第4話 小説を書いていくうえで
隆の小説は、基本、小学生の頃の思い出を中心に書いて行こうという思いがあることから、一番の問題は、
「どこまで思い出せるか?」
ということであった。
すべてを思い出すというわけではなく、ところどころ、思い出せるところだけを思い出していくと、その感覚が、どうやら、
「妹目線で思い出している」
ということに気づいたのだ。
それが、前述の、
「妹目線で描く」
ということに繋がるわけで、そもそも思い出してきたのが、
「妹目線」
ということだったわけなので、当たり前と言えば当たり前だといってもいいだろう。
そのことを考えてみると、
「なぜ、妹目線で、記憶がよみがえってきたのか?」
となるわけで、最初はそれを、
「時系列以外でしか、思い出せないことだ」
と思っているのだと、感じたのだ。
要するに、
「時系列で思い出すことができれば、自分目線での記憶になるのだろうが、自分以外の目線で思い出そうとするから、違う人の目線になるのではないか?」
と感じるのだった。
だが、それは、
「そもそも、記憶する時において、自分が、時系列でしか覚えられないのが原因なのか」
それとも、
「女の人の目線で見たことを、本当に記憶しているから、時系列ではない記憶が、よみがえったからなのか?」
ということを考えてしまうのだった。
自分にとって、記憶というのが、どういうものかということを考えた時、二段階に分かれていることを感じている。
まずは、
「意識すること」
であった。
意識するにしても、自分の中にある思考回路の、
「意識」
というところに、格納し、その前に、それが、意識をする前に、スルーしてもいいようなことであれば、記憶という方に直接飛ぶことになるだろうが、意識すべきことであれば、まずは、意識することで、頭が働き、まわりとの関係であったり、自分の行動指針などが、いかにうまくできるかということが問題にもなってくるだろう。
それを考えると、
「意識することがいかに、自分にとって大切なことであるか」
ということになると考えるようになる。
妹目線というものが、意識の中にあったのかどうか、今の
「記憶の格納」
と言われるところで、いかに入り込んでいるかということは、すぐには分からないような気がする。
つまり、
「まずは、意識というところに行くことで、そこで、時系列であったり、自分が意識していることを映像にしてみようとする感覚から、色や形がハッキリしてくる。それが表情であったり、それによって感じる、相手の性別、性格などが分かってくるというものであった」
それを考えると、意識というのは、
「記憶に格納するための、事象を、時系列で組み立てることを最終目標にしているものではないか?」
と感じるようになった。
そこで記憶されたものも、
「意識を通らずにいきなり、記憶に飛んできたものなのか?」
それとも、
「意識を通り、時系列や色などすべてを意識させる映像のような記憶なのか?」
ということを考えると、それが、
「夢だったのかどうか?」
という意識は、記憶に繋がっていくものなのだろう。
それほど昔の記憶ではなかったことで、ただ、一度、その間に、思春期というおのがあったことで、普通ならまだ、
「意識」
というものの中にあったかも知れないものが、
「記憶として格納された」
ということになったと考えれば、隆にとって、その時、自分が、何をどのように感じたのかということは、すぐに忘れてしまった。
だからこそ、小説は思ったよりも早く書けた気がした。というよりも、
「あっという間に書いた」
という思いがしているだけで、
「実際には、結構時間が掛かったのかも知れない」
と感じていたのだ。
その小説は、中学生同士の恋愛だった。
女の子は、完全に思春期を終えていて、意識だけは、
「オンナ」
になっていた。
「背伸びするということを含めて、オンナになった」
といってもいいだろう。
だから、隆の中で、まだ中学生だった女の子は、すでに、
「処女ではなかった」
のだった。
相手が誰であったのかというようなことは関係ない。ただ。
「オンナになった」
という意識があればいいだけであった。
つまり、
「大人のオンナになるということは、処女ではなくなる」
という、ストレートな意識を持っているだけで、そこに、精神的なものは含まれない。
もし含まれるとすれば、それは、男の存在が見えてこないと、想像できることではないということであった。
大人のオンナを演出するために、化粧を施してみたりと、小説内で書いてみたが、隆は実際に、化粧をする女性が本当はあまり好きではなかった。
「素直で実直な女性を好きだ」
という意識があった。
どんな女性を好きになるかということは、思春期の隆の中で、それなりの理想のようなものがあった。
その思いを抱いたまま、夢を見ているので、女の子の気持ちになっている小説の主人公には、
「男性の心として、代表して、隆の考えている理想の女性」
というものを、意識するように考えているといってもいいだろう。
だからこそ、
「何でも分かっている女性」
つまりは、
「マルチ理想を持った女性」
ということで、主人公を演出できたのだが、そうなると、そんな彼女から慕われている男性が、
「どうしても、頼りない存在になるのではないか?」
と感じるのだが、果たしてそうだろうか?
そんなことを考えていると、ますます、相手の男の子が、
「中二病のなっている」
と感じずにはいられない。
しかし、主人公を女性にした以上、男が、少し頼りないくらいの方が、
「主人公が引き立つことになる」
と考えることで、先がしっかりと見えてくるように感じられ、作品が引き締まってくるように思えてくるのだった。
中学時代の恋愛というものがどういうものなのか、正直分からない。しかも、主人公を女性にしたということで、特にオンナというものが分からない隆にとっては、もちろん、女心が分かるわけはない。
と、そう思っていたが、実際にいろいろ考えていると、女性の恋愛感情が、何となく分かってきた。
いや、思春期の女の子の気持ちだから分かったといっていいのか、小説を書いているうちに、
「相手が男性であれば、どう接すればいいのかということが、何となく分かるような気がしてきた」
と思えた。
まだ、思春期の男の子を、男性として見ることはできない。明らかに、女性の方が立場が上という意識がある。
しかし、それを表に出す気はしなかった。表に出すということは、自分の気持ちを表に出すことが、相手からこちらを見やすいと感じるようなものだと思ったからだ。
そういえば、以前、テレビドラマで、面白いシーンを見たことがあった。
あれは、ミステリー番組で、心理的な話をしていた時、棋士の人が言っていた言葉であったが、
「将棋において、一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか分かりますか?」
とプロ棋士がいった言葉であるが、それを聞いて、刑事は、
「いいえ、分かりません」
と正直に答えた。すると、棋士は、
「それは、最初に並べた形なんですよ。一手打つごとにそこに隙が生まれる。だから、将棋においては、完全に減算法とでもいえばいいんでしょうかね?」
という話をしていた。
物事には、加算法と、減算法という考え方がある。
将棋では、減算法ということのようだ。
確かに考えてみれば、そうだ。
決められた布陣を元に、相手を攻撃していく。守りながらの攻撃になるのだから、将棋において、守りということを考えると、減算法というのは、当たり前のことであろう。
つまり、
「負ける前に相手に勝つ」
というのが、将棋というものであり、ひいては、勝負事というのは、ほとんど、そういうことになるのだろう。
小説を書く上で、隆が考えている、
「思春期における男女の関係」
というのは、このような、将棋の関係に似ているような気がしている。
「動いた方が、ちょっとした隙を見せることで、相手のこちらの戦術が見えているように感じられるので、あまり強く攻めることができない」
と考えるようになっていたのだ。
そんなことを考えていると、この間まで自分が嵌っていた、ゲームのことを思い出していた。
ゲームでは、相手との関係を、
「引いたり出したり」
というような、
「一進一退の攻防」
が繰り広げられているように思えたが、それだけではない。
ゲームを続けていくうえで、どうしても忘れがちなのは、
「時間が経つにつれて、次第に疲れていく」
ということであった。
相手も、きっと同じであろうが、体力の消耗をお互いに意識していないと、気力の方が衰えてきて、そのうちに考えるということが、おろそかになってくる。
それを思うと、お互いに動けなくなることを、
「自分の中の衰えということは感じても、体力の衰えという意識しかなく、本当はそれが気力の衰えだった時、疲れというものが、次第に不安というものに変わっていくということに気づかないのではないだろうか?」
と思えてくる。
そこで、思春期に襲ってくる不安というのは、正直バランスが崩れることであり、それが、体力の衰えと一緒にくると、自分でも、何が何だか分からなくなってくる。それを思うと、残るのは、不安だけとなり、それが疑心暗鬼を生み出してくる。そのことが、相手への不信感になり、いつの間にか恋愛ではなくなってしまい、自然消滅してしまうというのが、思春期における恋愛感情というものではないのだろうか?
それを女の子の目で見ていると、男の子からは想像もできないような発想が生まれてくる。
「きっと、自分が、男としてもっとハッキリとした恋愛を見ることができると、女の子の目で見るようなことはなかったはずなのに」
と隆は考えていた。
それは、きっと、
「お互いの歩み寄り」
という発想がなかったからではないだろうか。
男であれば、一方通行の愛情を傾けることになると考えるであろうが、女性側から見ると、
「相手との駆け引き」
というところで見るようになるのではないかと感じるのだ。
その思いが、相手を自分である隆として見ているからで、
「隆だったら、どう考えて、どう行動するのか?」
ということを、女の目から見ているということになり、それが分かってくると、小説もおのずと浮かんでくるというものであった。
自分で小説を書くようになると、プロ作家の小説も気になるようになってきた。
といっても、隆が読んでいる小説は、ベストセラー作家ではなく、その当時としては、まだまだ、これからという作家ばかりだった。
そもそも、ミーハーなことが嫌いだったので、最初からベストセラーとなった小説家に飛びつくというようなことはしたくなかったのである。
小説家というのがどういうものなのかということを考えていると、
「今、自分が読むべき小説は、自分と同じように、まだまだこれからの作家の本を読むのがいいような気がする」
と思えたのだ。
「なぜ、そう思うのか?」
ということは分らなかったが、
「自分が目ざとく見つけた作家が、後になって売れるということが、この上ない喜びになる」
と思ったからだった。
最初から売れている作家の本を読んでも、自分の喜びにまったく結びついてくるわけではない。
それを思うと、
「喜びを追求する」
ということに、身体が震えるような快感を味わることができるのだろうと、感じたのだった。
「身体が震えるような快感であれば、同じよろこびというのでも、悦びという漢字を書くのではないか?」
と思った。
思春期というこの微妙で、デリケートな感情を抱く時期において、隆は、少しエロい感情を抱いたことで、漢字に対しても、微妙な違和感を感じたのだったが、それも、自分というものが、
「女性としてまわりを見ている」
というところから来ているような気がした。
「男性が女性を見る。あるいは女性が男性を見る」
という感覚よりも、女の子の感覚になってみると、何か、
「女性同士の、知られざる世界」
というものを、見せつけられているように感じるのだった。
その思いは、どこか、
「背伸びしている感覚」
に思えてくる。
知らなければいけないわけではない世界」
というものを、感じることで、今まで知らなかった世界が開けることで、
「相手が異性を意識するというのは、同性も同じように今までにない意識した目を向けているのではないか?」
と考えるのであった。
ある意味、どこをどう飛躍したのか分からないが、
「相手にいくら騙されたとしても、時間が経てば、また同じようなシチュエーションになったとしても、同じことを繰り返すに違いない」
と思うのだった。
そんな作風を書いていると、最近読んだ本の中で、似たようなシチュエーションの本があることに気が付いた。その人は小説ではなく、マンガを描く人だったのだが、セリフ回しなどが、自分と酷似していたのだった。
まだ無名の作家で、そのうちに売れそうに思ったのは、自分と同じ発想を抱いて、似たような作品を書いているのだが、当たり前のことだが、
「自分よりも、すごいと思う作品を書いている」
ということだった。
話の内容は自分が考えていたよりも、深い内容で、時間の範囲が広いのだ。
やはり、素人だと、どうしても、短い時間の範囲の中で、何とか纏めようとするが、さすがプロともなると、その範囲は、どんどん広がっていく。
それだけ、
「発想の広さが、素人とは違うんだ」
と思わせた。
その人も、男性作家なのに、女性の気持ちをしっかりとらえていて、同じように女性目線から書こうとしている隆の心を捉えて離さない。
実際にファンは固定ファンだけにとどまらず、どんどん増えていく。一気に人気漫画家になってきたのを見て、隆は思わず、
「この作家は、売れると前から思っていたんだよな」
と、ばかりにまわりに吹聴していた。
自分も小説を書くことから、そのマンガ家が売れるのは、別にかまわなかった。
自分と似たような話を書いている人を褒めることで、あたかも、
「自分の作品もすごいんだぞ」
ということを言いたかったのだろうが、それだけではない。
小説とマンガというものを、自分の中での優劣で考えると、
「小説の方が圧倒的に、勝っている」
と思っていた。
マンガと小説では、そもそも、土俵が違うということは分っていたはずなのに、それなのに比較してしまうのは、
「マンガには絶対に負けない」
という自負があるからだろう。
「こっちは、小説を書いているのだから、相手がいくらプロだとは言っても、しょせんはマンガなんだ」
と思っているからこそ、平気でマンガが売れたことを、あたかも最初から分かり切っていたかのように言えるかということである。
この決定的な結界があるからこそ、隆は、
「自分のこの行動が正当化される」
と思うのだった。
この結界がどのようなものなのか、よくわからないが、
「この人売れると思っていた」
ということを自慢げに話すのは、あたかも、
「中二病の兆し」
ということであり、そのことも分かっていた。
いくら、結界があるとはいえ、分かっていて、今までは感じたこともないような思いを抱くということは、それだけ、
「このマンガを褒めることで、自分の小説を正当化したい」
という思いであり、心のどこかで、正当化しないといけないことなのだということを考えている証拠なのだろう。
このことは、大学に入った時に思い出したことだった。
というのは、大学に入った時にも、同じように、誰かのマンガを褒めたたえ、その作家が売れたことを自慢したことがあった。
その時はさすがにまわりも、白けた目をしていた。同じようなことであっても、中学時代なら通じることでも、大学生では通用しない。
それを思い出すと、
「中学2年生の頃がいかに幼く、当時であれば、思春期ということで許されることも、大人になれば、中二病と言われ、疎まれることになる」
ということになるのだろう。
ただ、一つ言えることとして、
「同じことをいずれ繰り返すかも知れないと感じていても、きっと同じことを繰り返すに違いない」
と思ったとしても、後悔は絶対にしないという気持ちが自分の中で溢れているということである。
人間の中には、普通であれば、
「同じ過ちは繰り返さない」
という思いが強いものである。
特に、そのことで大切なものを失ったり、自分の間違いに気づいたりすれば、余計に、同じ過ちが繰り返さないようにしようと感じるに違いない。
しかし、これが、
「恋」
というものであれば、同じことを繰り返すものだ。
しかし、それが分かるのは、必ず、2回目以降である。
ということは、
「一度誰かを好きになり、その人のために一生懸命に尽くしたとしよう。自分の中でも、その人に尽くすことは、間違っていることではないと気づくに違いない。しかし、それでも、うまくいかない時はうまくいかないもので、特に相手から、こっちの気持ちを裏切るような行為。例えば、好きになった相手が、他の人を好きになってしまったことで、自分が捨てられた」
などということになれば、少しは事情を知っている人であれば、同情もしてくれるであろうし、
「相手が悪かったと思って諦めるしかない」
ということになるだろう。
しかし、諦めなければいけない方からすれば、これほど理不尽なことはない。
それでも、二人のことを、それほど知らない人から見れば、どうでもいいことであり、下手をすれば、
「裏切られたといっているけど、自分も何か悪いことをしたんじゃないか?」
という、いわゆる
「喧嘩両成敗」
的な発想をされてしまうと、実にやりきれなくなる。
それでも、たいていの場合は、
「時間が解決してくれる」
というもので、
「あんな男を好きになった私が悪かったんだわ」
ということで、割り切ることができるようになるだろう。
そして、こう誓うことになるだろう。
「もう、二度と、あんな男に騙されたりはしない」
とである。
何と言っても、一度後悔をすることになれば、身に染みて分かっているので、もう、二度と同じ過ちを犯すはずはないだろう。
しかし、それまでには、かなりの時間を要するのが当たり前である。
まずは、誰かを好きになり、告白があって、付き合い始める。少なくとも、どちらかが相手を尽くし、尽くしまくるわけで、相手が他の人を好きになる理由の一つとして、あくまでも贔屓目に見て。いや、
「百歩譲って」
というべきであろうが、
「そんな相手の尽力が、却って重たくのしかかってくることもあるだろう」
つまり、そこまで行くには、半年、一年と掛かるはずである。
そうなると、相手もその辛さを感じると、自然と別れに繋がってくる。
しかし、普通は、非道な人間でもなければ、いきなり別れを告げるなどということはできないだろう。しかも、好きになった人が、自分に靡いてくれるという保証が少なからずでもないと、自分を好きでいてくれる女性を、
「裏切る」
ということになるのだから、当然、簡単に別れることはできないだろうし、自分だけが、損をするというように感じることもあるだろうから、別れるまでには、かなりの時間を要することだろう。
そうなると、別れ方のかなり拗れることになる。別れを言い出された方も、
「はい、そうですか」
というわけにはいかない。
何とか撚りを戻そうとするだろう。
だが、それでもどうしようもないので別れるわけで、しかし、実際に別れるまでにも、かなりの時間が掛かる。
そうなると、後悔と自責の念で、かなりの間、辛い思いをすることになってしまい、そこから立ち直るには、どんなに早くとも、三か月、下手をすれば、一年以上、辛い思いをすることになるだろう。
そうなると、
「次に誰かと付き合う時は、二度と同じような思いはしたくない:
と思うようになるまで、つまりは、
「もう一度誰かと付き合う」
という気持ちになるまでには、ほとんど立ち直っていなければならないだろう。
ということになると、本当に別れた相手から、気持ちが離れるところまでということになれば、少なくとも、1年以上の歳月が必要となる。
しかも、
「二度と同じ過ちを繰り返したくない」
と思っていても、またしても、
「繰り返すかも知れない」
と思い込むまでに、果たしてどれくらいの歳月が必要かということになると、それははかり知れない。
そう考えると、
「少なくとも、数年、早くとも5年くらいは掛かるのではないか?」
と考えるのだ。
小説を書いている自分、しかも、まだ中学生の頃にそんな感情に陥るということは不可能に近い。
逆算すると、まだ、十歳にも満たない年齢に、恋をして、大失恋をしていないと計算が合わないことになるからだ。
それでも、隆はそんな小説を書いていた。そういう意味では、決して経験からのことではない。
だが、こんな小説は、
「少なくとも経験からでないと書けないものではないだろうか?」
そのことは、隆の方で感じていたことのようだった。
それでも、こんな小説が書けるということは、
「隆が、女性を主人公にして、女性の気持ちになって書けるからなのかも知れない」
と言えるのではないだろうか。
というのも、隆の小説には、女性の目から書いていることで、女性視点でしか感じることができないようなことが、随所にちりばめられていた。
そのことを、隆自身は、感じていたわけではなかった。
「俺が感じることくらいは、誰もが感じていることなんだろうな」
ということを、ずっと感じていたので、彼の知らないところで、彼の小説が、密かに注目されていたなど、本人のまったく知るところえはなかったのだ。
それでも、
「せっかく書いたんだから、どこか、文学新人賞にでも送ろう」
とばかりに、書いたものをいくつかの出版社に送ったりはしていた。
もちろん、同じ小説を複数の出版社の新人賞に応募するというのは、応募に対してのルール違反なので、全部の出版社に、まったく別の作品を送っていた。
そのうち、数社では、編集者の目に留まっていたのである。
ただ、それは、あくまでも、この作品を書いたのが、中学生だということからのことであって、作品自体に注目されたわけではない。
作品自体は、その他大勢の作品と変わりなく、文章作法なども、まだまだ中学生ということもあって、
「甘さ」
も目立っていたのだ。
だから、出版社側からすれば、
「中学生にしては、目の付け所がユニークで、普通ならあの年でテーマとできるはずのない内容を書くことができたのはすごいことだ。しかし、作品に関しては、特記するものではないだろう」
ということであった。
なぜ、作品を特記できないのかというと、
「確かに、彼の作品の目の付け所はすごいのだが、逆にそれだけに、経験をしていないということで、作品としては、これ以上軽い物はない。致命的だといってもいい」
ということだ。
「天は二物を与えず」
というが、
「アイデアという素晴らしさを与えたおかげで、経験gないという致命的んことになってしまった」
ということで、それでも、一つに特化していることに変わりはなく、それが、大事なことだといえるのではないだろうか?
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