にある壁素材の継ぎ目から水が染み出ている。誰が何のために?と微かな疑問が脳裏を過ぎったが、とにかくはまず止めないととメリルは頭を振る。
この手の場合、紙片そのものに防御魔法が込められていなければ剥がすだけで効果はなくなる。汚損その他で効力を失いたくない場合にはそれなりの防御魔法をかけておくのが普通で、まずはそこから解読しなければならない。
メリルは壁の呪符に杖で触れ、短く探知の呪文を呟く。杖の先がぼうっと青白く光った。
「防御魔法がない?」
水気が多くなるだろう場所にかける呪符に何の防御魔法もかけないというのは、メリルにはちょっと考えにくいことだった。これでは呪符が半年もしないうちに劣化して効果を失う。いや、そもそもこんな場所に水を持ってくる目的とはなんだろう?呪符以外に目立った残留魔力も検知できないから、この呪符を仕掛けた何者かは水を導いて以降、この場所に足を運んでいないようだ。
「まぁいいか」
魔法協会か冒険者ギルドあたりに、後で報告書のひとつでも送っておけばオッケーよねと思いつつ、メリルは呪符を一気に壁から剥がした。ゆるゆると染み出していたいた水が止まるのを確認してため息をひとつ。
「こいつは大事な証拠品だからっと」
メリルは呪符の記載面を内側になるよう数回折りたたみ、道具袋に突っ込んだ。後でじっくり魔法式を解析してみよう。何か知らない式でも描かれていたらめっけもんだ。
他に何か怪しいところはないかと探しては見たが、特にそれらしいものも見つからなかったのでメリルは遺跡から出た。呪符で水を導く以外に何もないというのが、逆に怪しいと言えば怪しい。
「何か目的があって水をもっていったのではなく、水をもっていく事自体が目的?」
色々考えても仕方がないな、とメリルは思った。魔力探知を使い、既に水脈が遺跡に向いていないことを確認してメリルは村に戻った。何日かすれば泉の水量も戻るだろう。それを確認して村長に報告すれば依頼完遂だ。あと数日魔法屋をやりながら確認すればいいだろう。メリルはそんなことを考えながらゆっくり村へと戻った。風に揺れる木々の葉がこすれ合う音が、メリルの耳に優しく響いていた。
店じまいを終えた夜。村人たちからささやかな歓待を受けたメリルは喜びと共に一抹の寂しさを覚えていた。出会いと別れは根無し草、流れの魔法屋の宿命だ。この別れがあるから次の村での出会いもある。そう考えるようにしていても、やはり別離は寂しい。愛着が湧く前に撤収することを心掛けてはいても、こればっかりは仕方ない。
歓待会場の村酒場を出て夜風を楽しみながら店へと戻る。最後の一夜をそこで過ごしたら、明日は次の村を探して出発するのだ。次はどこにしよう、高原か海のそばか。
誰か婚姻の相手でも見つけて、大きな街に定住してもいいとは思う。けれどそのために伴侶を探すのは順序が逆だと思うし、魔法屋で生計を立てられるほどの街には大抵既に同業者がいる。何か特殊な魔法技術でも持っていない限り、辺境の村で暮らしていくのは難しいだろう。
どこかの冒険者ギルドに登録して、共に旅をする仲間を探すのもいいかも知れない。安定した職業とは言い難いが、一人旅より安心だし旅の幅も広がる。
まぁいっか、そのうち何かあるでしょ。
メリルはそれ以上考えるのを止めた。エルフの人生は長い、まだ焦る必要なんてない。
寝間着に着替えてベッドに潜り込み目を閉じる。軽く酔っているので、すぐに寝付けるだろう。眠ろう、眠ろう。メリルはゆっくりと夢の世界へと入っていった。
魔王との戦いが伝説となった世界。暗雲などが世界を包んでいない時代。わりと呑気で時にシビアなそんな世界、その名はサンクレア。
これは、そんなサンクレアを舞台にして繰り広げられる、あまり大したことのない物語の一節である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます