第7話 ヘンペルのカラス

 隆は、先駆者に憧れて、他の人がしないようなことをしようと考えた。

 ミステリー小説を考えていたが、そこに、

「数学的な要素」

 であったり、

「心理学的な要素」

 を組み入れたいと思っていたのだ。

 心理学的な要素を組み入れた小説は多いが、なかなか数学を組み入れた小説は少ない。

 そんな中で、今までに考えてきたことでも、数学的な要素がいくつか含まれていることも自分で分かっている。

 特に、ここまでに前述した中に、数学的な発想があったのも否めないではないだろうか?

 まず一つとしては、

「限りなくゼロに近い」

 という発想である。

 これは、

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョーシカ人形」

 という発想であったりするもので、

「どんどん小さくなっていくものが、理論的には、無限に続いている」

 という意味合いで、

「無限に続いていながらも、決してゼロになることはない」

 ということである。

 これは、数学における、

「除算」

 の考え方をすれば分かることだ。

 あるものから、あるものを割った場合に、どちらも負の値でなければ、整数として、答えが出て、どんなに小さくなっても、ゼロになることはない」

 というのは、数学的にも証明されていることである。

 だから、発想として、どれだけ小さくなっても、ゼロにならないということで、

「限りなくゼロに近い」

 ということになるのだった。

 もう一つの考え方としては、ロボット工学の発想の中にあった、

「フレーム問題」

 という考え方である。

 これは、ロボットの人工知能というものが、

「無限の可能性が広がっているので、無限の可能性を一気に考えることは無理なので、そのうちの必要なものだけを考えるように、パターン化すればいい」

 というような発想だった。

 しかし、これも、実は数学の考えからいけば、

「不可能だ」

 と言えるのではないだろうか。

 というのも、数学の計算式で、

「無限というものを、何であっても、出てくる答えは、無限しかない」

 ということである。

 一つだけ例外があるとすれば、

「ゼロで割った時」

 ということだが、この際、考えなくてもいい。

 だが、無限から無限を割ると、同じものなので、「1」だといえるだろうが、それ以外は、何で割っても、結果は無限でしかない。

 ということは、パターンで分けるということは、不可能なのだ。

 しかし、なぜか人間も動物も、その可能性のパターン化ができているから生きているのだろう。

 動物の場合は、

「本能」

 というものが働いているということであろうが、人間の場合も、

「本能」

 で片付けていいのだろうか。

 人間だけは、特別に何か、他にあるのかも知れない。

 探偵小説のネタを考える時、このような数学的な発想を考えていると、トリックの中にも、

「何か使えるものがあるのでないかと考えるようになった。

 時代の違いで、前述のように、昔のトリックが使えなくなってきていて、その証拠として、

「顔のない死体のトリック」

 というものがあった。

 科学が発達することで、DNA鑑定などを行えば、顔や指紋がなかろうとも、その正体を判明することもできるようになってきた。

 また、

「アリバイトリック」

 などでも、最近は、街のいたるところに、防犯カメラが設置してあったりして、昔のように、人の証言によるアリバイの証明という曖昧なことはなくなった。

 それだけ、

「より完璧なアリバイ」

 というものが、証明できるというものだ。

 他のトリックについても、似たようなことが言えるかも知れない。密室にしたって、今のような、オートロックであったり、警備の掛かるマンションや雑居ビルなどでは、ほとんど、不可能に近い、そういう意味では、小説のネタになりにくいことだろう。

 しかし、それだけに、それらに敢えて挑戦しようとするならば、それは、少なからずにおいての、

「叙述トリック」

 のようなものがなければならないだろう。

 つまり、

「書き手が、読み手に対して、何かを思い込ませることで、読み手が事件解決のための袋小路に入ってしまう」

 というようなものである。

 そんなことを考えていると、

「小説を書くことでのネタが、思い浮かびそうで浮かんでこないという、ギリギリの発想をしている」

 ような気がしたのだ。

 そんな中において、一つの殺人事件のトリックを思いついていた。

 どんなトリックなのかというと、一口でいえば、

「探偵小説などでは、結構あるが、実際の犯罪ともなると、なかなかありえない事件ではないか?」

 と言われるような話であった。

 確かに、たまにサスペンスドラマなどでは、そんな犯罪を描いたものもあったが、非常に少ないものだった。

 そういう意味で、

「成功すれば、完全犯罪になりえるが、その成功の可能性は、ほとんどない」

 ということである。

 というのも、

「あまりにも不可能だといえることが多すぎる」

 というものであるが、それは、

「現実的に不可能ならしめるものは、犯罪者の心理が影響してくるからである」

 ということであった。

「あくまでも、机上の空論であれば、完全犯罪ならしめることはできるだろう。しかし、ところどころの犯罪者の心理は、犯行を犯す人間からすれば、うまくいくものではない」

 と言えるだろう。

 特に、この犯罪には、いくつかの、

「縛り」

 のようなものが存在する。

 一つは、

「一人では絶対にできない犯罪だ」

 ということである。

 しかも、この犯罪は、

「計画するのは、一人なのかも知れないが、計画した人が主犯で、もう一人の人間が、共犯」

 というわけでもない。

 さらに、

「犯罪というものは、共犯が増えれば増えるほど、発覚しやすい」

 という問題もある。

 それだけ、犯罪行為というものは、センシティブなもので、精神的なちょっとした違いから、大きな問題に繋がってくるものだといえるだろう。

 この犯罪は、特にそれだけデリケートな部分をたくさん含んでいて、あることを失念してしまうと、

「この計画は、最初から破綻していた」

 といってもいいだろう。

 この犯罪をトリックのネタとして考えた時、思いついていたのが、

「ヘンペルのカラス」

 という問題であった。

 これは、一つのことに対しての定義の問題なのだが、小説のトリックを、

「いかに、バリエーションを生かした内容にしようか?」

 と考えた時に思いついたものだったのだ。

 この命題は、

「すべてのカラスは黒い」

 ということに対しての証明を、いかにするか? ということの問題提起だったのだ。

 これを解決するために、考える方法として、その対偶として考えられる、

「すべての黒くないものは、カラスではない」

 ということを証明するのが、問題だということになる。

「すべての黒くないものを調べなければならない」

 ということで、非常に手間のかかることである。

 これは、ある意味、

「無限に存在するものを、すべて調べる必要がある」

 ということで、理論上は、そうであっても、実際には、どうなのかということが大きな問題ではないだろうか。

 そういう意味では、前述の、ロボット工学における、

「フレーム問題」

 であったり、

「マトリョシカ人形」

 あるいは、

「合わせ鏡」

 の問題のような、

「無限に続いていくことで、永遠に、限りなくゼロに近い存在も、一緒に続いていく」

 ということになるのだった。

 ここでも、

「無限」

 という問題と、

「限りなくゼロに近い」

 という存在とが、合さってくるのだろう。

 もう一つ隆の頭の中で、考えていたこととして、

「紙の厚み」

 という考え方だった。

 紙というのは、非常に薄いものであるが、それでも、100枚、200枚と重ねていくと、束になってきて、500枚くらいを一束として、包み紙にくるまれているのが、ちょうどいいくらいの厚さになっている。

 これは、

「マトリョシカ人間」

 であったり、

「合わせ鏡」

 における、

「限りなくゼロに近い」

 という存在の逆バージョンではないかと思うのだった。

 というのも、

「ペラペラの薄さが、限りなくゼロに近い存在だ」

 と考えれば、永遠に続く合わせ鏡の元になるものが、

「束になった用紙」

 だといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「逆の発想を帰納法だといえば、ヘンペルのカラスという発想も考えられないこともないのではないか?」

 と思うようになった。

 それと似たような発想で、

「悪魔の証明」

 というものがある。

 つまり、

「証明することが実に困難であることを、悪魔に例えて考えるようなこと」

 を証明することを、

「悪魔の証明」

 だという。

 確かに、黒いもの以外のすべてを調べあげて、そこにあるものがすべて、カラスでなければ、すべてのカラスは黒いということになるのだろう。

 これは、あくまでも理論的なものであり、日常的な発想からすれば、奇妙に感じられることである。

 やはり、

「否定する二つを比較する場合は、考え方が少し違う」

 といってもいいのかも知れない。

 例えば、肯定的なものを、

「あるいは」

 という形で結ぶ時、

「A=B OR B=C」

 ということになるだろう。

 しかし、このイコールというものが、不等号であったとすれば、数学的な文法上では、このまま、ORは使えない。

 使うとすれば、

「AND」

 を使わないと、理論上可笑しくなるのだ。

 これは、コンピュータにおける、

「四則演算子」

 でも言えることであり、そのことが、この、

「ヘンペルのカラス」

 という帰納法が抱える、根本的な問題への解決方法としての、一つのネックになることであろう。

 ここで問題になってくるのは、

「無限なものをいかに証明するか?」

 ということである。

「ヘンペルのカラス」

 においては、その証明として、

「何もすべてのものを調べなくても、ある程度のものを調べることで、すべてだということの証明だ」

 と考えることも一つである。

「全体だと思えるような十分なサンプルが得られる」

 ということが必要である。

 類推による証明で、可能性を極限まで高めることができればいいという発想で、この発想は、どこかで聞いた発想に似ているのではないか?

 そう、無限に広がっていることとして、前述にあったような、

「限りなくゼロに近いもの」

 ということとして、合わせ鏡の発想の逆が考えられるのではないだろうか?

 つまりは、

「限りなくゼロに近い」

 というが、ゼロにはならないというだけで、その推移は、想像することしかできない。

 これと同じで、無限に繋がっていることも想像するしかできないのであれば、ある程度の十分といえるサンプルが見つかれば、すべてを調べなくても、類推で判断できるということになる。

 それを妥協といえばいいのか、それとも、

「悪魔の証明」

 のようなものなのか、曖昧さをどう解釈するかということが問題なのではないだろうか?

 それが、

「ヘンペルのカラス」

 であったり、

「悪魔の証明」

 という問題と関わってくるといってもいいのっではないだろうか?

 探偵小説における、

「トリックの公式への挑戦」

 というべき内容の、小説を読んだことがあった。

「トリックの公式」

 というのは、いうまでもなく、前述していたものであるが、

「顔のない死体のトリック」

 においての、

「被害者と加害者が入れ替わる」

 という発想であった。

 この発想は、

「殺された人間に顔がない。つまりは、身元が誰か分からない。判別することができないのだ」

 ということを大前提として、殺されたと思わるA、殺したと思われるB、という二人を考えたとしよう。

 警察は、Bを指名手配することになる。

 しかし、Bは実際には死んでいるわけだ。どんなに探しても見つかるわけはない。死んでいるのだから。

 もっといえば、警察というところは、殺されたと思い込んでいるAを絶対に探そうとはしない。Aを見知っている人でなければ、Aが生きている姿を見ても、気にすることはないだろう。

 そういう意味で、昔は、探偵小説で、

「顔のない死体のトリック」

 というものは、よく使われていた。

 しかし、実際にそんな殺人が多かったのかどうかは分からない。

 実際にあったとしても、なかなか犯罪として計画するのは、難しいかも知れない。

 どちらかというと、

「偶発的に起こったことで、その結果を踏まえて、犯人が偽装工作をした」

 ということであれば、実際にもあったのかも知れない。

 そういえば、似たような発想として、密室トリックを題材にした小説があったが、これは、本来なら、

「犯人がちゃんといて、その人によって殺されたことにしようということで、計画された犯罪だったが、予定外の雪が降ったことで、仕方なしに密室トリックにしてしまった」

 というのがあった。

 だが、この事件は、肩や、犯人を特定するような偽装工作が施されていただけに、密室殺人が起こったことで、異様な雰囲気を醸し出し、事件を複雑にはしたが、その違和感が却って事件の真相に辿り着く決めてになったというのだから、

「やはり、突発的な事件が挟まってしまうと、成功しにくい」

 といってもいいだろう。

 逆に、探偵小説を考えるうえでは、ところどころ、そんな矛盾したものを伏線としておいておくことで、読者への挑戦にもなるのだ。

 探偵小説というのは、

「ノックスの十戒」

 と言われるものがあるように、読者に対しての挑戦という意味で、

「描いてはいけないこと」

 というのが、タブーとして考えられている。

 しかし、多少の叙述というのは、なければいけないものであり、叙述トリックというものを用いないと、

「探偵小説は成り立たない」

 ということになるだろう。

 密室という意味では、もう一つ面白いものもあった。

「密室にすることで、犯行現場をそこだと思わせること。あるいは、それによって、犯人のアリバイが成立してしまうということ」

 などが、絡んでいるということが多くあったっりする。

 その話は、バラバラ殺人であったが、

「入らなければ出られない」

 という意味が含まれていたのだった。

 そういう意味での、叙述というのは、結構あるようだ。

 どこまでが、叙述で許されるのかどうかわからないが、探偵小説というものを考えた時、

「今では難しい」

 と言われるトリックもたくさんある。

 前述のような、

「顔のない死体のトリック」

 に対しての挑戦においてもそうであった。

 結局、殺された人間を犯人としてしまえば、警察は、犯人を絶対に見つけることができないのだから、事件は迷宮入りとなる。

 当時の殺人の時効というのは、15年だった。

 ということは、15年、隠れていれば、それ以降は姿を現しても、裁かれることはないということである。

 それが、

「顔のない死体のトリック」

 であるが、警察が、間違えてくれないと、

「この事件は、普通の殺人事件となり、計画は元も子もなくなってしまう」

 と言えるだろう。

 それを、さらに確実なものとするという意味で、

「顔のない死体のトリック」

 に対しての挑戦ということだったのだ。

 そんな発想をいかに考えるかということが、一種の、

「バリエーションを利かせる」

 ということであり、今回のこの、

「挑戦」

 というものは、別のトリックとの併合となるわけだが、それは、ある意味で、双極的な発想でもあった。

 というのも、

「顔のない死体のトリック」

 というのが、

「最初から、顔がない死体だということを、読者に示す必要がある」

 ということである。

 なぜなら、そうでなければ、公式である、

「加害者と被害者が入れ替わっている」

 という公式の元に、事件解決へというストーリーが成り立たないからだ。

 しかし、この

「顔のない死体への挑戦」

 と言われる、

「併合されたトリック」

 というものは、

「読者にそのトリックを見抜かれてしまっては、話が成り立たない」

 と言われるものである。

 つまりは、

「最後の最後、謎解きの瞬間まで、読者には伏せておく必要がある犯罪トリックの一つである」

 ということだ。

 この話がどのような謎解きになるかということが問題になるのだ。

 この話は、

「ネタバレ」

 になるので、これ以上の言及はできないが、犯罪トリックと、叙述であったり、トリックの併合という形で、いろいろなことを試みないと、

「バリエーション」

 ということにはならないということになるのであろう。

 隆とすれば、これらの犯罪を使った、

「探偵小説」

 というものを、いろいろ研究し、自分でも、新たな探偵小説のようなものを書こうと思っていた。

 ただ、普通に描くと、

「心理的なところで、不可能となる犯罪」

 ということで、あくまでも、探偵小説としての世界でしかない。

 最初からそういう発想にしてしまうと、探偵小説としては、実に陳腐なものとなってしまうのではないかということであろう。


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