ストレンジ・ワールド

小日向葵

序章

 「可能性世界」

 静かにそいつは言った。

 「無限に枝分かれする世界があるという論くらいは知っているだろう?」

 「パラレル・ワールド」

 僕はそう答えた。

 「AとBの選択肢がある。どちらかを選ぶことで分岐する世界、それぞれが世界として存在し、我々の意識はその選択されたレールの上に在るという考え方だ」

 ふう、とひとつため息をついてそいつは続ける。

 「物語として、思考実験としては面白い。だけど、ではその選択肢で分岐するという現象を、誰が、どのように決定するんだい?」

 誰が、どのように?

 「つまりね、これは単なる思考実験でしかないんだ。例えば川に流れる水の流量というものがあるだろう。あれは一秒にどれだけの水が流れているかを表す数字だ」

 僕は脳裏に実家近くの堤防から眺めた……県境にもなっている川の水面を思い浮かべた。深い緑色に濁った川の水は絶えることなく流れているようにも、ただそこに漂っているようにも見えていた気がする。

 「しかしね。時間にしろ水の量にしろ、それは人間が生活するうえで便宜上つけた単位にすぎない。水は別に自分が何立方メートルの量があって一秒に何メートルの距離を移動したなど考えてはいないし、時間も自分が一分一秒などという単位で区切られているなど知ったことではない。人生における選択肢、歴史の分岐点などと言われるものだって人間が勝手にそう考えているだけで、世界からしたら知ったことではないんだよ。つまり」

 「つまり、並行世界は存在しないと?」

 「そうだ」

 皮肉めいた笑みをそいつは僕に向けた。月光に照らされて、そいつの眼鏡が鈍く輝く。

 「そういった意味での並行世界など存在しない。存在できない。可能性による分岐は人がそう考えるだけで、その可能性が世界の在り様に干渉することはない。干渉できるような性質のものではないんだ。人は光を遮ることはできても、その速さに干渉はできない。時の流れを自覚はできても、その流れに干渉することはできない。それが出来るとしたらもうそれは人ではなく神の領域になるだろうし、そういったことを日常にする神が存在したとしても、そうではない存在を認識しているかどうかもわからない。だからね」

 そいつは目を閉じて軽く頷いた。

 「皆が思う並行世界など存在しないんだ。無限に分岐する可能性世界などは存在しない。だけど、あると考えて楽しむのは自由だ。空想というのはそういうものだろう?世界にはその手の娯楽が満ち溢れている。私から見れば宗教なども同じだ、魔法、空想科学、スペースオペラ、超能力、異世界……全ては人の心が産み出した夢でしかない。願望でしかない。だからこそ価値があると私は思うがね」

 「でもあなたは僕を【別な世界に行かないか】と誘った。それはどういう」

 「それはね」

 食い気味にそいつは言葉を被せて来た。

 「君がこの世界から消えてなくなりたい、いっそ死んでしまいたいなどと願うからだよ。そういった無粋な望みは、夢の中では出来るだけご遠慮いただきたいんだ」

 「無粋」

 まぁ確かに無粋ではあるだろうと僕は思った。

 「まぁ確かに生きづらい世の中であるとは思う。誰もが希望を持って生きている世の中、とは言い難いことは保証できる。順風満帆に見える人々であってさえも不安を抱えてはいるだろうし、それこそ一寸先は闇であるかも知れない。社会全体に閉塞感が充満しているのは、世界の全容がだいたい見えてきて未知の部分、つまりはわくわくするようなどきどきするような発見の余地がもう残されていないからなんだろう。人の欲望には限りがないが、この星はもうその欲望を抱え込めるだけの余地を、可能性を、期待値を使い切ってしまった。まだ見ぬ未来の予想図さえも簡単に創り出してしまう世の中が閉塞しないわけがないという現実に、誰もが気づいてしまった。人の生き様が明確にルート化されているように見えてしまえば、その心は可能性の分岐という視点からパラレルワールドという空想を生み出すのは必然だ」

 「必然ね」

 「そう必然だ。水に単位を、時間に区切りをつけて判断するように。この世界とは違う世界があるという妄想、空想、発想、それは全て必然なんだよ。剣と魔法の世界、人類とは別種の知的生命体が支配する世界、違う選択が為された世界。人はね、どんな人間であってもそういった世界を考える。心の内側に誰もがそういった世界を持つ。世にクリエイターと呼ばれる人間は、自分の中のそういった世界を現実に表現する能力を持って産まれて来た人種だ。音楽、絵画、写真、文章。そういったもので、自らの心の世界の在り様を現実世界に伝えることができる人間。単にアウトプットすることだけなら誰にだってできるだろうけれど、的確に表現できる能力は限られている。だから珍重される。アーティストとも呼ばれる。尊敬され褒め称えられるのはね、誰もがそうしたいと願っていても、簡単にできることではないからだ。表現できる手段を持たないからこそ、それを持つ人間を尊敬するんだ」

 「そうだろうね。で、それと別の世界に行くという話はどう繋がるんですか?」

 「慌てるなよ」

 右手で眼鏡の位置を修正しながらそいつは笑った。

 「並行世界は存在しない。可能性世界も存在しない。存在するのはこの世界と、人の心の中にある願望の世界だけなんだろう?」

 「そうだ」

 「なら別世界への誘いは成立しないんじゃないか?」

 「そうだ、成立しない。また同時に、成立する」

 「なんだそりゃ」

 「君がこの世界を息苦しく感じ、どこかへ行きたいと考えるのは自由だ。だが現実問題としての逃避先などは存在しない。君が逃れることのできる世界などどこにもない。人として生を受けた以上、今から犬や猫になることなど不可能だ。だから成立しない」

 「うん」

 「そしてここからは違った観点からの話になる。つまり、可能性世界が存在するとした場合に、それはどういった種類のものなのかということだ」

 「どういった……種類?」

 「そうだ。要は今まで別世界の存在を否定してきた論の全ては、人間が観測できる単位事象からの否定論であって、人間が感知または関与できない部分での分岐について述べたものではないということだよ」

 わけがわからなくなってきた。これは屁理屈なんだろうか?

 「人は言語を使いコミュニケーションを図る。しかし他の生き物についてはどうだろう?クジラやイルカなどは超音波によって意思疎通をしているらしいことまでは判っているが、その本質までは理解できていない。それは彼らの思考様式が解明されていないからだ。危険を知らせたり存在を誇示する方法があるらしいことは判っていても、それが言語と呼べるものなのか単なるサインなのかすら判らない。犬や猫だってそうだ。彼らの間の交流について人類はほぼ理解していない。だが彼らの間には明確に愛情も敵対もあるし、周囲の状況に対する理解や伝達と思しき反応もある。だが人類と対話するまでには至っていない。人類の尺度で測ることはできないが、そこに何かが存在することは明白であるわけだ。君にもそれを完全に否定することはできないだろう?」

 「そりゃ、まぁ」

 やっぱり屁理屈だよなぁと僕は思った。否定しきれないという部分に食いつけば、幽霊だろうがなんだろうがアリアリになってしまうだろう。

 「つまりそういった、人が関与できない部分での可能性世界……人の、人としての可能性や分岐ではなく、何かもっと別の理による分岐が為された世界なら存在し得るのではないか、ということだよ。そして私が誘うのは、そういった意味での【別世界】になる」

 「よく判りません」

 僕は正直に答えた。だいたいこの会話自体、どこで行われているものなんだ?しんと静まり返った青い月夜の草原、こんな場所に来た記憶はない。

 「ここは君の心の中の原風景のひとつだ。私は夢を介して君に話しかけている。と言えば説明したことになるのかな。おっと、今君は声には出さなかったね、失敬」

 「心を読めるんですか」

 「ここでは心を読むのも文字を読むのも同じようなものさ。だからこちらで活動することに慣れ過ぎると、そういう失敬をしてしまうこともある。済まなかったね」

 失敬なことなんだ、と僕はぼんやり思った。これが夢であると知覚してしまうと、何もかもがぼんやりとしてしまう気がした。

 「きちんとした説明はできないが確かに存在する、そんな別世界へなら君を誘おう。どういった理由で別世界とカテゴライズされているのかすら我々人類には解明できていないが……何かがどこかで分岐した世界だ」

 「そんなところへ行ってどうしろというんです?」

 僕は首を捻った。

 「例えば明確に、僕が成功者となった世界に行くというのなら万々歳ですけど」

 「さぁどうだろうね」

 そいつは薄く笑った。

 「どちらにしてももう手遅れだ、君は明確に拒否をしなかった。だからもう、別世界の方から君を飲み込み始めた」

 「冗談じゃない」

 「もちろん冗談じゃないよ。目が覚めるたびに君は別の世界に行く。その違いに気づくかどうかも判らないが……別世界という名前の、同じ世界だといいね」

 「いいねって、そんな無責任な!」

 僕がそいつに掴みかかろうとした瞬間、景色がぐるぐると渦を巻いて漆黒に飲まれていく。

 「まぁそのうち戻れる日も来るさ、その時にまたお会いしよう」

 そいつの声だけが漆黒の空間にこだまして、



 僕は目覚めた。


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