園田くん(9)
今日の授業は少し長引いてしまった。
体育や家庭科、理科はどうしても準備が必要になるので、後片付けの時間も必要になってくる。
それ自体は何も文句は無いけれど、少しでも保健室に居たい気持ちの方が日に日に多くなってゆくので、出来るだけ早めに片付ける能力が身に付いてきて、周りのクラスメイトからは驚きの目で見られる事が多くなった。
(それでも、周りの事を気にしてなんかいられない。)
やっと目的地が見えてきて、オレはすぐに扉を開ける。
「こんにちは、先生。」
いつもならここで返事をしてくれるけれど、先生はじっと手元のタブレットを見ていた。
聞こえていないだけだろうか、そう思ってオレはもう定位置となっている先生の隣の椅子に座る。
暫く様子を伺うと、その顔はいつも生気が溢れている訳では無い先生だったけれど、今日は更に血の気が引いて青白い顔で淡々と仕事をしていた。
これは止めないとマズいんじゃないかと思ったオレは、すぐに現実に意識を戻すよう大きな声で呼ぶ。
「先生…先生!」
ぴくり、とその目がやっとこっちを向き、ぱちくりと瞼を動かしている先生はオレの事をやっと認識してくれたようだった。
「ん…あ、返事してなかったか。」
どうやら来た事は分かっていたようだったけれど、あまりに仕事に熱中し過ぎていて挨拶する事も忘れていたらしい。
流石にそこまで仕事をするのはどうなのだろう、そう思っていると先生も分かっているのかその表情が苦くなる。
「…先生、お疲れですか?」
「まぁ…疲れていないと言えば嘘になるな。」
それもそうだろう、と思う。
オレは先生が持つタブレットや、机の上に散らかっている紙の山を見て、今日の仕事はいつも以上に多いのだと察した。
(そういえば、健康診断やったっけ…それのデータを書いているとか?)
あくまで予想でしかないけれど、と思考を切り替えてオレは先生に提案をする。
「一度ご飯を食べましょう。」
何事もほどほどに休憩を取らなければ、体の方がばててしまう…ずっと野球をやってきたけれど、これは体に刻まれた事で、オレは大事にしていた。
先生もオレの言う事を聞いてくれたみたいで、素直にいつも弁当を入れているバッグを取りに行こうとするけれどピタリとその動きが止まる。
どうしたんだろうと「先生?」と声を掛けると小さな声で先生は呟く。
「そういや、今日持ってくるの忘れたわ。」
あっけらかんと言うけれど、それはとてつもない一撃でオレはギャグマンガの様なリアクションを取ってしまう。
「えー!?…どっどうします?購買…は、もう今の時間に行くと激戦区だし、飲み物だけじゃ絶対体に悪いし…。」
ウチの高校には購買はあって、育ち盛りの男子高校生の食欲を考慮したラインナップが揃っていて、弁当、カップ麺、パン、お菓子、ジュース…その他諸々が揃っている、けれど。
問題は商品の数じゃなくて、求める客層だ。
購買だけで売られている限定商品を求める奴、弁当を作って貰っているのにまだ足りないとパンやお菓子を買いに来る奴、先生みたいに弁当を忘れ藁にも縋る思い出取りに来る奴…そのどれもが、小食な奴はほとんどいない。
寧ろ、強者…人ごみに揉まれるのを承知で購買に勇んで挑む者が多くて、細身の先生が行ったら吹き飛ばされそうだ…とまで言うと「俺を何だと思っているんだ。」とか怒られてしまいそうなので、オレは先生に別の言葉を掛ける。
「良かったらオレ足に自信あるので買ってきましょうか!?」
購買には母さんの弁当がほとんどのオレは久しく行っていないけれど、体力だけなら自信はあるから、行く気満々で言うけれど先生は冷静に「待て待て。」と止めた。
「そんなに動揺するな…少し待てば自動販売機のパンが補充される時間になる、昼食の時間からはズレるが全く食べられない訳じゃ無い。」
確かにそう言われればそうだけれど、オレはお節介だとは思いながらも声を掛ける。
「でも…先生、見るからに疲れていますよ。」
「あとで寝る、ベッドは生徒だけじゃなく教師も使えるからな。」
先生は何て事の無い表情で話すけれど、オレは「そうなんですか?」驚いて話につい食いつく。
聞けば、先生達も疲れている時は保健室を使うらしい。
そういった対応も先生がするらしく、養護教諭の仕事は幅が広いんだなぁとオレは感心したのと同時に、尚更先生の仕事が多くて今疲れている原因では無いかと不安になった。
「短くても休憩を取れば頭も体も働くようになる。」
それはそうかもしれないけれど!…とは思うけれど、ここであーだこーだ言っても先生は自分から休むなんて言わないだろう。
そう確信したオレはならいっその事!と切り出す。
「なら…オレ、緊急の人が来ないかここにいるので、その間先生休んでいて下さい。」
名案だと思って言い切るけれど、先生は何だか左手で描いた落書きの様な表情になっている。
疲れ過ぎていると表情を取り繕う事も忘れちゃうのかな…と感じながら、それでもその状態を放っておく事が出来なくて、オレはわざとらしく胸を叩き自信満々に告げた。
「ちゃんと留守番していますから。」
先生は変わらず何て思っているか分からない微妙な表情をしていたけれど、返事を貰うのにそう時間は掛からず、ため息混じりに答える。
「じゃあ…頼む。」
渋々、本当に仕方がないからなと言う様な低い声、それでもオレを頼る選択肢を選んでくれた事には変わりは無い。
オレは満面の笑みで、先生をベッドまで見送った。
ぎしり、と軋む音が聞こえて、オレはカーテンで見えないけれど、先生がちゃんとベッドに横になった事を知る。
一応口酸っぱくタブレットは机に置く様にお願いしたので、一時的だけど仕事からも解放された先生は休めるだろう。
(うん、我ながら良い提案が出来た。)
一人になる時間が出来て、オレはそのままになっていた弁当をやっと開け、まず最初は先生と話し合っていたので、喉が渇いたから水筒を口に付け飲む。
麦茶と共に溶けてきた小さな氷がオレの口の中に入り、熱くなっていた口内をヒンヤリと満たしてくれる。
音を立てて飲みながら、今度はスープジャーの蓋を捻ると、カポッという音と一緒に湯気がふんわりと出てきた。
母さんが作ってくれた豚汁は思ったよりも冷めていなくて、火傷に気を付けながらしっかりと息を吹き掛けながら一口飲む。
やっぱり熱くて中身を零さない程度に口へ空気を入れてどうにか耐えた。
ず、ずず…と飲んでから、今更と思ったけれど(ひょっとして、オレの食べる音うるさい…?)と先生の居るベッドの方まで視線を伸ばすけれど、変わりは無い様に見える。
それでも、あまり音を立てて食べるのは良くないよなぁ、と反省したので今度は静かに昼ご飯を食べ進めた。
そろそろ起こさないとオレも教室に帰る時間だから…と自分に対して言い聞かせるけれど、どうしても心臓の音が煩くなってくる。
「…先生?」
なるべく小さな声である事を意識する、何故ならオレ自身時折寝起きが悪い妹に何度か声を掛け「うるさい!」と怒られてしまった事が度々あったからだ。
(低血圧な人程そうなるって聞くし…先生がそうなのかは分からないけれど。)
それでも、出来る事なら嫌われたくは無い。
ゆっくりとカーテンを開け、先生がいるベッドまで近付く。
白いベッドの中にすっぽりと納まっている先生、布団の中までは見えないけれど、恐らくいつも猫背な姿勢が真っ直ぐになっているのが分かる。
枕の上に置かれている顔は、年相応に刻まれた皺も心なしか薄くなり、オレが心配していた疲れが現れた表情では無くなっていた。
(良かった…先生。)
そのままその顔をじっと、見てしまう。
白髪交じりの髪と眉毛、いつも掛けている眼鏡が外された目元、思ったより真っ直ぐな長いまつ毛、褪せた色の薄い唇。
決してブサイクという訳でも、イケメンという顔立ちでも無い、けれど。
どうして。
ぴくぴく、とその瞼が確かに動き、オレはハッとなって声を掛ける。
「先生、おやすみの所すみません…そろそろ起きる時間です。」
くすぐったいかな、と思ったけれどこれならすぐに起きてくれると思い、耳元まで近付き囁く。
効果抜群だった様で、先生はゆっくりと目を開いてくれた。
「すまんな、手間掛けた。」
それでも眠そうに目を擦る動作をする先生、それがオレには刺激的に映り、つい目を背けてしまう。
二人っきりの空間、気を抜いた状態の先生、この二つがオレの心をかき乱してきて、オレが起こした事態なのに、居ても立っても居られない気持ちが強くなってくる。
「では、先生!あまり根を詰めない様気を付けて下さいね!!」
我ながら強引だ、そう感じてはいたけれど、これ以上ここにいると感情に任せた行為しか出来なくなると、自分の理性が警告音を脳内で喧しく響き渡らせた。
「それでは失礼します!!」
と先生の言葉も待たずに慌てて荷物を持って保健室から脱出する。
そうでもしないと、オレは。
(…あぁクソッ!あんな事を思うなんて失礼なのに…!)
こんな事を思っているけど、本当は自分でも分かっているんだ。
暫くオレは。
あの寝顔の事を忘れる事なんて出来ないんだって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます