則井先生(9)
季節はまだ春、そう春だ。
そう自分を言い聞かせながら膨大過ぎる数字が書かれたデータを見るも、俺は眩暈がする。
生徒達からしてみたら、測定されるだけで終わる健康診断だが、記入する側として立てば辛い思いしかない。
そこそこな田舎、加えて少子化が加速している中とはいえ、この男子校の人数が少ない訳じゃ無いし、その人数に対して俺ただ一人が延々と淡々と生徒達の個人情報を記入してゆく作業は正直気が遠くなる仕事だ。
(そもそも全校生徒全員に対して一人で対応させようというのが…無茶苦茶だろうよ。)
俺が休みを取る時の為に臨時の養護教諭もいるが、臨時は臨時、ここまでの仕事をさせる訳にもいかない。
ずっと画面を睨みつけて長時間経過している中、昼休みのチャイムが鳴り、暫くするとがらりと扉を開けたアイツが現れた。
「こんにちは、先生。」
すぐに吸い込まれる様に俺の隣に来た園田は、最初は穏やかな顔をしていたが、その内に訝し気な顔になる。
「先生…先生!」
「ん…あ、返事してなかったか。」
ある程度距離が近くなった相手とはいえ、挨拶を返していなかった事に対しての反応だったらしい、理解するのに遅くなってしまったのが明らかに仕事の原因だとやっと分かった俺は思わず顔を顰めた。
「…先生、お疲れですか?」
流石に露骨に現れていたのを察知したのか、園田は眉尻を下げて言う。
「まぁ…疲れていないと言えば嘘になるな。」
「一度ご飯食べましょう。」
それもそうだと思いバッグを開けようと腰を浮かそうとしたが、俺はある事を思い出しそれを止める。
「先生?」
「そういや、今日持ってくるの忘れたわ。」
えー!?と園田は声を上げ大袈裟にその場から立ち上がった。
「どっどうします?購買…は、もう今の時間に行くと激戦区だし、飲み物だけじゃ絶対体に悪いし…良かったらオレ足に自信あるので買ってきましょうか!?」
「待て待て、そんなに動揺するな。」
あまりの慌てように、逆にこちらが冷静になってしまう。
まぁ健全な男子高校生からしたら弁当抜きは大層苦しい思いに感じるのだろう、俺はここまで深刻に感じないし、度々こういう失敗を繰り返してきた身としては「まーたやっちまったか。」と考える程度なのだが。
「少し待てば自動販売機のパンが補充される時間になる、昼食の時間からはズレるが全く食べられない訳じゃ無い。」
「でも…先生、見るからに疲れていますよ。」
食べ物の心配はクリアしたが、今度は体か…と自分の母親を彷彿させるその口振りに溜息を吐く。
「あとで寝る、ベッドは生徒だけじゃなく教師も使えるからな。」
「そうなんですか?」
初めて聞いたとばかりに驚く園田だが、確かに知らない生徒は多いだろう。
教師職は己の時間を割いてまで仕事に身を置くしかない場面もあり、そんな時や休まる場所が家だけかと言えばそうではない。
保健室は生徒の健康だけではなく、教師の健康も守らなければならない場所だ。
どうしても過労になってしまい休む場所が無いとするならば、ここを提供するしかないし、精神を病んで誰かに相談したいがそれが言えないといった悩みを打ち明ける場としてここを訪れる教師もいる。
「短くても休憩を取れば頭も体も働くようになる。」
だから心配は要らないから1年の件はどうなったんだと目を見つめて訴えるが、園田の顔は晴れず加えて素っ頓狂な事を言い出す。
「なら…オレ、緊急の人が来ないかここにいるので、その間先生寝て休んでいて下さい。」
何を言うんだと、俺は信じられないと言った視線を園田に向けるが、園田はその気満々な様で胸にどんっと片手を打ち付ける。
「ちゃんと留守番していますから。」
この前犬扱いがどうだとか言ってなかったか、コイツ。
どう言えば考えが変わるだろうかと考えるが、目は真剣そのもの、口はぎゅっとへの字に結ばれ、背筋はぴんと伸び、胸が張っているその姿は俺が「はい。」と言わなければ崩せないと思う程隙が無い。
自分から犬扱いして下さいと言っている様なものだぞ、と喉から出そうになるが、どうにか引っ込めて俺は降参する。
「じゃあ…頼む。」
すぐに園田の顔が輝くように笑った。
こうした休息を全く取らない訳では無い。
しかし、他人が保健室に居る中で自分が寝るという状況は体験した事が無いし、そもそも一人暮らしの俺は自分が寝ている状態で近くに他人が居るという事が何十年振りで落ち着かない。
(…まぁ、眠れなかったにしても、ベッドの中に入れる状況は休まるが。)
そもそも保健室のベッドは仕切る為のカーテンがあり、疑似的ではあるが個室の様な空間が出来上がっている。
眼鏡を外し、白衣を脱いでからベッドに入り、ぎしりという軋む音と共に俺はそこに沈む。
ベッドに体を委ねると自分の体の疲れがより確認出来て、俺は自分がいつも目を背けている年齢という言葉が頭に浮かんだ。
(…いつまでも昔の仕事のやり方じゃ通用しないな。)
自分の体力に合わせた仕事の方法をしなければならない、情報の更新は面倒だが己の体から発せられる悲鳴を無い事には出来ないと、考えを巡らせていると。
ごきゅ、ごきゅ…
何か聞こえる。
おそらく何かを飲み込む音。
ガリッ、ガリガリ…
氷でも食べているのだろうか。
はふっ…はふ…
これは、魔法瓶で持ってきたスープが熱かったので冷ましながら食べているのだろう。
カーテンで仕切られているというのに、いつも昼間に見ている光景がそのまま見えてきそうで、思わず俺の顔はにやけてくる。
(全く…出す音まで素直かアイツは。)
聞こえてくる音はうるさいという訳では無い、けれど穏やかな日常を象徴する様なその音達を聞いている内に俺の瞼はゆっくり、ゆっくりと重みを増して…いつの間にか、眠りに就いてしまった。
キーンコーンカーンコーン…と馴染み深いあの音で意識が戻る、が。
(…あー起きたくねぇ。)
春眠暁を覚えずとは言うが、しっかり休息を取れた俺は昼休みが終わるのが聞こえたのに、現実を無視しようと無駄な抵抗をしてしまう。
普段ならさっさと起きるのだが、あまりにも良く眠れたので、ベッドから離れ難くなってしまっているのだ。
(いいおっさんが何を思ってんだか。)
園田は俺を置いてさっさと教室に戻ってしまったのかもしれない、と俺は起きようと目を開けようとすると。
「…先生?」
俺を気遣っているのか小さな声がやってくる。
起こさない様ゆっくりとカーテンが開けられ、足音が俺の隣まで近付きそこで止まった。
俺が起きるのか様子を伺っているのか、暫くじっと見つめられている様で、あまりの時間に「早く声を掛けないのか。」とつい厚かましく思ってしまうが、気配が顔の横まで来る。
「先生、おやすみの所すみません…そろそろ起きる時間です。」
耳元で囁かれ、流石に起きてやらないと園田の後ろ髪を引く状態になってしまうだろうと、俺は少しずつ目を開けた。
「すまんな、手間掛けた。」
「いえ…。」
ふわぁと呑気に欠伸をする俺に、園田はふいとそっぽを向く。
(…怒ってんのか?)
改めて好意に甘えてしまった事に対して謝ろうと思ったが、園田はすぐに立ち上がる。
「では、先生!あまり根を詰めない様気を付けて下さいね!!」
それでは失礼します!!と耳まで真っ赤にしている園田は、素早く保健室から出て行ってしまう。
「…時間ギリギリまで付き合ってくれたのか。」
あれだけ慌てて出て行ってしまったのだ、そういう事だろうと思い、俺は次に来た時に何か礼でもしないといけないか…と考え始めながら眼鏡をかけ、白衣に袖を通し午後の仕事を始める事にした。
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