第3話 引きこもりの時代

 時系列の中で、その時々のタイミングで、節目を感じた時、その順番がたまたま他入れ替わるのではないかと感じたのは、今の年になってからのことだった。

 中学時代、高校時代には、毎日を生きるのが精いっぱいだった。

 といっても、努力をしていたわけではない。むしろ努力をすることを放棄し、いわゆる、

「引きこもり」

 になったのだ。

 これも、典型的な、転落人生の一つなのかも知れない。

 中学生になってから、急に自分が、

「周りから浮いている」

 という感覚を持っていた。

 思春期が近づいているという感覚もあったが、自分が変わりつつあるのに、それなのに、自分に誰も注目してくれないことに、苛立ちのようなものを覚えていた。

 別に自分が、目立ちたいとか、輪の中心にいなければ我慢ができないなどということを感じたわけではない。むしろ、

「面倒くさいことは嫌いだ」

 と感じたほどだった。

 それなのに、まわりが動いているのに、自分だけが、静かにしていなければならないということに、何か我慢ができないものがあった。

 あれは小学生の頃だっただろうか。夏休みに親が旅行に連れていってくれたことがあった。

 親の運転する車で、出かけた温泉地であったが、

「鄙びた温泉」

 というわけではなく、どちらかというと、歓楽街が近くにある、観光地に隣接した温泉ということであった。

「子供も遊べる温泉」

 ということで選んでくれたのだろう。宿につくと、当然のごとく、子供は、宿を中心としたところ当たりを、散策したがるものだった。

 だから、隆も、他の子供も同じであろうことをするつもりで、宿につくと、ワクワクした気分になって、散策気分で出かけようとした。

 すると、親が意外な言葉を口にしたのである。

「隆、やっと着いたんだから、ゆっくりしなさい」

 ということであった。

 父親の方は、疲れが出たのだろう。座布団を枕にして、そこで昼寝をしているようだった。

 母親の方は、一人、取り残された手持無沙汰のように見えたので、子供としては、そんな姿を見ているのは、忍びない気がした。

「手持無沙汰なんだったら、一人でも宿を散策してみるとかしてみればいいのに」

 という気持ちになった。

 しかし、母親も明らかに疲れている。確か、昨日までは、あんなに、

「久しぶりに温泉だなんて、楽しみだわ」

 と、純粋に喜んでいたはずではないか。

 それは、裏を返したようなこの豹変ぶりには、さすがに驚かされた。

「最初は、もっと身体が動くと思っていたのに、実際には、動きが取れるほどではなかった」

 ということを感じたのではないだろうか?

 そんな母親を放っておいて、隆は宿を散策していた。すると、中には同じように宿を散策している子供がいるではないか。

 その子供は一人ではなかった。男の子と女の子のようで、男の子は、自分と同じくらいの年で、女の子は、まだ、小学生の低学年くらいじゃないだろうか?

 そんな風に思った隆は、遠目に見ているつもりだったが、その女の子が、隆のことが気になっていたようだ。

 どちらかというと、

「珍し気」

 という雰囲気で見ていたので、二人は兄妹なのだろう。

 普段は、お兄ちゃんしか見ていなかっただろうが、旅行先という解放された気分の場所で、他の子供、お兄ちゃんとは別の男の子を意識していたのかも知れない。子供というのは、そういうことがあり、そのおかげで、仲良くなれたりするものだった。

 その時、隆はその二人の兄妹と仲良くなった。妹の方が、やたらと、隆を慕ってくれるのである。

 普段は、兄を徹底的に慕っているようで、隆への慕い方もハンパではなかった。

 隆も、妹がいないので、妹がほしいと絶えず思っていて、最初から、妹がいる二人を見ていて、

「羨ましい」

 と思っていたようだ。

「俺には、妹がいない。なぜなんだろう?」

 と、真剣悩んだ。

 自分は一人っ子で、兄弟がいないので、兄弟がいるところが羨ましかった。ただ、性格的には、

「いつも一人でいたい」

 と思っている方なので、兄弟がいないのは、都合はよかったのだろうが、子供の頃はそこまで感じてはいなかった。

 以前に、母親に、

「どうして、僕には兄弟がいないの?」

 と聴いたことがあったが、困ったような顔をしていた。

 大人になってから、分かったことだったが、どうやら、家計などの問題と、母親が身体があまり丈夫でないということから、両親が病院の先生n相談した結果、

「子供はこれ以上は作らない」

 ということにしたということであった。

 だから、いくら、隆が望んでみたところで、それは、

「無理難題」

 というものだった。

 隆に、

「兄弟がいないの?」

 と聞かれても、どう答えていいか分からない母親としては、辛かったことだろう。

 幸いなことに、それ以上、母親に聞くことはなかったので、母親も、この件に関してはつらく感じることはなかったであろう。

 そう考えると、

「隆の性格が、一人きりが好きな性格」

 というのはよかったのかも知れない。

 妹の方から慕われたことで、少々有頂天になった隆だったが、そんな時に、兄貴の方が自分を見ている目が、少し怪しかったということに、気付いていなかった。

 子供だということもあるし、有頂天になっている状態で、

「異変に気付け」

 というのは、土台無理なことだったに違いない。

 きっと、兄貴の方は、自分の立場を奪われたということで、面白くなかったに違いない。もちろん、

「この宿にいる間の、一日か、長くても数日の間のこと」

 それなのに、子供にそんな理屈が通じるわけはない。

 結果、3日間一緒だったのだが、感じとしては、その三日間が

「限界だったのではないか?」

 ということであった。

 3日間の間に、一緒にいた時間がそんなにあったわけではなかった。それぞれに家族があって、温泉に来たのも、そのまわりの観光が目的であり、もっとも、それは子供が望もうが望むまいが、親が決めたコースを連れて回るというものだった。

 そういう意味で、子供に拒否権はなく、子供の頃に親が決めた家族旅行を、

「親の自己満足のために付き合わされているだけだ」

 と思っている子供も少なくはなかっただろう。

 完全に、子供は、ダシに使われているということであり、今のところ、不満はないので、嫌だという気持ちはないが、いずれは、

「親と旅行するなんて、何が面白いんだ」

 と思うようになるだろう。

 ただ、今回の旅行でもそうだったのだが、宿に着いて、疲れ果てている親を尻目に、子供はそれまで、抑圧されていた行動を、解き放たれたような気がするので、一気に弾けた気分になるのだが、それを親が、

「あんたも休みなさい。そんなに慌てて遊ぶ必要はないでしょう」

 と、言葉は優しかったが、子供としては。

「一体何を言っているんだ?」

 とばかりに、行動抑制をしてくることに、不満を抱いていたのである。

 子供である隆は、まだその時、自分の性格を把握していなかったが、最近になって分かってきたこととすれば、

「自分は、まわりの人と違っている」

 ということを、結構早い段階から分かっていたと感じたことである。

 今から思えば、小学校高学年くらいの頃から、分かっていたような気がする。だから、まわりの友達から、自分が浮いていると思ったことがあったように思うからだ。

 さすがに、小学生の頃は、それが嫌だった。無理にでも、子供の間でのいくつか存在している、派閥のようなグループのどこかに、強引に入り込もうとして、弾き出されたことが何度もあった。

 そのせいもあってか、

「俺は、誰からも受け入れならないのか?」

 と感じながらも、さらに、強引にどこかに入り込もうとするので、まわりからは、疎まれる。

 それが嵩じてしまって、六年生になった頃から、まわりから、

「苛め」

 のようなものを受けるようになったのだった。

 中学生になっても、それがやむことはなかったが、実質的な苛めというより、クラスの中で、無視されるようになったのだ。

 昔でいえば、

「村八分」

 と言われるもので、今でいえば、

「ハブられた」

 と言えばいいのだろうか。

 しかし、一人でいることの方が好きだったわりに、クラスからハブられたことは、さすがにショックであり、結局、学校にいけなくなり、不登校になってしまった。

 そのまま、

「引きこもり」

 となったのだが、それが、実は自分の性格を分かることに繋がるとは、面白いものだった。

 家に引きこもっていて、何をしているかというと、最初は、誰もが通る道とでもいえばいいのか、ゲームに夢中になることだった。

 ゲームに夢中になっていると、実は、結構きつくなってくるのを感じた。そして、そのうちに、

「これの何が面白いんだ?」

 と感じるようになったのだ。

 確かに、攻略していって、レベルを上げていき、点数を獲得していく。それなりに楽しいとは思うのだが、結局、

「皆同じことをしていて、楽しくない」

 と思ったのだ。

 クリエイティブな感覚がない。それがなぜなのかと思っていたが、すぐに分かった気がした。

 というのも、

「皆、ゴールが同じだ」

 ということだ。

 人が作った道をゴールに向かって突き進んでいるだけで、そこに、想像性というものはない。

 自分の個性を発揮できるものがないと思うのだった。

「だったら、何か、自分で創造物を作りたい」

 ということで始めることにしたのが、小説執筆である。

 今は、引きこもっていても、ネットでいろいろと調べて、やりたいことに突き進むことができる。

 クリエイティブなことを目指している人も一定数いるが、まだまだ人は少ない。それも、隆にとってありがたいことだったのだ。

 創作というものの楽しさを味わえば、

「ゲームなどというものに、うつつを抜かしていた自分が恥ずかしい」

 というくらいに思えてきて、

「最初の小説をどんなネタにしようか?」

 と考えた時に思いついたのが、

「小学生の時に連れていってもらった温泉でのでき事」

 だったのだ。

 あの、妹が兄にべったりという関係に、自分が入った時の、少し歪になっていった関係を思い出してきたのだった。

 隆は、主人公を、敢えて妹とした。

「妹が兄を慕っているという感情をいかに表すか?」

 ということが、小説のキーであり、ハイライトに持っていくことにしたのだ。

 主人公を敢えて、

「妹にしよう」

 と考えたのは、隆が自分の性格を、

「女性的なところがある」

 と思ったからだ。

 思春期になり、クラスの女の子のことが気になっていたのは、他の男の子と変わるわけではなかったのだが、どうも、皆と違うところがあった。

 まわりの男の子たちは、女性というものを、

「いやらしいものの象徴」

 というような目で見ているようで、それをなぜなのかと考えるようになった。

 その時に思ったのが、

「自分の性格が、女性らしいところがある」

 と感じたことだった。

 というのも、最初からそのことに気づいたわけではなく、嫌らしいものの象徴として見ている男子連中を、最初は、

「汚いもの」

 と毛嫌いしていたが、その男子連中の考えている先にあるものが、

「女性へのあこがれではないか?

 と思うようになり、

「思春期の男子が女性に対して、自分たちとは違う神聖な存在」

 という意識でいることの表れが、

「いやらしいものを見る」

 という感覚だったのだろう。

 そんな風にはどうしても感じることができない隆は、

「俺は、本当に思春期を迎えたのだろうか?」

 と感じるようになっていた。

 思春期というのは、隆もそれなりに、知識としては持っていたが、女性に対しての見方一つととっても、どうも、自分が想像していたこととは、かけ離れたところがあるようで、それが何なのか、よくわからないでいた。

 それを考えている時、温泉宿で知り合った、あの時の兄妹のことを思い出すと、妹が、兄を慕っていたのを見て、心の中で、

「羨ましい」

 と感じていた。

 最初は、慕われる兄を羨ましがっているのかと思ったが、どうもそうではない。もしそうだったとするならば、自分の立場を、この自分に奪われた兄の立場を、分かるだろうからである。

 しかし、なぜか、分かるのは、

「とにかく、誰かを慕っていないと気が済まない」

 というような、妹の気持ちだったのだ。

 つまり、

「俺が意識していた目というのは、妹のあの目だったんだ」

 と思うと、

「そのことを確かめたい」

 と感じるようになった。

 それが、

「今回書こうと思った小説の主人公を、妹にして、女性の視点で書くことで、自分がいかに女性的な目で見ているのかということを、証明したい」

 という気持ちが強かったということになるのだろう。

 そう思うと、隆は、

「自分の書く小説が、自然と書けるものなのだろう」

 と考えていたが、

「文章を書くということはそんなに簡単なことではない」

 ということを思い知らされたような気がしてきた。

「それほど、文章を書くというのは、難しいことでもない」

 ということでもあった。

 考え方はいろいろだが、視点を変えることで、簡単でも難しくもある。小説の場合には、それが顕著に出るような気がするのだ。

 すべての面を自分一人の視点から書くのと、場面によって、視点を変えるという二つの方法がある。

 確かに、

「一つの視点で全体を書く方が、スマートであるし、分かりやすくもある」

 と言えるだろう。

 しかし、

「場合によって変えることで、バリエーションを生かした書き方もできるし、書いていて、ワイドな見え方が見えたり、客観的に見えてくる」

 ということもあるだろう。

 まだ、

「視点を変える」

 ということができるほど、上達しているとは思えない隆は、

「それならば」

 と、普段の自分からの視点とは、少し違ったところから見ようと思って、妹の視線に合わせたつもりだった。

 しかし、実際にやってみると、思ったよりもしっくりくる。

「俺って、ひょっとすると、天才なのでは?」

 などと、自惚れたほどで、さすがに天才というのは大げさだったが、少なくとも、小説を書いていくうえで、書き続けることを許されたような気がしたのは、実に嬉しいことだった。

 それを思うと、小説における主人公を、敢えて妹にして、妹視線で、女の子の視点を見ると、何とも、

「こんなもの、見たくはなかった」

 というような、ドロドロした世界が想像できたのだ。

 その時は分からなかったが、後になって人から聞くと、

「女同士の世界ほど、ドロドロした陰湿なものはない」

 という話を聴いたりした。

 大学生になって付き合った女の子の一人に、女子高出身の子がいて、そんなことを言っていたものだ。

「共学や、男子校の男子には想像を絶するものなのかも知れないわね」

 と言っていたものだった。

 中学時代に書いた、妹を中心に見た小説で、妹の目から見た女子の間というものを描いた時、

「大げさすぎやしないか」

 と感じながら描いた小説を見せてみると、

「うんうん、まさにこんな感じかしらね。でも、よく書けているわ。まるで見てきたかのように思えるわ」

 というほどであったが、実際に見てきたわけでもないのに、確かに後から見ると、違和感がないように描けている。

 それを思えば、またしても、

「自分は、小説を書くことに特化したタイプなのかも知れない」

 と感じたほどだった。

 最初に書いた小説は、本当に小学生の時の旅行の話を書いただけだった。

 フィクションではあるが、ほとんど、ノンフィクションといってもいい。それだけ、描く範囲は狭く、内容は、陳腐なものだったと思っている。

 しかし、それでも、小説を書いていると、情景がどんどんと浮かんでくる。一つ思ったのは、

「よく、こんな狭い描写に満足できるものだ」

 ということであった。

 自分が、

「中二病的な発想」

 を持っているということを分かっていたので、もっと背伸びしたものが描けるのではないかと思っていたはずだった。

 ただ一つ気になっていたのは、まわりの小説を書いている連中、中学生だけでなく、高校生、大学生と、若い人のほとんどが、ファンタジー関係の小説を書いているではないか?

 特に、

「転生モノ」

 というと、実にほとんどの人が手を出しているものであり、

「小説を書くというとファンタジーや転生モノだ」

 と言われることに、違和感を感じていたのだった。

「俺は、そんな、ミーハーではない」

 と思いたかった。

 だからといって、他の小説を書けるほどの知識があるわけではない。特にこの間まで引きこもっている間に、やっていたことというとゲームではないか。きっと、今小説を書いている人のほとんどが、ゲームやアニメから入り、いわゆる、

「ライトノベル」

 と呼ばれるものを読んだり、アニメやゲームからさかのぼる形で、触れてくることで、自然と、ファンタジーは転生モノに入り込んでいったのであろう。

 隆も、自分の中の自制がなければ、きっと同じ道を歩んでいたことであろう。

 そんな風に考えていくと、

「俺は、きっと人と同じでは嫌だという性格なのに違いない」

 と感じるようになっていた。

 なるほど、確かに人と同じでは嫌だというところは、結構あったと思っている。その性格が一番顕著だったのは、大人になって忘れてしまうことになる、

「小学生低学年の頃の考え方」

 であった。

 大人になって忘れてしまったのも無理もない。

 というのも、大人になるにつれて、子供の頃に否定したかった自分の性格の嫌なところを認めたくなかったからで、しかし、そんな中で、実は、その性格が自分の本当の性格だったというのは、皮肉なことだったに違いない。

 小学生の頃は、どうしても、好きになれなかった性格だったが、高校生の頃になると、むしろ、

「嫌ではない」

 と思うようになり、そのせいで、次第に、小学生低学年の頃の性格が、次第に薄れていったのだ。

 これは、

「同じような性格に近づいていく」

 ということの現れで、それだけ、

「人生の中において、自分の性格は、ループしているのではないか?」

 と感じるようになった証拠ではないだろうか?

 世の中でも、ブームというのは、

「繰り返す」

 と、よく言われる。

「十数年に一度、以前に流行ったブームがまた訪れる」

 というのは、ファッション業界などでは、よく言われていることであり、もっと言えば、「サブカルチャー的なブームも、同じように、十数年に一度の周期で流行ることが多い」

 という話を聴いたことがあったくらいだった。

 それを思うと、

「確かに、中学時代に、友達から聞かされたブームの話を、今でも忘れずに覚えているのは、そういうことだろう」

 と感じていた。

 特に、中学時代というのは、何が好きだったのかということをすぐには思い出せないほどに、いろいろなことに興味を持っては、すぐに飽きるのか、別のものに飛びついていた。

 自分としては、一種の、

「黒歴史」

 ではあるのだが、本当にすべてが、黒歴史だったのかというと、そうでもないような気がする。

 途中から、引きこもりになり、學校にもいかなくなって、ゲームに没頭する毎日とはなってしまったが、だからといって、

「自分のすべてを否定する」

 というのは、決してしなかった。

 それよりも、

「自分で肯定できるものが何か?」

 ということが、ハッキリと分かることができるのか?

 と考えてしまう自分を、嫌だとは決して思わない。

「健気な自分」

 それを考えるようになっていたのだった。


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