第2話 闇の光

 博士が研究所と呼んだ建物はどう見ても築四十年ほどの木造建築であり、大都市郊外のベッドタウンに存在しているごくごく普通の一戸建ての一種だった。

 遡ること数日前の土曜日に、ふらりと立ち寄った公園で催されていたフリーマーケット。僕はそこで、博士夫妻と初めて出会ったのだ。

 彼らは桜の花びら舞い散る公園の、フリーマーケット会場の一角にござを敷きまるで雛人形のように並んで正座をしていた。

 【ラヂオその他家電製品の修理致します】という段ボール製の手書き看板を前に置き、無表情に周囲を見回していたその老博士に僕はたまたま持参していた、急に電源が入らなくなったカード型ラジオを見せてこれも修理できますかと尋ねた。

 「これはちょっと時間を頂きませんと、薄型ですから」

 ラジオをしばらくこねくり回してから老博士はそう言った。

 数日で直り、また修理代も五百円でいいと言うのでその場で依頼し代金を払おうと思ったのだが、妻であろう老婦人がそれを制した。

 「お代は直ってからで結構ですよ」

 よく見ると彼らの背後には段ボール箱が置いてあり、中には小分け用のビニール袋に収まったさまざまな旧型の小型電化製品が、名前と連絡先を記したメモと共に入っていた。

 「今日は受付だけですの。修理が済みましたらご連絡を差し上げます」

 そうですか、と答えて僕は差し出されたメモ紙に自分の名前とスマホの電話番号を書き、カード型ラジオと共に老婦人に渡した。彼女はそれを恭しく受け取ると、丁寧にビニール袋に入れその余剰でくるくると巻き、解けないようにテープで軽く留めた。その様子を老紳士はにこやかに見つめ、婦人から包みを受け取ると段ボール箱の中にそっと置いた。

 よろしくお願いします、と頭を下げて僕はその場を離れた。直らなくたって別に構いやしない、どうせ大して使ってはいないものなのだ。保証もとうに切れてメーカー修理もままならず、自分でいじって壊すくらいなら誰か詳しそうな人に試してもらってもいいかという程度なのだ。



 そして水曜日の午後。僕のスマホへ、知らない電話番号からの着信があった。



 たまたま休暇を取って、自宅でのんびりしていた午後。液晶画面に表示されたその市外局番が僕の住んでいる地域のものだと理解し、そしてそれが恐らくあのラジオのことだろうと直感した僕は軽く咳払いをしてから電話に出た。狙い過たず、それはあの老婦人からラジオを修理が完了した旨、近日中に受取りに来て欲しいという電話だった。

 僕はどうせ暇だったし、近所のスーパーに買い物へでかける予定もあったので、これから取りに伺うと告げた。老婦人の告げた住所をスマホの地図アプリに入力し、想像していたよりも近所の研究所へと向かう。春の風はどこまでも穏やかだった。




 「光が粒子であり波である、という説はご存じですかな」

 案内された応接間……と言うには雑多な装置やら道具やらが散乱している部屋……で、開口一番博士はそう言った。

 「アインシュタインの、光量子仮説……ですか?」

 ソファの上の地球儀をひょいと持ち上げて、彼は僕に座るよう勧めた。

 「現在の量子力学において、光は質量を持たない粒子と波動との特性を持つとされております。光の速度は基本的に一定とされますが、ブラックホールのような重力によってその速度が変わることもあるのです」

 「速度が変わる?」

 古いソファは僕の体重で僅かに軋み音を立てたが、彼は構わず続ける。

 「つまりブラックホールというものは、強大な重力場から何者も逃れられないという現象ですから、光がその速度で脱出できないという点ですでに光の速度は落ちていると考えられるのです」

 「なるほど」

 何かお香のような香りが微かに鼻孔をくすぐる。

 「そして、私は光と同じく時間もまた粒子であり波であるとの仮説を立てたのです」

 「時間」

 「ウラシマ効果、という言葉は当然ご存じですかな」

 その言葉は、SF好きならほぼ間違いなく知っているだろう言葉だ。

 「光の速度に近づくと、時間の流れが遅くなるというやつですよね」

 「さようです。この現象については、ローレンツ変換においてある程度の説明はされておるのですが、そこで私は時間が不変でないという事象の意味について考察を始めることにしたのです。

 つまり、光速に近い座標遷移や強力な重力場による影響で【時間の流れ】が遅れるというのならば、ではその流れとはいったいどういうことなのか。時間とされているこの力が外部からの影響で定時性を失うというのならば、それは力学的に説明されねばならないのではないか、ということです」

 「哲学みたいですね」

 「高度な科学は、魔法のようにも見えるという言葉もあります。高度な理論や計算式は、それ自体が詩文や哲学のようなものなのですよ」

 そうだろうな、と僕は思った。正直言うと、専門的な公式はもう呪文か暗号のようで、とうてい同じ言語のものとは思えないものだ。

 「時間が粒子や波動であるとして、ではその生成点がどこであるのか。これは当然出てくる疑問ですな。コンピュータの動作周波数はクロック・ジェネレータである水晶発振器が生成しておりますし、電波や光にも固有の周波数や振動数というものがあります。つまり、この世界のどこかに時間の波を発信するジェネレータが存在するのではないか、という発想はごく自然なものです。

 ただ、そこを解明するのは私の仕事ではないと思っております。というのも、まずは仮定した存在と現在判明している事実から新たな仮説を取り出し、実証していく段階で自ずと判明する事柄だと思うからです。仮説の構築段階では、そのジェネレータの存在は確信できたとしても、証明することは不可能に思えるからなのですよ。

 いささか話がずれましたが、光同様に時間も速度や重力の影響を受ける物質であると仮定するならば、タイムマシンの概念というものは根底から崩壊することになります。過去の時空間というものはその場所に固定されたものではなく、文字通りにただ過ぎ去っていった記憶にすぎないからからです。水瓶に水を満たす行為が正の時間の流れとするならば、負の流れとはそこから水を汲み出すことでしかないのです。かつて水がなかったという情報はそこにあっても、水がなかったことにはならないのです」

 「そこはちょっと判らないです」

 「つまりですな、一般的に時間の流れを逆転させるという事象において、フィルムの逆回し的なイメージが一般にはあるわけです。割れた卵が元に戻る、布に浸み込んだ水分がその場から出ていく」

 「はい」

 「しかしそれは時空を連続した場として、その情報と関係する物質が全ての瞬間に渡って保存されているという概念に基づくわけです。時間が空間とは別物であり、粒子または波であると仮定した場合にはその保存という概念そのものが成り立たなくなるわけで、時間を逆回しにしたとしてもそれは風向きが変わる程度の現象でしか有り得ない。すなわち可逆的に時間が巻き戻るという発想は根底から否定されるのです」

 「はぁ」

 「ですので、時間が粒子または波であると仮定した場合に、タイムマシンという機械は存在できないのです。これで、もし将来タイムマシンが開発されたとして、ではなぜ過去に干渉する未来人が現れないのかという疑問を解決できます。多重世界論で言えば、タイムマシンを開発できたとしても過去に干渉する未来人が現れない世界という解決もあるのでしょうが、そこはもう選択的世界論の領分にもなってしまいますな。パラレルワールドが実在するとなれば、遥か未来の科学力で実験的理想世界の実現は恐らく可能でしょう。ですが、その実現された理想世界の普遍化が行われていない以上……つまり世界に悲劇が満ちている以上、そういった未来論は否定されるのです」

 「理想世界の普遍化、ですか?」

 「つまり、過去と現在と未来が重なり合って存在しているという時空論では、現在という時空は既に未来によって決定されていると考えられるのです。未来人が存在するということは、現在から未来にかけて構築されるべきである歴史が既に設定されているということなのですよ?ということは、未来人が過去を改変して世界を救うという事象が未来に発生した時点で時空は閉じて然るべきなのです。未来からの干渉で過去が変わるとするならば、過去から現在、そして現在から未来へと設定された歴史そのものが否定されてしまうのです。そして多元宇宙論が真実ならば、既に救われていない我々は、今後の未来においても救われることはないという絶望的な結論しか見いだせないのです」

 「そこは、何か理由があるとしたらどうでしょう。西暦で三千年を過ぎたら更なる未来人が来るとか」

 「そこまで行くともう弥勒菩薩の救済に近い響きですな。それが真実である可能性も否定はできませんが、少なくとも我々のこの現在において判断できる材料はありません。かつて人は地球を平らな円盤だと考え、それが正しいものとされた時代も続きました。まず一つの仮説なり常識なりが打ち立てられ、それに対する考察があって初めて全体像というものが把握されていくものです。私がこうして述べている事柄は全て、現在の状況から鑑みるに、時間を粒子や波動のエネルギーとした場合にはこういう結論が出るという推論にすぎません。それに、今を必死で生きる人々に、全てが未来から見たら決定済みだと告げるのは残酷すぎるとは思いませんか?」

 「それは科学者としての意見ではありませんよね」

 「ええ、私個人の感想です。悲しみを、苦しみを全て決定されていて演じるだけの人生というものを考えた時に、その根底にある連続時空説を私は信じられなくなったのですよ」

 「なるほど」

 憂いを湛えた瞳をしぱしぱと瞬いてから、彼は軽く首を左右に振った。

 「さて大幅に話がずれましたな、私の悪い癖で申し訳ない。本題に戻りますと」

 そう言って彼は手元の懐中電灯を持ち上げた。

 「光というものは実にはっきりしています。光源、方向、そして速度。それらが観測できるからこそ、光が粒子であり波動であるという説も納得が行くのです」

 スイッチを何度か付けては消すと、彼はそれを元の位置に置いてため息をついた。

 「しかし時間はどうでしょう。流れると言いながらも、我々はその流れを実際に目にすることはないのです。全て結果だけが示されて、肝心の時間そのものの存在については全く知覚することがないのです。人は、【ああ今時間が流れているな】という実感を持ちえないのです」

 「なるほど」

 僕はなるほど、としか言えない自分に気付いた。

 「そこで私は考えました。過去へのタイムトラベルの可能性は閉ざされたとして、では未来へはどうでしょうと」

 「未来へ?」

 「そうです。未来です」

 なんだか話が途方もない方向に進み始めたなと僕は思った。

 「ウラシマ効果というものを現実のものと仮定した時に、では亜光速で飛ぶ宇宙船の中にいるパイロットは時間の遅延を自覚しているのでしょうか?いいえ、自覚がないからこそウラシマ効果なのです。ということは、時間波動のジェネレーターは宇宙船の内部にも存在しなくてはなりません」

 「そうなりますか」

 「我々が時間の流れを意識できないというのならば、そう考えるしかありません。知覚と体感で自覚できるのならば、例え肉体的な加齢が無くても精神は年老いるでしょう」

 「なるほど」

 「というわけで、対象物の周囲にある時間波動の動作に干渉し、阻害することができれば、その範囲内にいる当人は全く意識することなく、未来へと進むことができるのですよ」

 正直僕は面食らって何も言えなかった。

 「そして、時間波動粒子に対して干渉する特殊な光というものを発見した時に、その理論はついに完成したのです」

 「ちょっと待ってください」

 僕はなんだかくらくらしてきた。

 「つまり、もう見つけちゃってるんですか?」

 「その通りです」

 彼は先のものとは別の、もう少し古めかしいデザインの懐中電灯を机の引き出しから取り出した。

 「これがそのプロトタイプです。ある特殊な加工を施したレンズによって、照らしたものの時間の流れをほぼ止めることができます」

 「はあ」

 「事実に即した言い方をするならば、この発見は全くの偶然でした。私は単に、もっと性能の良いレンズを作ろうとしていただけなのです。デジタルカメラの画質を銀塩写真にもっと近づけたい、遜色ないレベルに補正できるレンズを作りたいと思っていたのです。ところが出来たものは、それを通した光を照射すると対象物の時間の流れに干渉するという、極めて特殊な能力を備えたものでした」

 「偶然、なんですね」

 「ええ偶然です。その能力に気付いたのもこれまた偶然でした。たまたま放置していたレンズを通して出た光が時間を押しとどめ、飲み物が室温でぬるくならず冷たいままだったのです」

 僕はもう気の抜けた返事しかできなかったが、それでも事の大きさには気づいていた。

 「あとは仮説の立案と理論の構築ですか。現物はあるので事象の観察を繰り返し、修正と訂正を重ねて仮説を強固なものとする作業は実に楽しいものでした。ある程度の矛盾を解決できた時に、私は一つの実験を思いついたのです。そしてその実現のために、家電の修理を始めたのですよ」

 この発見と家電の修理がどうつながるのか、僕にはよく判らなかった。

 「LEDの発展というものは素晴らしいですな、これがなければ私の発想は実現しなかったでしょう。省電力で低発熱、まさに私の考える順行性タイムマシンには必須の性能なのです」

 「それはつまりどういうことです?」

 「これと同じ波長の光を発生するためのフィルターを、家屋の照明に使ったとしましょう。すると照らされている部分の周囲には、時間波動粒子に対する干渉が発生します。つまり、この部屋の照明をそうしたとすると、照らされている部分の周囲つまりこの部屋全体の時間が遅延するのです」

 「それは外と比較した場合ですね」

 「そうです。そしてその遅延率をコントロールし、流れの速さの差を大きくした場合、中では一日程度の時間しか経っていなくても、外では千年の歳月が流れているということも可能なのです」

 「つまり」

 僕は必死に頭の中で情報を整理する。

 「中にいる人間にとっては、瞬時に時を越えたような結果になると」

 「その通りです」

 「俄かには信じられない話ですね」

 「まあそうでしょう」

 言って彼は手元の新聞折り込みチラシを手に取った。

 「百の講釈よりまずは実践です」

 博士はそのチラシをびりびりと破り、5センチ四方ほどの紙片に変えた。

 「まぁ見ていてください」

 右手に先ほどの懐中電灯を構え、左手に持った紙を空中に撒く。ひらひらと落ちる紙片に懐中電灯の光を当てると、光の当たった紙片は明らかにその落下速度を変え……と言うより、空中でぴたりとその動きを止め、そして次の瞬間に光は闇へと変わった。

 「えっ」

 「この光、というか闇の当たっている範囲の時間はほぼ止まりますが、光の中から見ると逆に周囲が高速で移動するように見えます。が、それは一時的な事象で、このように闇の範囲にある物体は見えなくなります。中からは逆に、範囲外の物体は見えなくなるのです。この闇は時間の流れそのものを遅延するわけですから、中にある光も影響を受けて動きを阻害され、結果人の目には見えなくなるわけですな。生物は、物体に反射した光を知覚することで【見て】いるわけですから、この闇の中にある物体からの反射光が時間の遅延と共に戻って来ない状況では、このように何も見えなくなるのです」

 「な、なるほど」

 「光がこの中から脱出できないという意味では、ある種ブラックホールのような状態になっているというわけです。強大な重力場を発生させているわけではないですから、重力レンズ効果のようなものは発生しないので、まあ疑似ブラックホール状態とでも呼びましょうか。闇の中と外では時間の流れが切り離されているので、この闇の中には触れることはできません。このように」

 左手に定規を持って、彼は黒い光の軌道を叩く。コツン、と軽い音がして定規は弾かれた。まるで光の軌道がガラスか何かで出来ているかのように。

 「時間が止まるということは、物体のあらゆる運動が停止するということです。ですから、中の空気はこちら側からはまるで固体のように振る舞って見えるわけです」

 「こんなことって」

 僕は自分の声が震えていることに気付いた。これは大発見ではないのか?

 「進んだ科学はまるで魔法のようですな」

 「しかしこれは、色んなことが可能になるんじゃないですか?」

 「そうでしょうな。例えばあなたは今どんなことを思いつきましたか?」

 「例えば、名画と呼ばれる絵や芸術品の劣化や盗難を防げます」

 「ふむふむ」

 「絶滅寸前の動植物を保護することもできると思います」

 「なるほど」

 「原発事故の」

 僕はひとつ息を飲んだ。

 「放射性物質の封じ込めにも使えるかも知れません」

 「ですな。問題をとりあえず先送りにして、その間に対応を考えようという【現在の技術では不可能だが未来に期待したい】という方策にはとても便利な技術でしょう。先送りについてもっと身近に言えば、冷凍食品や保存食品といったものが不要になり得ます。冷蔵庫ではなく、【停時庫】のようなもので出来たての料理を長期間保存できますな」

 「これはすごい発見で発明じゃないですか。どうして公表しないんです?」

 「それはですな」

 彼の口調は淡々としたまま変わらない。

 「今のところ、量産ができんのです」

 「量産?」

 「ある種のフィルターとなるレンズが、どうしても再現できんのです。工業製品にする上では、再現性の無さは致命的でしょう」

 「解析して貰えば良いのでは?」

 「もちろん、素性は隠してこれと同じものを作って欲しいと依頼はしてみました。製法と材料の混合比まで指定もしましたが、やはり同じものは上がってこないのです」

 「つまり、偶然にできたその一つだけということなんですか?博士の理論に見合うものは」

 「一つというわけではありません。同時期に作ったいくつかで効果は確認できています。ですが」

 彼は嘆息する。

 「誰もが実践できない技術では、手品かペテン呼ばわりで終わるでしょうな。もっと確実なレンズの製法を見つけない限り、この発見は埋もれざるを得ないでしょう」

 「残念です」

 僕は心底がっかりした。まだ人類が到達できない時間への干渉、その鍵が垣間見えているというのに。

 「ですので」

 彼は光を止めた。空間が再び闇からその姿を現し、紙片はひらひらと床に舞い落ちる。

 「ですので、私と家内は未来へ行くことに決めたのです」

 「えっ」

 「特許は出願しましたし、論文もまとめてインターネットへ公開してあります。あとは、この理論を実現できるだけの技術力を人類が持ちうる未来へと、私どもが行けば良いのです」

 途方もない話になってきたな、と僕は思った。

 「とある廃村に家を買いました。ああいう場所では、土地も家屋も驚くほど安いものですな」

 「はぁ」

 「そこを改造して、試作品の照射装置を使い時を超えるのです。半年分の電源と食料、水と酸素は用意しました。かなり遠くの未来へ行くつもりです」

 「しかし」

 僕は口を挟む。

 「未来がどうなっているかはわからないですよ?時間の流れを戻した瞬間に、有毒な空気が流れ込むこともあるかも」

 「ある程度の環境の変化については、五千年や一万年程度であれば無視できる範囲と思っておりましたが、そこまでの大きな変動は想定外でしたな。人類の文明がそこまで自然を痛めつけるとは思いたくないものです」

 「しかし」

 「まあいいのです」

 彼は初めて柔和な笑顔を見せた。

 「どちらにしても片道切符であることには違いないのです。未来の地球が人類の生存を許さないのなら、それに殉じましょう。そんな環境に適応した知的生命体がいたとして、彼らが私たちを資料としてくれたとしたら、それだけでも時を超える意味はあるのです。ただ、旅立ちの前に、元いた時代の誰かに全てを伝えたかっただけなのですよ。あなたが修理を依頼してくださったカード型ラジオ、その中の古いICチップが最後のパーツだったのです。最新の互換品では発生しない誤動作が、レンズの制御に必要な鍵だったのです。そのラジオを持ち込んで下さったからこそ、あなたに全てを伝えようと思ったのですよ」

 博士は先ほど紙片の動きを止めて見せた懐中電灯を、僕のカード型ラジオと一緒に新聞紙に包んで、何か書類の束のようなものと共にスーパーのビニール袋へ入れた。

 「この試作品は差し上げます。電池の消耗が激しいので、それほど長く時間を止めることはできませんが、まぁ手品感覚で遊ぶ程度には使えると思います。もちろん何某かの研究機関に持ち込んで下さっても結構です。私の申請した特許は恐らくは却下されると思いますから、書類の写しも差し上げましょう。事業化する可能性が見えたら、あなたの名前で出願して下さい」

 「しかし」

 僕は三度目の【しかし】を口にした。

 「大丈夫です」

 彼はきっぱりと言った。

 「どんな結果になろうとも、私は後悔しないでしょう。例え人類の終焉を目にすることになろうとも、それはこの時代の誰も為し得ない体験ではありませんか。惜しむらくは戻ってそれを伝えることができないという点ですが……もし私が辿り着いた時間の先で人類が、時空波動の向こうに押し流された情報の再構築に成功したのなら。すなわち過去へと戻るタイムマシンを完成させ得たのなら、その時はあなたにもう一度お目にかかりたいものですな。まあ私の理論上は有り得ない話ですが、未来に期待しましょう」

 ああ、この人はもう全て決断しているんだなと僕は思った。凛とした瞳の中の光は、とうに僕やこの時代の何事も見てはいないのだ。彼の心は既に見知らぬ未来へと向かっていて、月並みな言い方ではあるが希望に燃えているのだろう。

 僕は丁寧に礼を言い、修理代の五百円を夫人に手渡そうとしたが彼女はそれを受け取らず、そっと押しとどめた。僕はもう一度礼を言い、ビニール袋を持って研究所から出た。

 「ああ、あと」

 門をくぐって歩道へと出ようとした時に、博士が後ろから僕に声をかけた。

 「明日にはこの研究所も畳みます。が、まだ少しこの時代に留まって準備がありますから、その試作品を公表するとしたら来月以降にしてください」

 僕は振り返って博士の顔を見た。満面の笑みで彼は僕を見送っていた。充実した、いい笑顔だった。

 つまりそれは、と僕は言いかけて言葉を飲んだ。今月末には、彼らは旅に出るのだ。遠い遠い時間の向こうへ。

 わかりました、お元気でとだけなんとか言って頭を下げ、僕は家路へついた。とてもスーパーで牛乳やインスタントラーメンを買うような気分にはなれなかった。




 あれから数週間が過ぎ、月が替わった。木々は若葉の緑を萌やし、日差しは強くなり始め初夏が近いことを知らせる。

 あの博士夫妻は今どこにいるのだろうか。既に僕とは違った時間軸の上にいるだろう二人の事をぼんやりと考えながら、取り壊されて更地になった研究所の前を歩いていた。

 博士、僕はこうやって歩いてスーパーに食料品を買いに行くんです。あなたの感じるほんの数秒で、僕の一生は終わるかも知れないんです。


 博士にもらった例の懐中電灯は実に便利に使っている。ラーメンを食べている最中の宅急便到来時にその威力を如何なく発揮しているのだ。ただし、電池の消費が思っていたよりも激しく、単一乾電池二本をたった三十分の点灯で使い切るのにはいささか参った。これについては、乾電池型の充電池を使うことでコスト面は解決したと思ったのだが、その急激な放電に充電池がついていけず、十回も使うと充電不能な状態になってしまうことが判明した。仕方がないので百円ショップの安い乾電池を買い溜めすることにして、電池についてはもう目を瞑ることにした。

 僕が年老いて、それでも猶人類がこの現象に気付いていなかったとしたら、この魔法のような技術と現象を世間に放とうと思っている。博士が資料をアップロードした先のサーバーは単なる保管庫で、そのデータは既に過去のものとして削除されている。僕はその寸前になんとか辿り着き、いくつかの圧縮された論文データを確保した。それは博士があの日僕に託した資料と寸分違わぬ物だったが、少なくともスキャニングする必要はなくなったわけだ。

 削除までにどれだけの人がそのファイルをダウンロードしたのかは判らない。どれだけの人の目についたのかも判らない。それでもひょっとしたら誰かがそこに辿り着くかも知れないのだ。


 だから。


 もし誰も博士の残した足跡に気付くことがなかった時にだけ、全てを明らかにしようと思う。あの人たちは、悪用しようと思えばいくらでもできるこの発見を、儲けようと思えばいくらでも儲けられるこの発見を、僅かに自分たちの知的好奇心のためだけに使うことを選択して時の彼方へ旅立った。ならば部外者である僕が、その発見を利用して利益を得るのは、なんだか間違っている気がしてならないのだ。



 そして今日も、宅配便の到着を知らせるチャイムを合図に、闇の光は僕の食卓の上で食べかけのラーメンをその漆黒の中に包む。これくらいは役得ということで許してもらいたいものだ。


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