第1話 黄昏の街

 国土倍増計画。それはもう三十年ほど前に放棄された計画の名前だ。

 なんとか言う大学教授が提唱したそれは、時空間となんだかよくわからないものに干渉して、過去に流れ去った時間を固定して利用するという完全に空想科学的な発想だったと記憶している。

 そんな研究が国家的プロジェクトまでに発展したのは、実際に過去の日本への入り口をその教授が開いて見せたからであり、その様子はテレビを通じて全世界に公開されたからだ。


 しかし、結果的に計画は放棄された。


 テレビカメラが捉えた昭和四十年代の風景はセピア色に褪せていて、空も夕暮れのように薄暗かった。人の姿はどこにもなく、ただ風景だけがしんと静まり返る世界に存在するだけだった。

 そしてなにより現代の人間が過去の物体に干渉することはできなかった。枯れ葉一枚動かすことはできなかったし。当然のように当時の電気も水道もガスも使うことはできなかった。


 何もできないということは、その土地の生産性がゼロに近いということである。


 持ち込んだ太陽電池すらなぜか機能せず、現代からコードを引き込まないと電化製品は使えなかった。過去の世界に対して干渉はできないので、当然のように土地を整地することもできず建物をつくることも困難だった。

 つまりほぼ好き勝手に使うことは不可能な場所であって、少なくとも夢の新天地と呼べるような場所でないことは確かだった。エネルギー問題や環境問題を解決できるような場所ではないと誰もが理解した時、プロジェクトは放棄された。そもそも過去へのゲートを開くためには莫大な電力と高価な装置が大量に必要であり、実利を得られない以上は続けても意味のない事業だと判断されたのだ。

 映像屋や中近代博物学者なども最初のうちは喜んで取材に回っていたが、ゲート維持コストが入場料に転嫁されるとなるとめっきり寄り付かなくなった。たった一時間の滞在でうん十万円も取られてはたまらない。

 ゲート装置の機能そのものは国が管理維持することに落ち着いた。災害が発生した場合、退避施設として活用するプランなんかもあったらしいとは聞くけれど、非常時に稼働させられるだけのエネルギーを確保できるわけもなく廃案になったと聞く。かくして、時間と空間に文字通りの風穴を開けたプロジェクトは廃れた。




 その日僕は特にあてもなく街をぶらついて……いたわけではなかった。探していた中古CDが入荷したという知らせを貰ったので、隣町まで仕方なしに来たに過ぎない。古い知り合いが経営するその雑貨屋に顔を出すのは数か月ぶりで、配送にしてくれという僕の願いを郁子もなく断ったのは、たまには顔を見せろという理由だった。

 季節は秋口のはずだがまだ日差しは強く、アスファルトの照り返しでシャツはたちまちのうちに汗を吸う。角をもう二、三折れれば目的地というあたりで、何か騒がしい気配がラカンマキの生垣の向こうからした。

 「止まれ!」

 男の声がした。

 だっ、と角を曲がって駆けてきた少女は僕を見るとにいっと笑って、左腕の腕輪を……腕輪というか小手なのか?肘近くまである銀色のそれを右手でさっと擦った。途端に少女の姿は消え失せる。

 「待てっ!」

 スーツの男が二人、続いて角を曲がってきた。この暑いのに上下スーツとはご苦労なことだ。

 「逃がしたか」

 黒のスーツは肩を弾ませながら悔しそうに言った。

 「女の子がこっちに来たはずだが」

 茶色のスーツが僕にそう尋ねる。その右手には拳銃が握られていた。

 「来ました、けど」

 僕はねばつく口の中を気にしながらそう言った。

 「消えましたよ、見間違いじゃなければ」

 茶スーツの男は拳銃を上着の中のホルスターに戻すと、その流れで手帳を取り出し僕に見せてきた。警察手帳というのはあまり実物を目にする機会はなく、テレビドラマもほぼ見ない僕にとっては、顔写真入りの身分証が中に入っているなどという予備知識もない。昔のドラマなんかだと表紙をチラ見せするだけだったけれど、今はちゃんと見せるらしい。

 「捜査中でね。何か怪しいものを見かけたら、お近くの交番まで」

 はぁ、まぁとぐにょぐにょ言っているうちに二人は颯爽と立ち去ったので、僕は目的の雑貨屋を目指してまた歩き始めた。

 雑貨屋とは言っても民家の一角をそれっぽく改装しただけで、小さな看板がない限り誰も店とは気づかない。逆に、住宅街に隠れた美味しい食事の店と勘違いして入る人の方が多いという。店の主は僕の学生時代にお世話になった恩人で、元はどこかの大学で教鞭を取っていたと聞く。当人が過去の話をあまりしたがらないのでわざわざ聞くこととはしないけれど、いわゆる学者といったタイプの人ではなかった。

 「なんだ来たのか」

 「来ましたよ先生」

 僕は苦笑しながら答えた。なんだはないだろう、呼びつけておいて。

 でもこういう人なのだ。

 「ほれ、これだ。こんなもん欲しがるなんて珍しいな」

 それはずいぶん古いアニメのサウンド・トラックで、長らく絶版になっているものだった。いや、正確に言えば再販はされているのだが、権利関係だかなんだかで収録曲が大幅に変わっていた。聞けないとなるとどうしても聞きたくなるもので、その話をたまたま先生にしたところ任せておけと捜索を引き受けてくれたのだ。

 「この作曲家も亡くなりましたしね、聞きたくなったんです」

 僕はCDを受け取って、代わりに五千円札を差し出す。先生は受け取ると、しわくちゃの千円札を三枚戻して寄越した。

 「動作確認で聞かせてもらったぞ」

 「かまいませんよ、レコードじゃあるまいし、擦り減りはしませんから」

 「あんまり面白くない曲だったな」

 「アニメのサントラですからね、そんなもんですよ」

 さすがに店内は冷房が効いていて涼しい。湿ったシャツがひんやりとしていくのが判る。

 「そういや先生、さっき面白いものを見ました」

 「面白いもの?」

 先生は顎髭をなでながら、疑うような口調で言った。

 「ものというかことというか。女の子が僕の目の前でパッと消えたんです」

 「残暑で目がおかしくなったかね?」

 「ならいいんですけど。その子、刑事に追われてたんですよ」

 「自主製作映画の撮影かな」

 「違いますよ」

 僕は口調しながら、まだ疑いの姿勢を崩さない先生に続ける。

 「警察手帳も見ましたよ、今のは縦にパタンと開くんですね?あんなの初めて見ました」

 「ほう」

 先生は神妙な顔のままで相槌を打つ。

 「捜査中って言ってました。あの子泥棒か何かなんですかね?」

 「どうしてそう思う?」

 「そりゃ」

 僕は受け取ったCDのケースを開けて中のディスクを取り出し、記録面に傷がないか見てみた。綺麗なものだ、目立った傷はない。

 「刑事が二人がかりで走って追いかけてたし、一人は銃まで抜いてましたよ。逃がしたか、なんて言ってもいたんで捕まえる気満々だったっぽいし。町内で何か、被害とか出てるんじゃないですか?」

 「空き巣や泥棒の話は聞かないな。人が失踪したって話はあるが」

 「失踪?」

 ディスクを戻してケースを閉じ、肩掛け鞄にしまってから僕は尋ねた。

 「このあたりでですか?」

 「ここは古いベッドタウンでね。高度成長期に分譲された郊外住宅地の一つだ。住人の大半はもう引退して年金暮らしで、その子供世代に代替わりしている家は少ないな。都心への通勤には微妙に不便だし、最近流行りの在宅勤務にしたってこのあたりに住む理由にはならない。言わば『黄昏の街』ってところなんだが、ここ最近住人が突然所在不明になる家がぽつぽつあるんだ」

 「所在不明ですか」

 「独り者か老夫婦、とにかく子供と住んでいない世帯の人間がある日突然いなくなる。何の痕跡も残さずに、だよ。海外にも国内にも旅行しているわけじゃないらしい」

 僕は狭いカウンターの上に並べられている怪しい瓶を眺めながら答える。

 「そりゃ妙な話ですね。しかしなんだってそんなに詳しいんですか?」

 「そりゃ俺も独居老人だからな。刑事が聞き込みに来て色々喋ってった」

 「ははは」

 「共通する点は二つ。子供や孫がいないかほぼ没交渉な老人なことと、失踪前日に口座から十万円引き出しているということだ」

 「十万円ですか」

 「一人十万円。夫婦だと二十万円らしい」

 先生は怪訝な顔をする僕の目の前から怪しい瓶を取り上げて、棚の向こうに隠した。

 「失踪賃ってわけですかね」

 「警察はそう見てるみたいだ。もしくは安楽死の代金」

 「なかなかミステリアスですね」

 「刑事がうろつくとしたら心当たりはそのへんしかないが、少女が消えたっていうのは判らんな。ただ追っていたというのなら、その女の子が何か一連の失踪に関わりがあると見ていいだろう」

 「先生も失踪しないで下さいね」

 「お前がもっと頻繁に顔を出してくれれば、その心配はないよ」

 笑う先生に僕は挨拶をして店を出た。切りのいいところで引き上げないと、このまま夕食から晩酌まで付き合わされて深夜帰宅コースになってしまうので、早々に退散するが吉なのだ。

 帰り道に街並みを眺めてみると、確かに住宅街にしては静かで古びた街並みだった。黄昏の街か、と僕は口の中で呟いてみる。かつてこの国を支えた人々がその夢と人生の終着点として生きる街。

 安楽死にしろ失踪にしろ、痕跡がないなら警察も手出しはできないだろう。それなのに刑事が動いているというのならそれは間違いなく、共通する『引き出された十万円』からの犯罪臭からなんだろう。

 しかし警察が動くということは恐らく一人や二人ではなく、かなりの人数が消えているからだろう。人間なんてそんなに簡単に消せるものか?

 とそこまで考えてなるほどと僕は得心する。そんなことは個人レベルでは不可能だ、何か組織立った犯罪の可能性だってある。だからこそ警察が動いているんだろう。

 「違うよ」

 うんうん、と一人うなづく僕の背後から声がした。

 驚いて振り向くと、そこにはさっき消えた少女が静かな笑みを湛えて立っていた。女性の年齢を外見から推定するのは僕の苦手とするところだけれど、恐らくはまだ高校生くらいに見える。

 「あなたの想像はだいたい合ってる。でも違うよ」

 「何のこと?」

 「組織でもないし犯罪でもない」

 僕はぎょっとした。

 「声に出てたかな?」

 「出てないけど判ることもあるのよ。とにかくこの事については詮索しないで、忘れた方がいいわ。どうせこのへんはもう終わりだし」

 「もう終わり?」

 「そう。もうこれ以上は」

 そこまで言ったところで彼女の顔が強張った。僕は背後に気配を感じる。たぶんさっきの刑事だ。

 彼女の右手が左腕の腕輪に触れようとしたので、僕はとっさにその手を掴む。

 「ちょっと待っ」

 次の瞬間、僕の意識は途絶えた。まるでテレビの電源を落としたように、視界の全てがシャットダウンされた。




 時間というものの正体について、今のところ僕が知ることは少ない。

 時の流れという言葉があるように過ぎていくものらしいことは判るが、それがどこに行くのかについてまでは判らない。目に見えるものではないし触れることもできない。

 高速で移動すると時間の流れが遅くなるという話も知っている。ウラシマ効果というやつで、つまりそれは時間の流れというやつがどこでも一定ではないらしいという証明らしい。らしいらしいばかりで申し訳ないけれど、僕の認識なんてこんなものだ。

 国土倍増計画の土台になった時間理論では……これも聞きかじりの知識なので申し訳ないけれど……過ぎ去った時間にはその場の情報が保管されており、時空間そのものを平面と捉えてその連続性に干渉することにより、保存されている過去の情報にアクセスが可能である、とされている。らしい。

 平たく言うと過ぎた時間は映画のフィルムのような感じで、その任意の点に移動できれば過去に行ける、という感じのようだ。感じのようだと言うのは、そういう風に理解しているんだけれどと先生に尋ねてみた時に、大筋では合っているが概念的に異なるとかなんとか否定されたからだ。だが素人としての理解はそんなものだろう、全然違うわけではないからそれくらいでいいだろうとぎりぎり及第点を貰ったわけである。

 だいたいフィルムの中にいる我々がどうやって過去のそれを見ることとができるのかも判らないし、過去の情報が保管されているなんて言われても全くチンプンカンプンだ。その場合、時間とはいったいどういった形のものになるんだろう?

 まぁ時間の正体が何にしろ、それに意図的に干渉することが出来るのならば……といった空想作品は過去現在類挙に暇がないわけで、それだけ時間は身近にありながらも謎に満ちた存在なんだろう。たぶんそれは男女間の恋愛に近いほどに。

 さて、僕はどうもあれから道路に倒れていたらしく、鈍く痛む額を押さえながら薄目を開けて身を起こす。ゆっくり目を開けると、そこはさっきの街並みだった。

 いや違う。景色が全てセピア色に褪せて見える。これは……

 「やっと気が付いたのね」

 振り返るとさっきの少女が、憤慨したように腰へ手を当てて立っていた。

 「まさかついて来るなんて」

 「いやごめん、しかしここは?君は?いったいこれは?」

 「そんなに一遍には答えられないわよ。落ち着いて」

 彼女はあきれ顔でそう言うが、落ち着けるものなのか?

 「いやでもここはなんていうか、普通じゃない」

 「そうよ。過去だもの」

 「過去!?」

 「声が大きいわよ」

 彼女はうんざりしたようにそう言って、すたすたと歩きだした。僕もおっかなびっくりその後を追う。

 セピア色の街にはおよそ色彩と呼べるものは僕たち二人の他になく、また音というものも僕たちが立てるもの以外にほぼ存在しなかった。足音が止まれば、耳が痛いほどに静まり返る。まるで自分の鼓動すら聞こえてしまうかと思うくらいに。

 彼女が足を止めたのは、住宅街の中ほどにある小さな公園だった。ブランコ、砂場、簡素なベンチ、防火用水の栓と物置小屋、と樹木。まぁだいたい記憶にある小さな公園というやつだ。

 「ここだったね」

 すたすたと入っていく彼女を僕は速足で追う。風も木々のざわめきも人々の喧騒も一切がない街はとても不気味に思えたので、色彩があって動くものから離れたくはなかった。

 「座って」

 ベンチに腰掛けるなり、隣のスペースを平手でぺしぺしと叩く彼女に促されて、僕はそのプラスチック製の簡易ベンチに座った。僕の記憶にあるようなそれは大抵風化し始めていてひびや欠けが目立ったものだが、それはセピア色に見える以外に何の劣化もないように思えた。

 「さてと、疑問に答えるわよ。まずここは過去。さっきいた街の過去」

 「はぁ」

 「だいたい五十年前くらいかしら?この街が出来上がって少ししたくらい」

 僕はあたりを見回してみた。が、この街の住人でない僕に何か違いが判るはずもない。

 「私はミカ。苗字は秘密。どうせあなたとはもう会わないだろうし」

 「はぁ」

 「それで、私は警察に追われてて、逃げるところであなたも一緒についてきちゃった。そういうこと」

 「はぁ」

 「あなたはぁしか言わないのね」

 むっとした顔でミカは言うが、これは仕方のないことじゃないのか?

 「いや、その」

 「ん?」

 僕は記憶の中にあった、セピア色の景色について思い出していた。ニュースで見た実験開始と、すぐ中止になったあれだ。

 「ここはその、【国土倍増計画】のあれじゃないか?」

 「そうね、おじさんくらいの年代なら覚えてるか」

 「おじさんであることは否定しないが、はっきり言われると傷つくな」

 「まぁそのへんはいいじゃない」

 ミカは悪戯っぽく笑った。周囲が色褪せて見えるからというわけではないが、いい笑顔だなと思った。

 「あの計画が国家的プロジェクトから外されたのにはいくつか理由があるわ。ひとつは、ゲートを開く年代が固定されていたこと。ひとつは、移動先の空間は固定されていて使いようがなかったこと。そしてもうひとつ」

 「もうひとつ」

 ミカは真顔に戻って、静かに言った。

 「元の時の流れから離れて長く過去にいると、死んじゃうの」

 「死ぬ……」

 「動物、植物、無機物も区別なく。機械も死ぬんだよ」

 恐ろしく澄んだ瞳で僕を射抜くように見つめながら、ミカは続ける。

 「だから計画は破棄された。でもおじいちゃんは何か解決方法がないか、一人でずっと研究を続けたの。それで完成したのがこれ」

 ミカは左腕の、小手というか腕輪というか、とにかく謎のデバイスを僕に見せる。

 「これのおかげで、行く時間を選べるようになった。ゲートを開くエネルギーもごくわずかで済むようになった。ドアとか窓くらいなら開けられるようになったし、理論的にはこれで常に元の時間と繋がっているから、長くいても死にはしないって言うけど、そこはまだおっかないから実験してない」

 「そうだろうね」

 もし機能が不完全なら死んでしまうという装置を、自分で実験する勇気なんて僕にもない。ミカがそう言うのも当然だろう。

 「で、あれかな」

 僕は恐る恐る、頭の中で組み立てた推論を口にした。

 「君はこの街の老人たちからお金をもらって、彼らの望む過去に連れてきている」

 「そうよ」

 ミカはこともなげに言った。

 「そしてここに来た人は」

 「死ぬわ。そして存在そのものが無に帰る」

 「無に……帰る?」

 ミカはベンチの座面を撫でながら言った。

 「ここに長く置かれたものは、24時間経つとまずその活動を止める。生き物は死ぬし、機械装置は動かなくなる。そして三十分くらいもすると光の粒子になって、空に消えていく」

 「消える……」

 「どこに行くのかは知らないわ。ただ光になって、この黄昏の空に散っていく。綺麗なものよ」

 「しかしそれは……間接的な殺人では」

 「そうね、それは間違いない事実だわ。だからお金をもらうのよ、こんなことタダでやってたらおかしくなっちゃうもの」

 「営利でも同じじゃないのか」

 僕の声は震えていた。

 「気分的な問題よ。でも一人十万円はそんなに安い額でもない。それを払ってまで、思い出の中で消えたいという人がいる」

 「現世への全てを断ち切って」

 「もちろん、途中解約だって受けてるのよ。ここに来た理由は、ほら」

 ミカが顔を正面に向けた。そこには静かな笑みを浮かべた老婆が立っていた。

 「どう?戻る?あと三十分くらいで期限だけど」

 「大丈夫、このままで」

 「そう」

 微笑むミカの横顔は、黄昏の光に照らされて神々しく見えた。

 「色褪せて見えても、思い出の景色が見られたんだもの……もう満足」

 近寄ってきた老婆はそう言って、涙を浮かべながらミカの手をしっかと握りしめた。

 「亭主とあの子がいた頃の……あの頃の景色。もう二度と見られないと思っていた頃のお家。ありがとうね、こんなに嬉しく思ったことは本当に久しぶりなの」

 「そう……それじゃ、最後の時間までこの風景を楽しんでね」

 「ええ、そうさせてもらいます。本当にありがとう」

 老婆は何度もミカに頭を下げて去って行った。僕には何も言えなかった。

 「……ここでいう明日、あの人は一家で出かけた旅行先で夫と一人息子を亡くしたんだって。それから何十年もあの人は一人で生きてきた。そしてずっと、一人残されたことを悔いていたそうよ」

 僕は口を挟むどころか、相槌すら打てなかった。

 「考え方は人それぞれだから、何が正しくて何が間違ってるかなんていうことは判らないよ。でもね、例えば自殺でもしようだなんて思っている人がいて、もうその決意を誰も止められなくて……止める人すら周囲にいないのなら、せめて思い出の中で消えるという選択肢があってもいいと思うんだ」

 僕には判らなかった。漠然と生きているだけの僕ではたぶん、その答えを見つけることは無理なのだろう。

 「心が痛まないと言えば噓になるけど……でもあの人に同情したとして、でも私は家族になってはあげられない。どこまで親身になろうとしても、あの人の家族は亡くしてしまった夫と息子さんだけなんだ。だからお金をもらうんだよ。そうやって、これは商売だからって区切りをつけないと」

 それはもう説明というか、言い訳や弁解に近いと僕は思った。思っただけで、それを指摘する資格などたぶん僕は持っていない。

 「私たちにはとてつもなく寂しく見える世界だけど、あの人にとっては輝いて見えているのかも知れない。人の思い出の価値っていうのはきっと、自分にしか判らないんでしょうね」

 「そうだね」

 僕はやっとそれだけ言った。そしてそれからミカは一言も口をきかず、ずっと東に顔を向けていた。一時間が経った頃、少し離れた家の屋根から空に昇っていく光の粒子が見えた。

 「これで」

 ミカは勢いよくベンチから跳ね降りた。

 「これでこのあたりでの仕事はおしまい」

 「このあたりで?」

 「そうよ」

 ミカは笑って見せたが、その目は涙で一杯だった。

 「この国には似たような元ベッドタウンがあちこちにあるわ。私はそんな街を回って、記憶の中に人を誘う死神なの」

 確かに死神なんだろうとは思う。思うけれど、その自嘲に心からの賛同をすることはできないような気がした。

 「警察に言っても無駄よ、証拠はどこにもない」

 「だろうね」

 一部始終を見せられて、それでもこれを他人に説明することは難しそうだと僕は思った。

 「それに、時間が経てばみんな都市伝説扱いになるわ。しばらく何もしないでいいくらいには稼げたし」

 「途端に下世話になるね」

 「仕方ないわよ、私は生きているんだもの」

 「そうか」

 「警察には、気を失ってて何も見なかったって言うといいよ。今までだいたいそれでなんとかなってる」

 過去にもこうやってくっついてきた人間がいるのか、と僕は少し驚いた。まぁ僕のとっさの行動なんてむしろ他人より遅いくらいだから、こういった光景を目にしたまま黙っている人も多いのだろう。

 「じゃあ帰ろうか、おじさん」

 ミカは僕に自分の肩を掴ませると、また腕輪に触れた。その瞬間、僕の意識はまた途絶えた。



 僕とミカは現代の公園に突如として出現することになったのだが、その様子を目撃されることはなかった。もうこの街に、公園で遊ぶような子供もその家族もほぼいないのだろう。

 僕と彼女は一言も口を利かないまま最寄りの駅に向かい、そして正反対の電車に乗って別れた。それから半月後に僕は先生の雑貨屋を訪れ、意を決して全てを先生に打ち明けてみた。

 「成る程」

 先生は感慨深げに言った。

 「その子はきっと件の教授のお孫さんだろう。孫がいるという話も、研究を続けているという話も聞いてはいたが、そうか」

 「でもどうなんでしょう」

 僕は思い切って聞いてみた。

 「彼女のしていることの善悪とか、何やら色々ともやもやするんです。やっぱりどう考えても自殺幇助でしかないようにも思えるんです」

 「しかないようにも、というところがポイントだな」

 先生は僕をじっと見据える。

 「おそらく君は……そういう選択肢があっても仕方ないと思っている。思ってはいるが割り切れない。人の命というものの重さを考えるならば、間違っているようにも思えるのだろう」

 「その通りです」

 「だがね」

 先生は一度言葉を切った。

 「……だがね、人の命の使い方、終わらせ方ということを考えた時に、自分のためだけに費やすという選択肢があってもいいんじゃないだろうか」

 「自分のためだけに?」

 「君の話では、少なくとも戻ってくる人もいるのだろう?それはきっと、思い出以外にも生きる場所があるからだろう。しかしどちらが幸せなのかは、他人には判断できん事だと思う。世の中は善と悪、白と黒だけに割り切れんものだ。警察が動くくらいに望む人が出るという事実は動かしがたい」

 ミカは確かにこのあたりから去ったのだろう、失踪する人の話はとんと聞かなくなった。しばらくしてまたどこかの街で、あの世界へと誰かを誘っていくんだろうか。

 「まぁなんにしても」

 先生は満面に笑みを浮かべる。

 「こうやって出不精な君が訪ねてくれるようになったことは嬉しいがね」

 なんだかうまくはぐらかされたような気もしたが、先生ににすら簡単に割り切れる問題ではないのなら、僕がこれ以上思い悩んでも仕方のないことだと思うことにした。

 年長の知恵者の存在は、こういう時にとても有難いものだな、と僕は思った。朝晩そろそろ涼しくなってきた、秋の日のことだった。





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