第5話 石ころ現象
自分が女性になったような小説を書いていると、そこから派生して、いろいろな発想を描けるようになってきた。
特に女性という目で見るようになってから、自分というものを、客観的に見ることができるようになったのだ。
ただ、隆の小説で、主人公を、
「自分」
という形の第一人称で置くということはあまりなかった。
主人公は第三人称であることが多く、
「彼女」
という形で描いていた。
しかし、実際には、自分という考え方であり、それが、客観的に見ることができる理由だったのだ。
小説の中でどうしても、主人公としての人物は、
「中二病的な人間」
ということになっている。
男女どちらも書くことができるが、正直、書いていて、その雰囲気が中途半端であるように思えてならなかった。
だから、書いていて、
「もっと客観的に」
と思ってしまい、どんどん視点が遠ざかってしまうのを感じるのだ。
そうすれば、
「全体が見える」
という意味ではいいのだろうが、全体が見えてくると、どうしても、登場人物、一人一人の関係性がハッキリすることができず、考えられないように思えるのだった。
だが、そんな客観性にも、
「限界」
というものがあり、それ以上遠くを見ようとすると、今度はまったく別の世界が開けてくるのを感じるのだ、
その別の世界が、
「次章へのつなぎ」
として感じるのであれば、それはそれで、小説の節目として、いいのではないかと思うのだった。
だから、結界を超えるまでを一つの章だとするならば、見えている光景を、
「いかに広く見せるか?」
ということが考えられるようになる。
遠くに見えていたはずの光景が、今度は近くに見えるようになったり、逆に、今まで自分が見えていた光景が、今度は、その光景の中の一つから、こちらを見るようになるのだった。
「視点の逆転」
という発想は、小説を書く上で、結構、重要な部分ではないかと思っていたので、実は、章をまたぐ時に、広がるはずの情景が、実は、却って狭まっている場合がある。
ただ、これも、執筆のテクニックの一つであり、小説を書いていると、
「偶然」
という言葉も結構存在し、自分でも気づかぬうちにやっていたことが、
「実は重要だ」
ということで、自分の中で、それ以降の執筆で重要要件として浮上してくることになるのだった。
だが、それも悪いことではなく、そんな偶然が、どんどん増えることは、自分でもありがたかった。
そんな中において、隆が章をまたぐときに気を付けているのが、
「視点の転換」
であった。
今まで見ていた視点とまったく違った転換、いや、
「逆の視点」
という見方を一度するようになると、次第に、その方法が、
「自分の小説作法」
のように、感じられるのだった。
実際に、小説を書いていると、
「最初に見た視点が、逆の視点になると、小さく見えてきた」
と感じるようになった。
そこには、いくつかの理由が存在しているわけだが、一つとして、
「限りなくゼロに近くなっている」
という発想であった。
これは、
「マトリョシカ人形」
であったり、
「合わせ鏡」
と言われる現象のように、無限に続くものが、どんどん小さくなっていくのだが、ゼロになることはなく、理論上、
「限りなくゼロに近い状態」
というまま、永遠に続くものだという定義がなされるのではないだろうか。
それを考えると、少しずつでも小さくなるのは、当たり前ということになるのであろう。
もう一つは、
「全体を、一度自分で認識している」
という感覚である。
それが、鏡に写っている光景であり、鏡に写った光景というものを考えた時、それまで不思議に思わなかったことが、急に、
「不思議だ」
と感じることになるだろう。
あまりにも当たり前のことなので、
「不思議」
という感覚を通り越して、余計なことを感じなくなるのではないだろうか。
それが何かというと、
「鏡に写った姿は、左右で逆に見えるのだが、上下が逆さまに見えないのは、どうしてなんだろう?」
という発想である。
この発想は、たぶん、誰もが一度は感じたことがある疑問ではないだろうか?
そして、その時、誰もが自分なりの回答を求めることだろう。
しかし、その回答が、人によってまちまちなのも事実で、しかも、そのどれも、決定的な理論というわけではなく、
「突っ込みどころが満載だ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「鏡の対称問題というのは、一長一短で、考え方はいろいろあるが、どれも、決め手に欠ける」
といってもいいだろう。
この、鏡の、
「上下反転」
の問題であるが、一番理解できる回答としては、
「左右対称というものが、実は正面に写っているものではなく、自分がそのまま、鏡に入り込んでいて、こちらを向いていると思っている自分は、本当は向こうを向いている」
という感覚ではないかということであった。
こちらにしても、ツッコミを入れれば、いろいろあるのだろう。それだけ、曖昧な答えなのだろうが、どう答えたとしても、曖昧にしかならないのが、この、
「鏡問題」
というものだ。
どうしても、客観的に見たとしても、それは、感覚的な答えでしかない。それこそ、っ回答に、
「一長一短」
が存在し、全員を納得させられる回答が得られるなど、ありえないことなのだろう。
それを思うと、鏡の対称問題は、小説のネタとして使うには、格好の道具なのかも知れない。
それは、
「マトリョーシカ人形」
であったり、
「合わせ鏡」
しかりなのかも知れない。
鏡問題にしても、一度、自分がその場所の光景を認識し、自分の中で、広さや位置関係などすべてを把握しているからこそ、
「何が正しくて、何が問題なのか?」
ということを自分なりに分かっているだろう。
だから、その中において、理解できないことが、今度は曖昧な意識となってしまい、解釈として、
「実に都合のいい」
というものになってしまうのではないかと感じられるのだった。
そんな中において、鏡の問題だけではなく、気になっていることがいくつもあるのだ。
一つ、気になっているのは、自分の小説が、
「視点の逆転をしている」
というような話をしたが、そこで一つ考えられるのが、一種の、
「箱庭現象」
というものだった。
夢の中で時々感じることであったが、
「例えば、夢の中で、どこかの山の中の広い高原のようなところに佇んでいるとする。その場所は、そう、小説の、アルプスの少女がいるような、遠くにアルプスの山々が見えるような、そして、その麓にある小屋に住んでいるというような光景である」
そんな、光景において、アニメ化された光景にあったような、大きな気にぶら下がっているブランコに乗って遊んでいるのを夢に見たりすると、きっと、遠くに聳えるアルプスが、どんどん小さく感じられるような気がしてくる。
すると、そんな自分を、客観的に遠くから見ているような感覚が芽生えてきて、その向こうというのが、アルプスの山々の向こうなのである。
最初に自分が、そのアルプスの山が、小さく感じられるという感覚が、まずは、その前兆である。
小さく感じた山の合間に、何かが現れるような気がして見つめていると、次の瞬間、自分が、箱庭を覗いてる人間に思えてくるのだった。
その箱庭というのが、まさにその、
「アルプスの山から見た光景であり、実に小さく見えるものだろうと思っていたが、その光景は、まったく見えない豆粒のような存在というわけではないのだ」
相手がこっちを見ているのが分かる。かといって、自分も見つかった以上、隠れることはできない。隠れると却って、相手が不安に思うだろうということが分かるので、それはできない。
お互いに見ている光景が、まるでスライド写真のように、交互に見えているのだが、相手が認識できたのかというのは曖昧で、定かではない。
お互いに見えている光景をどう解釈するのかなのだが、お互いがお互いを見えるようになると、理屈はそこまでなのだった。
よく見えていると思っていると、今度はどちらかが、見えなくなってしまう。そして、その時の自分が、本当はどっちだったのかによって、その時の精神状態が分かるようだった。
最初は、箱庭の中にいる自分だったに違いない。そのうちに、双方向から見える自分を感じると、外から見ている自分が、その日は主人公だったのだとすると、さらに、
「自分も、見つめられているのではないだろうか?」
と感じることがある。それこそ、合わせ鏡のような、
「永遠に続くもの」
と考えてしまうのだった。
そんなことを考えていると、以前に見た映画を思い出していた。
あの映画は、昔の映画ということであったが、ヨーロッパのジュネーブにある、細菌研究所において、国家機密の細菌が盗まれるという事件があった。
計画は失敗し、警備員と銃撃戦になったところで、細菌の入った瓶が割れて、犯人が、その液体をかぶってしまった。
本来であれば、確保するか、暗殺してもしかるべきであったのに、それが叶わないままに、犯人が逃げてしまうという最悪の事態が起こった。
ジュネーブの細菌研究所としては、
「極秘裏に事を収める」
という至上命令であったが、そうもいかない。
犯人は、そのまま計画通りに、大陸横断特急に乗り込み、逃走していた。
結果、犯人たちは、発病し、命を落とすのだが、驚異的な伝染性のある細菌は、列車内で蔓延した。
そのことが、当局にも分かり、何とか、列車を隔離したまま、どこかの国の医療機関に送る予定だったが、ジュネーブ側では、
「秘密の漏洩」
を恐れて、
「全員を葬り去ってもいい」
ということで、かつての捕虜収容所に送るということになった。
結果、途中の老朽化した鉄橋で、数名の生存者を残し、列車は、谷底に落ちていくことになるのだ。
その生存者の存在が、暴露に繋がるのだろうが、そこまでは映画では示していなかった。
しかし、その映画の恐ろしいところは、すべてを闇に葬った大佐は、ある司令部から、命令していたのだが、最後に列車が、谷底に落ちたのを確認し、
「さすがに、罪の重さと、呵責」
に押しつぶされそうになりながら、複雑な心境で、帰途に就いたのだが、その時、彼の部下が、どこかと交信をしていたのだが、それが、さらに上層部との連絡であり、何と、ここで指示を出していた大佐に対しても、尾行をつける命令を下していたのだ。
それを考えると、
「この大佐だって、結局はあやつり人形だった」
というわけで、これほど怖いことはないといえるだろう。
それはまさしく、前述の話と同じで、まるで、
「合わせ鏡」
のような、
「永遠につづく、負のスパイラル」
のようなものではないかと言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、小説を書いているうえで、急に見えていないことがあるのを想像していた。
というのは、
「見えているはずのものが見えていない」
という感覚である。
見えているはずのものが見えていないというのは、本当は見えているということであろう。
実際に見えないことであれば、こんな発想が生まれるわけもなく、完全に見えていないものではない。
それなのに、意識しないということは、
「普段から見ているもので、まったく意識することではない」
ということから、
「本当に見えているのもが、見えていないというのが、何なのか?」
としばし、考えるのだった。
ただ、その思いは、最初だけで、一度感じてしまうと、その定義において、何のことかというのは、瞬時にして理解できることであったのだ。
それは、石ころのような発想であり、つまりは、
「普段からそこにあっても、まったく不思議のないもの」
石ころに目があったとすれば、人間に見つめられて、自分に手足がない。逃げることもできないので、金縛りに遭ってしまうのだが、相手は、自分のことを、石ころ以外の何者でもないと思っているから、まったく、意識することなく、視線だけがそこに存在しているのであった。
石ころには、表情があるわけではない。しかも、ほとんどの場合、石ころが単独でそこに存在しているということはないので、見ているのは、いつも、
「その他大勢」
だったのだ。
その様子を見ていると、
「目の前にあるはずのものが、消えてしまうわけでもないのに、まったく意識から消えてしまっている」
と考える。
そもそも、目の前にあるものを見ると、まずは、意識することになる。そこから、自分がどこにいるのかということであったり、その場所を自分なりに確認したりと、理解を深めようとするはずなのだが、意識がないのだから、それも仕方のないことではないだろうか?
しかし、石ころの存在というのは、目の前に広がっている光景の中で、唯一意識することなく、視覚に飛び込んでくるものではないだろうか?
意識していないと言い切れないかも知れないが、
「意識しようとしても、できていない」
というのが、正直なところではないだろうか?
確かに意識をしようという思いはあるのだが、意識できない。それがなぜなのかと考えていると、
「おそらく、向こうから見えているはずのものを、瞬時に感じることができないからではないか?」
と感じるのだ。
意識しようと思うとできなくもないが、意識してしまうと、自分が石ころになってしまい、その世界から抜けられなくなり、自分の存在がこの世から消えてしまうような気がするのだ。
普通であれば、
「存在した」
という事実までも、消えてしまうものではないかと思うが、石ころに変わってしまうと、その存在したという事実は消えることなく、行方不明者として、数えられることになるのだろう。
警察に届け出ても、
「どうせまともに探そうとはしないはずだ」
というのも、
「警察というところは、捜索願を受理はしてくれるが、実際に捜査を基本的にするということはない」
と言われている。
犯罪性があるかないかということが一番の問題で、
「何らかの犯罪に巻き込まれた」
ということでもない限り、捜査は基本的にしないだろう。
よほど、
「自殺の可能性が濃厚だ」
ということでもない限り、犯罪に関係がなければ、問題となることはないだろう。
それを考えると、警察というもの、実にいい加減なところかということが分かってくる。
そのくせ、力だけは無用なくらいに持っていて、なぜ、無用かというと、
「その力を、庶民のために使うわけではない」
ということであった。
あくまでも、犯罪捜査のために必要な力として、締め付けるのは、一般市民だったりする。
下手をすれば、
「これは殺人事件の捜査だ」
ということを理由に、プライバシーで本来は保護されなければいけないことであっても、警察の捜査が優先するのか、言わなくてもいいはずのことを、言わなければいけなくなる。
本来、憲法で、
「基本的人権の保障」
が認められていて、
「法の下の平等」
も同じく認められている。
警察官だからといって、何でもかんでも優先されるというと、大間違いなのだ。
警察官の公務という理由ですべてが認められてしまうと、
「基本的人権」
というものが、まったく機能しなくなる。
これで、本当にいいのだろうか?
そんなことを考えていると、警察権力でもどうすることもできないこととして、
「石ころ機能」
というものを有する人間がいてもいいような気がする。
目の前にいても、その人物が、まったく気づかれることのない存在。本来なら、警察捜査の方に、いてほしいくらいの存在であるが、この存在は、庶民が共有して、しかるべきものではないだろうか?
それを考えると、
「石ころ」
という現象がどういうものなのかということを、今一度考えてみる必要があるようで、考えさせられることも結構あったりするだろう。
そんな石ころが点在している部分に、思いを馳せていると、見えている部分と見えない部分の二つが存在していることが分かる。
「見えているのに、意識しない石ころのような存在」
あるいは、逆に、
「見えてはいないが、意識できるものがあり、その存在感が、威圧を放っている」
というものの二つである。
前者は、すでに前述のとおりであるが、後者は、何か、特殊な力を秘めているような気がするのだ。
前者は、まったく何もない力のように思え、ただ、それは、合せ鏡の最終章であるかのように、
「限りなくゼロに近い」
という力なのであろう。
しかし、逆に、
「後者の場合は、その力の最期には何があるのか?」
ということは、計り知れない。
どちらかというと、その力は無限大であり、言い換えれば、
「限りなく無限大に近い」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「意識というものが、視界よりも、どれほどの強さなのか?」
ということを感じさせるものだろう。
逆にいうと、
「視界というものほど、あてにならないものはない」
といってもいいかも知れない。
それが、
「限りなくゼロに近いものだ」
と言えるのかも知れない。
そんなことを考えると、前者と後者は、
「正反対のものだ」
と言えるかも知れないが、実際には、
「まったく違うものだ」
といってもいいだろう。
ただ、対称というわけではなく、明らかに後者の方が、無限の力を秘めているかも知れないということで、その力は大きいといってもいいだろう。
それを考えると、目に見えない力が働いていると考える時、視界よりもはるかに強い、
「意識」
というものを、記憶では、決して凌駕できないのだろうと思うのだった。
ということは、
「意識というものをどのように考えるか?」
ということであるが。
隆は、一つの考え方として、
「石ころというものが、灯台下暗しであれば、その反対である意識は、遠くにあっても、その絶対的な力は、不変なものだ」
という考え方ができるのではないかと思うのだった。
目の前にあって、その存在を意識しない。無ではないのに、意識することができないほど小さなものというのは、実は怖いものだといえるだろう、
例えば、
「昔、ある天体学者が、目に見えない星というものを、創造したことがあった」
というのである。
それは、どういうことなのかというと、
「星というのは、自分から自ら光を放つか、あるいは、光っている星の光を反射させることで光るものである」
というのが、一般的に言われていることであった。
しかし、星の中には、
「自ら光を放つこともなく、反射されることもない。つまりは、光を吸収するという星がある」
ということであった。
つまり、それらの星は、まわりからは絶対に見えない。そばに来ても、そこに存在しているということが分からない。
つまりは、
「意識もなく、見ることもできない」
という星である。
どんなに小さな星であっても、そんな星が近くにくれば、その引力圏内に入ってしまうと、引き寄せられて、破壊されてしまうことがあるだろう。
それを思うと、
「意識できないということがどれほど恐ろしいということになるのか、それを考えると、この暗黒の星の恐ろしさや、意識しないで、そのまま記憶に向かうものがあるというのは、実はもっとも、恐ろしいことになる」
ということを分かっているということだろうか?
そんな暗黒の星を、いかに意識させるかということが問題になるわけだが、それも、人間社会において、同じことである。
視界と、意識のどちらが大切かということを考えてしまう。
石ころが、視界であり、夢幻の類が、意識だとすると、暗黒の星のように、どちらもないものは、本当に世の中に存在するということになるのだろうか?
それを考えると、
「灯台下暗しの発想も、まんざらの考えでもないといえるだろう」
さて、そんなことを考えているのが、10代の頃であり、それだけ、発想の幅が広がっていて、自分の中で、無視できないものが何であるかということが分かってくるようになった。
だから、
「意識」と「視界」
という問題。
それだけに限らず、灯台下暗しであったり、暗黒の星の問題などが絡んできて、
「無限の力」
であったり、
「限りなくゼロに近い」
というものであったりと、発想だけは、たくさん膨らんでくる。
それを整理できているかいないのか、自分でもよく分かっていなかった。
それを思うと、発想がカオスになってくるのを感じるのであった。
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