則井先生(21)
近年球児達が熱中症予防の為、早い時間に始まり熱くならない内に終わると聞いていたが、なるほど確かに思ったよりも早く終わったので、帰って行く人々を見ながら結局ここに来てしまった愚かな俺はタバコを吸う。
(全く…喫煙可能の場所だっていうのに、ちらちら見てきやがる。)
煙が風の影響で移動し迷惑そうな目線が投げられるが、煙を広げたくて広げた訳じゃない。
確かに車に移動するまで我慢出来なかった自分も悪いかもしれないが、それでも適当な所で吸い殻を捨てない場所まで来たのだから理解して欲しい。
分かってはいても、今の世間では喫煙者には当たりが厳しい現実を目の当たりにして少し気分は下がる。
何もかも終わったからか誰も立ち寄らないこの場所、そこに。
じゃり、と足音がする。
それは、離れた場所からずっと俺を見ていた。
最初こそ気付かない振りをしていたのだが、どれだけ待っても、タバコは減っても変わらずそこに居たので、耐えかねて声を出す。
「―残念だったな。」
野球帽がいつもより深く被り顔が下を向いていたので、その目は見えないがその口が歪んでいる。
それもそのはずだ、と俺は思う。
「最後の守備で一点取られるなんて…悔しかっただろう。」
八回まで同点のまま進み、臨んだ九回…コイツが投げたボールが打ち取られ一点取られてしまった。
流石に来年がある身とはいえ、甲子園出場目前まで行ったのだから悔しい思いがあるだろう…と、もう一度その姿を見るが、俺に対してどんな言葉を待っているのかもう分からない。
こんな時、どんな言葉を掛ければいいのか…あんな事が無ければ、自然と出てきたはずなのに。
がりがりと頭を掻いていると、俺に向かって被っていた帽子を取り真っ直ぐなお辞儀をしてきた。
「今日はお忙しい中、来て下さりありがとうございました。」
その言葉は、俺が聞いただけでも複雑な感情が混ざり合っていて、本当はどんな気持ちだったのか分からなくなる程濁ったものになっている。
「せっかく来て下さったのに…気持ちの良い試合を見せられなくて、すみません。」
それはもう仕方がないと思う、勝ち負けが明確に決められたスポーツの世界で勝ち続ける事が出来るのはほんの僅かな者だけだ。
「そんな事を謝らなくても良い。」
眼鏡をいつも掛けなければいけない程視力が低くなった俺でも、グラウンドで必死に投げ続ける投手は認識でき、途中交代からマウンドに上がった身であっても、その動きは野球素人な俺から見ても明らかに激しいと思う。
だが、今ここで俺が言うべきことは。
負けたコイツへの慰めの言葉や、来年に向けての励ましの言葉などでは無い。
「―何で、俺をここへ呼んだ?」
頭を下げた姿勢で、相手は止まったまま。
ならばこちらが動くしかないと、俺は口を動かす。
「お前にとって俺は、もうくっつく事が無く話したくもない憎き相手だと思うが。」
姿勢は変わらない、が。
その頭だけが左右に揺れる。
「…言える範囲で、言ってみろ。」
体も震えてきている様に見え、堪らず俺は声を掛けた。
最初はコイツの声では無いと思っていたその音は、徐々に大きくなり俺の耳に届く。
「ごめん、なさい…ごめんなさい…。」
何で謝るんだ、どういう思考回路をしているのか分からないと渋い顔をしていると、周りの目にやっとそこで気付いた。
「おい…おい、頭を上げろ…っ。」
何やらひそひそ話され疑いの目を向けられている、今の俺は白衣を脱いでいて一見すると普通の一般人だが、目の前のコイツは違う。
正真正銘、さっきまでマウンドで戦っていた野球部のエース様だ。
しかも、それを証明するようにユニフォームも着たまま…ここに居るだけで野球部ですと自己紹介している様な有様。
そんなエース様が、ただのおっさんに体を震わせ謝っているこの状況。
まずい、まず過ぎる。
いつもなら人の噂など気にも留めない性分ではあるが、コイツにまで迷惑が掛かるとなると話が違う。
今日は確かに勝ち上がる機会を逃したのかもしれない…が、それでも戦っている様子を間近に見て確信した。
コイツは…明らかに他人が持ちえない唯一を持っている、と。
ただの買い被りかもしれない、それでも俺は。
あの決して長くは無くとも、濃密だった交流の時間や時折見ていた朝練の姿。
そして今日の必死に勝ちに行こうとする姿勢を見たから。
こんな所で、俺みたいな存在に…躓かせる訳にはいかない。
「顔を上げろ、園田!」
驚いた表情を見たが、すぐに備え付けの灰皿にタバコを投げ入れた後、その手を掴み俺は構わず人目が付かない場所まで走り出す。
どうにか変な噂が立つ前に、と人気の無い場所まで移動する事が出来た。
幸い県大会が行われる場所は、山を切り開いた中に建てられている野球場で、アクセスこそ車で来るしか選択肢が無い場所ではあるが、人が居ない場所を探すのは苦労しない。
(適当に走っちまったが…野球場の裏辺りか?)
まぁ来た道をそのまま戻れば良いか、といつも通りの調子に戻ってきてやっと俺と同じ様に肩で息をしているアイツが目に入った。
「おい、大丈夫か?」
そういえば、と俺は自分の顔が青くなるのを感じる。
あれだけ大変な戦いをした上に、休む間もなく走らせてしまった現状…体に負荷を掛けさせ過ぎただろうか、と恐る恐る顔を見た。
「―やっと、名前を呼んでくれた。」
息苦しく見えるのに、その目は涙を零しながらも、口は笑っている。
どんな感情なんだそれは、と聞く前に園田は話す。
「先生、あの時から…オレの名前呼んでくれなくなって…寂しかったから。」
たかが名前だ、しかも苗字。
日本国内だけでも同じ苗字が何百人いてもおかしくない、ただの言葉の羅列だと言うのに。
「…さっきの答え、なんですけど。」
先程とは違い、だいぶ普段通りに戻った様で先程の答えを口にする。
「ただ、先生に来て欲しかったんです。」
今度は真っ直ぐ俺を見て、園田は答えた。
「来るだけでも、オレらのチームを応援しなくても、向こうのチームを応援していても良いから…ここに居て欲しかった。」
「俺はただのおっさんだぞ。」
違いますよ、と首を振られる。
まだその目は潤んでいて、灯る光はチカチカと俺の目を刺激してきた。
「先生が客席にいるって思うと、良い所を見せたいって力が湧くから。」
何だこれは、とこれまで味わった事の無い未知の感覚が俺を襲う。
くすぐったい、照れくさい、逃げたい…他にも処理しきれない感情が渦を巻き、俺はただそれに飲まれるしか手立てがない。
「オレとって先生は特別な人なんです…例え恋人になれなくても。」
だから、と園田は告げた。
「先生が恋愛に興味が無いならそれでいいです、それが先生なら…でも。」
その豆が過酷な練習によって何度も作られそして潰れたのを繰り返し固くなった手が、俺に差し出される。
「もし先生の隣に今誰もいないなら…そこにオレは居たいです。」
ずっと、寂しかった。
俺が一人で生きていかねばならないと自覚したその時から。
でも、今更理解者を増やそうったって、仕事に追われて昔の友人や教え子にすら連絡されない…しかも自分から連絡も出来ないような情けない男なのに。
拒否されて、離れられるのが心底怖い臆病者である癖に、それでも。
こんな俺でも、ぬくもりを求めて良いのだろうか。
目の前に差し出された、戦い終わりじんわりと汗をかく若い手…それを。
俺は思いっきり横に払った。
「…?………え!?」
どういう事だと、訳が分からないと困惑する園田に俺は地の底から産み出された様な声を出す。
「おい、園田ぁ…お前今、いくつだ?」
「ぇ…十七です。」
至極当たり前だし、今聞く内容では無いだろうと未だに戸惑っている様子の園田に更に質問を投げる。
「じゃあ、お前は成人か、未成年か?」
「み、みみ未成年…です。」
「そうだな、俺は成人だ。」
つまりな…と思っていた考えを口に出した。
「今お前と付き合うと、日本の法律的に俺が犯罪者になるんだわ!!」
片手を握り、誰もいない場所だからこそお構いなしに大声を出す。
園田はそんな俺の様子を目が点になっている様な状態で見ていて、まさしく呆然と言って間違いない様子に俺は話を進める。
「何が言いたいかって言うとな、あの時お前が暴走しなきゃこんなに厄介になる事は無かったんだよ!反省しろ!!」
「えぇ…あ、の」
「返事!」
はい!とまさしく野球部のそれらしくきびきびとした声が返ってきた。
よし、と言いたいだけ言った俺は口寂しくなってきたので、くるりと後ろを向いて数歩歩いてタバコに火を付ける。
「―時間貰って悪かったな、そろそろ帰る時間だろ。」
俺はタバコを吸ってから帰るから、お前は先に戻れと言うが。
「え…い、いやいやいやいや!?」
と背後から両手で肩を掴まれる。
「ちょっと先生、結局オレの言葉への返事を教えて貰っていない気がするのですが!?」
「さっきのアレが答え、それがすべてだ。」
「で、出来れば『はい』か『いいえ』で答えて欲しいです!」
ゆさゆさと揺さぶられるが、今園田の方を向く訳にはいかない。
タバコも吸い始めたし、煙がそっちに行ってしまうかもしれない…が、まるで園田は駄々っ子の様に俺から離れず訴える。
「先生、お願いします!…オレにも分かる答えを下さい!!」
そうかと思った、だから。
少しだけ、タバコの煙を吹きかけてやった。
「!?…がはっごほ…っ。」
やっと離れた園田は、少量とはいえ副流煙を浴び咽る。
聞こえるかどうかは分からないが、ヒントは出す事にした。
「それに耐えられる歳じゃねーと駄目だな。」
「と、歳って…歳?」
分かりにくいかと思ったが、存外頭は回ったらしい。
「もしかして、大人になったら考えてくれる…という事ですか?」
これ以上は答えてやるもんか、と俺はタバコに集中する。
園田はじっと俺を見つめていたようだったが、持っていたスマホから音が鳴った。
時間的に野球部の誰かか、もしくは帰りの迎えに来た家族からだろう、そんな事を思っていると「先生!」と後ろで呼び掛けられる。
「オレ、気持ちは変わらないから…だから、また会いに来ますね!」
覚悟して下さい!と駆け出す足取りは見えなくても軽く、俺は感情が表に出過ぎているその久し振りに感じた行動に笑みが零れた。
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