第6話 計画発動の日

 「エイチ・イー計画という名前くらいは知ってるだろう」

 先生は呆れたようにそう言うと、持っていた新聞を折りたたんでカウンターの上に放り投げた。ばさりと音がする。

 「ヒトゲノム解析後、実際の人体についてはその改変を認めないとする国家間の取り決めや医学会の決定に対して……仮想空間でのシミュレートによる難病治療のヒントを探すプロジェクトのことだ。生体への遺伝子改変やヒトクローン製造は倫理的理由から禁止したからな。仮想空間で構築した理論を医療用ナノマシンで実現するまでを含めたのが計画の全容だ。ヒューマン・エミュレートの略でエイチ・イー、これくらいは常識だぞ」

 「そうは言いますが」

 僕はわざと不満げな声を出してみる。

 「そのへんの一般市民に再生医療だの幹細胞だのの話をされても困りますよ」

 「別に専門的な話をしようとは思ってない。知的なトークについていくだけの知識を仕入れる努力をしろという話だ」

 「そりゃまぁ、そういう話は純粋に好奇心をくすぐられますが……もう最近は高度化しすぎてて、前提になる技術がもうちんぷんかんぷんなんですよ」

 僕は言いながらも、先生の横に立って僕をにこにこと見つめる少女の視線が気になって仕方なかった。誰なんだろう、どこかで見た気もするが思い出せない。先生の親族でもないと思う。

 「まぁいいか、でな。エイチ・イー計画にはもうひとつ表には出ていない研究がある」

 「はぁ」

 「言わば裏エイチ・イー計画とも呼ぶべきものだが……ヒューマン・エミュレートという語彙自体に変わりはない」

 言っている意味がよく判らない。僕は首を捻った。

 「ヒトクローンはその製造も研究も禁止されている。これはまぁ西側諸国から発する倫理的なあれこれからの決定なんだろうな、命の創造は神の領域であるという」

 「まぁそうなりますかね。日本神話でもそんなものじゃないですか?」

 先生は僕の答えをつまらなそうに聞き流して続ける。

 「そして、かつて国民機と呼ばれるパーソナル・コンピュータの互換機を発売したメーカーがあった。その心とも言うべきバイオス部分を全く新しく作り上げて」

 「知ってますよ、本家より安くて魅力的でした」

 「つまりそういうことだよ」

 先生は少女に座るよう促し、彼女は笑顔を崩さず簡素な丸椅子に腰かけた。

 「ゲノムの解析は終わった。クローンの製造は禁止された。医療用ナノマシンもほぼ実用化までこぎつけた。しかしそれらをどうにかしてもっと活用したい。活用しなければならない」

 「まさか」

 「科学者なんていうものは多かれ少なかれおかしな部分を持っているもんでな。いや、おかしくなければ研究などに没頭はできんのかも知れん。難病の治療は確かに崇高な目的だが、そこだけで終わるような技術群ではないのだ。つまりこの子は」

 「そんな馬鹿な」

 僕は口に出したその声が思ったより大きかったので、自分で驚いた。

 「人のクローンは禁止されてるって」

 「クローンではない」

 「えっだって、ああ思い出しましたよこの子テレビで」

 「落ち着くんだ」

 先生がぴしゃりと言ったので、僕は目を閉じて大きく深呼吸を一回、そしてもう一回する。

 「ヒト細胞を再現するナノマシンと解読したゲノム情報、そして第十世代型の人工知能を組み合わせて作られたエミュレート・ヒューマン。それが彼女だ」

 僕はゆっくり目を開けて、少女と先生へ交互に視線を向けた。中学生くらいに見える少女はただにこにこ笑っている。

 「正確に言うと、人工知能は彼女の脳機能に対する基礎教育に使われただけで、別にコンピュータを内蔵しているわけではない」

 「いやしかしこれって」

 「君の漠然とした不安感は理解できる」

 先生は深くため息をつく。

 「だがこれはあくまでナノマシンによる人体のエミュレートなのだ。と理屈で説明されたとしても、心理的な抵抗感は否めないがな」

 「そりゃそうです」

 僕は憮然として言った。

 「僕らは人を何で出来てるかなんて確認しませんからね。ある意味クローンよりも罪深いじゃないですか」

 「罪深い」

 先生はにやりと笑った。

 「何に対しての罪かね?神の領域に近寄ることが罪なのかね?」

 「僕は別に信心深い人間じゃないですけど」

 ちらりと少女に視線を向ける。そうだ、テレビで清涼飲料水のコマーシャルに出ているあの娘にそっくりな気がする。

 「これはもう近寄るどころじゃなく、神の領域に踏み込んでいると思います。色々技術的には詭弁を弄してクリアしてるつもりだとは思いますけど、もしこの娘に自我があるとしたら」

 「あるとしたら」

 僕は口の中の渇きを自覚していた。

 「間違いなく、これは神の領域です」

 「成る程」

 先生は何か考えながら顎鬚を撫でまわす。

 「君の考えるボーダーラインはそこか」

 ふむう、と深く息を吐いて先生は続けた。

 「科学者連中は、この程度はままごとでしかないと思っている。神を模倣しただけの稚拙な遊戯の段階だと思っている。だが科学者でない君がそう言うのならば、もうこれは神の領域なんだろうな」

 先生は言って彼女の手から携帯用の音楽再生デバイスを取り上げ、停止のボタンを押した。

 「あら?お話はもう済んだんですか?」

 ワイヤレスイヤホンを耳から外しながら言う少女の声は、確かにテレビから流れるあの娘のものと同じように聞こえた。

 「いや、本題はこれからだよ。まずは挨拶しなさい」

 少女はぴょん、と椅子から立ち上がると、大仰にお辞儀をした。

 「シホ百八号です、どうぞよろしくお願いします」

 僕は何も言えず彼女と先生を交互に見る事しかできなかった。ひゃくはちごう?

 そんな僕の様子を見て、彼女は不審そうな顔をした。

 「あの、聞こえました?私は」

 「いゃ、聞こえた、聞こえた、けど」

 先生に視線を戻すと、先生は混乱している僕をさも愉快そうににやにやと薄く笑いながら見ているじゃないか。僕の中に、急激に怒りの感情が湧き上がってくる。

 「先生!」

 「なんだね」

 噴き出しそうなのを堪えているように先生は答える」

 「わ、笑い事じゃないですよ!計画がこんな段階まで進んでるなんて!」

 「何も驚くことじゃないぞ。全ては既存の技術を組み合わせたに過ぎない。まぁいくつか未解決の問題点もあるようだが、ある意味実用段階にあると言ってもいい」

 「問題点なんてありませんよ」

 彼女は不満そうに口を挟んだ。

 「ご主人様のお役に立てるような知識も技術も詰め込んだこのシホは、完璧なハウスメイドとして働けます」

 「はぁ」

 「この子を構成するナノマシンはまだ試作段階でな、テロメアの調整機能や加齢機能は未実装だ。だから理論上は不老不死だな。そこはアップデートでなんとかしたいという話だが」

 「シホはずっとこのままでもいいです」

 「普通に食事をしてエネルギーを補給する必要はあるし、水分補給も人と同じく必要だ。ただし摂取した食物は理論上全てエネルギーに変換できるので、排泄はしない」

 「つまりシホはトイレ行かないんですよ」

 えっへんと胸を張る彼女を見て、ああなんか昔の神格化されたアイドルみたいなこと言ってるなと僕は思った。

 「それ以外はほぼ人体のエミュレートに成功したという話だが、生殖機能については未搭載で、これは今後も予定はないそうだ」

 生殖機能。

 「えーっ?」

 彼女は不満げな声を上げた。

 「それじゃ、ご主人様にお世継ぎを作って差し上げられないのですか?」

 「お前さんそんなこと承知の上だろうが」

 先生は呆れたように言う。

 「大体そこまでの生理的現象までエミュレートするようなナノマシンはまだ実現しとらん。というか卵子のエミュレートよりも他に実装すべき機能はいくらでもある」

 「でも交接機能はついてますから大丈夫ですよ。繁殖行為の真似事はできます」

 「下の話はやめなさい」

 まるで奔放な孫と祖父の会話のようにも聞こえる。僕はもうただ黙って聞くだけだ。

 「ちなみにこの子はまだ生後一年ちょいだ。今一つ常識に欠けるのはそのせいでな、やはり人工知能による教育だけでは身につかない部分もある」

 「そうらしいです。学ぶことが多くて困っちゃいます」

 シホは大げさに肩をすくめて見せた。その愛らしい姿も仕草も全て人間が作り出したものだって?

 「まずは人間をエミュレートすることが肝要だからな、情報の共有などについても人間と同様の過程を取らせることに意義がある。あくまで実験だからな」

 「先生」

 僕の頭の中に色々な思いが渦巻いて整理がつかない。それでも言葉にしなければならないという衝動が僕の口をついた。

 「……これはやっぱりまずいです」

 「……まずいとは?」

 彼女の視線を感じながらも僕は必死に言葉を紡いだ。

 「自立行動する人間のようなもの、今は女の子の姿をしていますが……当然これを軍事利用しようという動きも出てくると思います。人工知能による教育だって、それは倫理的にも思考的にも意図的にバランスを崩したものを作れるという証拠じゃないですか?ヒトゲノムの解析データを利用しているというのは彼女の姿を見れば判ります。でもこれって天馬博士とトビオの話を現実に再現してるようなものなんじゃないですか?」

 そうだ、鉄腕アトムだ。手塚治虫はやはり偉大だ、などとちらりと余計な事を考えてしまう自分を無理に本筋に戻して僕は続けた。

 「科学者の純粋な好奇心というものは理解できます。しかしここまで!ここに来るまでに誰か、悪用されることについて警告はしなかったんですか?」

 先生は深く頷く。

 「そんな、シホは悪い事なんてしません!」

 「君の問題じゃない、君を作り上げた技術の話をしているんだ」

 僕は真剣な眼差しを彼女に向けた。彼女はびくっと身を震わせて黙る。

 「科学的に言うならばこの子は機械なんでしょうから人権は発生しないとは思います。でもここまで動いて会話する子を人間扱いするなというのも難しい話です。でもここに資本家の論理や悪意が絡んで来たらどうなると思いますか?使い捨ての労働力程度なら可愛いものです、戦争の道具、性的な玩弄物、いくらでも利用方法があります。それは、決して人が通っていい道ではないと思います」

 「うむ」

 先生は満足そうに言った。

 「儂の意見も概ね君と同じだ。だがこの研究の原資は、そういった輩から出ているしそもそもの発想もその手の悪意から発している。儂は決してそういった連中を認めることはないし、そういった連中と手を組もうとも思わん。

 だが同時に、そういった連中と手を組んで……そういった連中を利用してまで探求を続ける科学者という人種の救われなさも痛感しているのだ。これは逃げ口上だが、科学技術そのものについては善悪で推し量れはせんのだ。あくまでどう使うか、どう考えるかだ」

 「確かに逃げ口上です」

 僕の声はやり場のない怒りで震えていた。先生が悪いわけではない。だが一定の理解を示そうとするその姿勢に怒りが湧くのだ。先生も研究者なのだから仕方ないのだと自分を納得させようとしても、それは実に難しい作業だった。

 「でもこれは本当に……」

 「君の危惧は判るつもりだ。こんな計画に一枚噛んでいる儂に失望する気持ちも理解できる。だがひとつ聞いて欲しい」

 「……なんでしょう」

 先生は大きくため息をついて新聞を広げた。

 「恐らく今週中に、この計画についての情報がある程度一般公開される。今朝はまだだったが、もうすぐだ」

 「何故です!?どうして公開なんて」

 「国連常任理事国の大半は、もうこれと同等の技術を手に入れているからだ」

 がん、と頭を殴られたように感じた。

 「恐らく日本が最後発であろうことは間違いない。我が国もこの技術を独自に持っていると能天気に発表することで、立場的には同等だと言外に示す。つまりは政治だな」

 「政治……」

 先生は寂しく笑った。

 「そもそもの話、儂がこの計画に参加したきっかけは……ナノマシンによるクローン代替で、安く黒毛和牛を食えるようにならんもんかという所だった。もっともナノマシン由来の牛肉など食えたものではなかったが」

 「そりゃまあそうでしょうね」

 「できることが増えていくと科学者の欲は歯止めが利かなくなる。止まるチャンスは何度もあったし、理由をでっち上げて諦める選択肢だってあったはずだった。それでも進んでしまった、進むしかなかった。純粋に知的好奇心だけではなく、国家の存亡なんて言うものまでくっついてきてしまえばもう止まることは許されなかったのだ。つまりハセガワ君、この技術は核兵器と同じなんだ。持ち、研究し、発展させることで抑止力になる。お互いのその危険さを知っているからこそだ。

 君はさっきこの技術を神の領域と呼んだが、抑止力などと理解しているうちは、人は神にはなれん」

 それっきり先生は黙ってしまった。僕の頭の中には色々なことがぐるぐると渦巻いて、僕も何も言えなかった。

 その沈黙を破ったのは、緊張感のかけらもない彼女の声だった。

 「……それで、シホは今日からご主人様のおうちに行けばいいんですよね?」

 「おおそうだったな」

 先生の声がいつもの色に戻った。

 「ハセガワ君、君いつまでも独り身だと色々不便だろう。この子を君のところにと思って呼んだんだ」

 「えっ?」

 「炊事洗濯、掃除から簡単な家電の修理もできる。便利だぞ」

 「いや、そんなこと突然言われても」

 先生が突然とんでもないことを言い出したので、僕は慌てる。

 「だいたい君今付き合ってる女性はいないんだろう?なら問題ないじゃないか」

 「大丈夫です、ご主人様に恋人ができてもお邪魔はしませんから」

 「いや、そういう問題じゃなくて」

 「大丈夫、このタイプは主人に奉仕することを最大の喜びとするように作られている」

 先生がなんだかマッドサイエンティストみたいなことを言い出した!

 「作られてるなんて心外です、これはシホの自由意志なのです」

 「そうじゃなくて、そんな計画の産物がそのへんにホイホイいていいわけないでしょう」

 「この子は百八号だと言っただろう。男性型も含めて二百体くらいのプロトタイプが既にあちこちで生活を始めている」

 なんだって!?

 「たくさんのお兄様お姉様たちはもうみんな、自分のご主人様の元に行きました。シホだけ一人残されていたんです。そして今日、やーっとシホはご主人様のものになれるんだって聞かされて、本当に楽しみにしていたんですよ?何としてでも連れてっていただきますから!」

 可愛らしく抗議をする彼女。これは本当に人間じゃないのだろうか?この言葉は本当なのだろうか?脳機能のエミュレートなんて、心の模造品なんて本当に実現しているのだろうか?

 「シホはもう、研究所で意地悪な人工知能と勉強する毎日には飽き飽きなのです。お兄様たちもお姉様たちもはとうに出発したのに、シホだけ残されて本当に心細くて……そんな時におじさまが、ご主人様にお仕えするお話を持ってきて下さったのです。これはもう運命なのです」

 くるくると表情を変えながら流暢に喋る。切ない面差しからうっとり陶酔したような顔。僕には彼女が人間にしか見えない。

 「おじさまっていうのは先生のことですか?」

 「うむ、まぁそう呼ばれておる」

 先生は照れくさそうに鼻の頭を掻く。

 「シホはこの身の全てをご主人様に捧げます。それはシホがそうしたいだけなので、ご主人様はシホのことをすぐに愛して下さなくても構いません」

 「ロボット三原則のようなものだ」

 先生がそっぽを向いたままで言う。

 「どこまで共に歩めるか、まだ想像もつかないものだからある程度の規制ラインは必要だ。このシリーズには全て、心理的なストッパーを設けてある」

 「まるで人体実験じゃないですか……」

 「その側面もあることは認める。だが、自立した自我すら持つのなら、その方向性をある程度コントロールしなければならないというのが総意だ」

 「シホはまだ実験段階ですから、そういうのもあるってことは理解してます。それでもこうやってご主人様に会えて、これからお役に立つことができると思うともう嬉しくって嬉しくって!」

 目の前に立つ少女は、最先端の技術の集合体であるはずなのに……僕にはどうにも直視することができない。彼女がその愛らしい顔で透き通るような声で語りかけるたびに、僕の中でどす黒い感情が蠢くような気がする。たぶん罪悪感と恐怖だ。

 「ご主人様」

 彼女はそんな僕の心を覗き込むように、静かな口調で言った。

 「ご主人様の懸念もわかります。シホの存在そのものを不自然だとお考えになるのも当然です。でもシホはこうしてここに来て、ご主人様に出会いました。これはもう取り消せはしないのです」

 彼女の瞳には力があるように思えた。それは確かに生きているものの力だと僕は思った。

 「そしてこうして出会ってしまったのなら、シホはご主人様と共に行きたいと思っています。この感情が例えおじさま達に用意されたものだったとしても」

 「そこまで深い条件付けはしておらんよ。それは多分この子が待っている間に、自分で積み重ねた思考の結果だろう。自我があるということはそういうものだ」

 先生は大きく息を吐いた。

 「どちらにしろ責を負うのは我々研究者の側だ、君が責任を感じる必要はないよハセガワ君。君はただ彼女と楽しく暮らしてくれればそれでいい」

 「楽しく暮らしましょうご主人様」

 「楽しくって……そんな」

 「これは実験体の精神的成長観察の実証実験だよ」

 「私、好き嫌いなくなんでも食べますから大丈夫です」

 「混ぜっ返さないで」

 「でもご主人様は偏食傾向があると聞きました。詳しく教えて頂かないと、食事の準備に支障がありますからね」

 「こいつは生魚は食えんぞ。他にも色々好き嫌いがあったはずだ」

 「それは重要情報ですね!」

 彼女の顔がぱっと明るくなった。そのモデルになっただろうアイドルの名前を、僕は思い出すことができない。いや、それは正確ではない。思い出せないのではなく、知らないのだ。

 「実際見たわけではないが、たぶん部屋も散らかっている。掃除のし甲斐があるぞ」

 「わーい、お掃除は得意なんですよ!整理整頓も、ご主人様の指示通りにこなす自信はありますから安心して下さいね!」

 さっきまでの重苦しい会話などもうどこかへ吹き飛んでしまった。先生はいつもこうやって僕の勢いを削ぐのだ。

 「とにかく、タクシーを呼んであるから連れて帰るんだ。当面の着替えや必要な品は後で届ける。儂もこれから研究所に顔を出さねばならんから、君とこれ以上議論している時間はないのだよ」

 先生はまくしたてると僕と彼女を店の外に追い立て、表で待っていたタクシーに乗せた。タクシーの運転手には前もって告げてあったのか、ドアを閉めると車は即座に走り出す。シホは持っていたポーチから緑フレームの眼鏡を取り出して掛け、肩まである髪をヘアゴムを使い首の後ろでまとめる。変装のつもりらしい。

 運転手は到着まで一言も口を利かなかった。到着した際に、支払いは済んでいると僕に告げたのが唯一聞いた彼の声だった。

 「わぁ、ここにご主人様のお部屋があるんですね?」

 「そうだけど……そのご主人様ってのはどうにかならないのかい?」

 エントランスのオートロックを解除しながら僕は言う。

 「でも、ご主人様はご主人様でしょう?ハウスメイドならそうお呼びするものだと」

 エレベータに乗り、僕の部屋のあるフロアのボタンを押す。ドアが閉まり、軽いショックと共にエレベータは上昇を始める。

 「別に無理して働かなくてもいいよ」

 「そういうわけにはいきません!」

 勢いよく彼女が言ったのと同時にエレベータは目的階に到着し、ドアが開く。完全に勢いを殺された形になったが、それでも彼女は食い下がって来た。

 「そういうわけにはいきません」

 ドアのカギを開けて、僕は彼女に入るよう促した。彼女はきょろきょろしながらも笑顔を浮かべながら部屋へ入る。

 「わぁ、ここで今日から暮らすんですね!」

 「狭い所で悪いけど」

 「そちらが台所で……お風呂と洗濯機はこちらですね。ご主人様、洗濯物溜めてらっしゃいますね」

 もうあちこち観察を始めている彼女。僕はひとつため息をつくと、戸棚からガラスのグラスをふたつ取り出してキッチンに置き、冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を出して中身をグラスに注いだ。

 「とにかく一息つきなよ、ほら」

 「わぁ……ありがとうございますご主人様」

 彼女は笑顔でグラスを受け取ると一口、二口とジュースを飲んだ。

 「ああ美味しい。ジュースって久しぶりに飲みます」

 「そうなの?」

 「ええ、研究所ではおめでたいことでもないといただけませんでした」

 「ふぅん」

 こうして見ると、まだ中学生くらいの少女にしか見えない。それでも彼女は科学技術の結晶なのだ。

 「それでですねご主人様」

 「だからその呼び方」

 「生活にかかるお金のうち、食費や私にまつわる消耗品や必需品については研究所から出していただけるのでご主人様のご負担はありません。それ以外の出費や水道光熱費などは、これまで通りご主人様負担でお支払いください。後で食料品の買い出しもして参りますので、銀行とお店の場所を教えて下さいね」

 完全に彼女のペースだなと僕は思った。そして僕はいつも巻き込まれる。

 「一休みしたら一緒に行こう。あとやっぱりご主人様っていうのはやめて欲しい」

 「それは命令ですか?」

 「命令?」

 その返答に僕は何かひっかかるものを感じる。

 「命令だったら……どうするんだい?」

 「命令なら従います。ご主人様の命令は絶対です。シホはご主人様に命じられれば、どんなことでも致します。それが私たちシホ・シリーズの義務」

 なるほど、そういう風に教え込んでストッパーにしているのだなと僕は暗澹たる心地になった。教え込んだ、設定した、刷り込んだ、まぁそんなことはどうでもいい。そうやって作られた存在なのだ、彼女たちは。

 「シホ、だったね」

 「はい、シホ百八号です」

 「僕は命令とか強制とかは好きじゃない。君が人間に奉仕するために作られた存在だったとしても、だからと言って主人面して傲慢に振る舞えるほどに無神経でもないつもりだ」

 シホは黙って僕の言葉を聞いている。

 「だからこれは命令じゃない。僕から君、個人から個人へのお願いだ。ご主人様以外の呼び方をして欲しい。これは命令じゃない、お願いだ」

 「お願い……」

 シホは両手で持っていたグラスをじっと見つめていたが、意を決したように中身を全部飲み干した。

 「では、旦那様ではいかがでしょう?」

 「もっと駄目だ」

 「ではお名前で呼ばせていただきます。昇様、そろそろ買い物にお出かけしませんか?」

 



 「シリーズって言ったよね」

 「はい、シホは百八号、ラストナンバーです」

 食料品で膨れ上がったビニール袋を両手に一つづつ……つまり四袋を持った僕とシホは家路へとついている。

 「みんな同じ見た目なのかい?」

 「いえ、違います」

 さも当然であるかのようにシホは答える。

 「シホ・シリーズというのは人格形成プログラムによる分別であって、容姿やモデル年齢などはみんな違いますよ」

 「そりゃそうか。みんな同じだったら見分けがつかなくて大変だろうし」

 「シホたちの外見モデルは、提供のあった遺伝子情報からおじさま達がランダムに決めたと聞いています。私はもうちょっと大人っぽいほうが良かったかな。昇様と釣り合いが取れるか心配です」

 「そういう心配はいらないよ」

 つまり、彼女たちは人の恋愛感情を利用して対象と深く関わろうとしているのだな、と僕は思った。いや、利用しているという自覚すらないだろう。

 「そういう心配がいらないというのも、また心配です。それって少女趣味ですよね。昇様は社会不適合者なのですか?」

 「あのね、どうしてそうなるの」

 「健康な男女が共に暮らせば、そのような関係になると聞いています。そしてこの容姿でも問題ないとするならば、昇様の性的趣向に偏りがあるからではないかと」

 「そうとも限らないだろう?」

 「そうなんですか?」

 きょとんとするシホ。

 「研究所では、とにかく全身全霊を以てしてご主人様にお仕えし、かけがえのない存在になるよう努めなさいと教わりました。そうすることで私たちはずっとご主人様と共に在ることができると。作られた命である私たちが本当の愛に辿り着くには、それが一番だと」

 本当の愛?

 「私はずっと昇様のお役に立つよう教えられてきましたし、そのために働くことはとても嬉しいです。こうやって一緒にお買い物をして頂けるなんて、もう幸せで幸せで仕方ありません。でも」

 シホは少し遠くに視線を移した。伊達眼鏡のレンズがきらりと光る。

 「これはまだ本当の愛ではないと思います。愛というものは一朝一夕に築けるようなものではないと思うからです。だから」

 「だから使える手は何でも使いたいってことか」

 「はい」

 成る程、と僕は思う。多少形は違うかも知れないが、そういう感情と関係の醸成が最終的な目的になるのだろう。エミュレートされた魂を本物にするための……

 「気持ちは判らないでもないよ。でもそういうのは違うと僕は思う」

 「そうなんですか?」

 「一般論として、関係を結べば仲が深くなるというのはあると思うよ」

 「ですよねですよね。でも昇様はそうじゃないとおっしゃる。つまりそれは」

 「それは?」

 シホは何か考えている。慎重に言葉を選んでいるように思えた。

 「肉体的なつながりよりも精神的なそれを昇様は重視している、重視したいと思っていると理解します」

 「ふむ」

 「それはたぶん、シホが人間ではないからという前提からの判断だと思います。自らと同質の存在でない以上、それを受け入れるのに個人的な判断が優先されることも当然だと思います」

 「なるほど」

 シホが必死に言葉を紡いでいる。必死に?

 そうか、この子はコンピュータではないんだ。ナノマシンで構成されているだけで、人体と同じようにできている存在なのだ。

 「おじさまから、必ずしも一般論が通じないのがヒトの心だと教わりました。つまりシホは、提案を拒否されたことで昇様の心に触れたのだと理解します」

 「そうだね。そうかも知れない」

 「ならばシホはその心と共に在りたいと願います。いつか本当の愛を知る日まで」

 「いつかそんな日が来るといいね」

 「あっ、それはずるいです昇様!当事者のくせに!」

 「ははは」

 僕は笑った。笑うしかなかった。一体この先僕の生活はどうなってしまうんだろう。急速に動き出すだろう世界の様相はどうなっていくのだろう。人類と、人類の創り出した命は世界とどう関わっていくのだろう。

 楽観視は出来ない。さりとて僕はただの一市民で、世界の意思決定に関われるような立場にはいない。ただ大きな渦に巻き込まれる落ち葉の一枚でしかないのだ。

 



 とにかく、こうしてこの日から僕とシホ百八号の同居生活が始まることとなった。世界のことなど心配してもきりがない。もう状況を受け入れるしか、僕には選択肢がないのだ。



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