則井先生(5)

パシャン、と音と共に水が弾ける。

朝起きてすぐに目覚めの為に洗顔をすると、不機嫌そうな皺が顔に刻まれた男が目に入る。

「…俺か。」

寝起きでいつもの状態でさえ声が低いのに、更に地を這う様なものとなり、歳取ってしまった自分の体に嫌気が差す。

現実から目を背ける様に早々に洗面台から撤退し、キッチンスペースまで移動する。

昨日閉店間際のスーパーで買ってきた値引きされた惣菜を並べ、インスタントの味噌汁と炊飯器から米を出し、朝食が完成した。

(独り身の男の朝飯なんてこんなもんだろ。)

それでも冷えた飯は腹が堪えるので、電子レンジで温め直し生温いくらいの温度にし、口に運ぶ。

値引きされたとはいえ、期間内に食べれば味は変わらない、全て手作りすれば少しの金銭は浮くのは分かっているが、仕事に手一杯でそこまでは手が回せない。

だからなるべく手間の掛からない食事を取る事にしていて、昼飯にゼリー食やスティック状の栄養食を食べている時もあるが、あまり偏り過ぎると自分の体にツケが回ってくるので、それなりに栄養は気にしている。

なるべく噛む事を意識して食べ、朝食を終えるとすぐに服を着替え、荷物を持ち、玄関へと辿り着く。

外に出て鍵をしっかり閉めたのを確認し、俺は家を出た。

まだ日が出て少ししか時間が経っていないので、周りは朝と思えないくらいに薄暗いが、徒歩十分圏内に仕事先の学校があるので、そこはいつもありがたいと思っている。

何故この時間帯から出勤するのかといえば、養護教諭の仕事に水質検査というものがあるからだ。

朝早くに学校へ出勤し、生徒達や教師達が口にする前に、学校で流れる水道の水質を使用可能な蛇口全て専用の道具を使い調べる仕事で、最初は億劫な気持ちが強かったが、他の仕事と比べればまだ数値を調べて書くだけの仕事なので個人的には気は楽ではある。

職員用の出入り口から入り、俺はすぐに保健室に荷物を置いてから仕事に取り掛かる事にした。

暫く作業に没頭していると、朝練にやって来た生徒達の声が響いてきた。

いつもならただ聞き流しているだけなのだが、ふとあの野球部の生徒が頭に過る。

(…あともう少しで終わるし、ちらっと見てみるか。)

水質の数値を記入した俺は、まだ朝練以外の生徒は教室にいない事を知っているので、足を動かしてグラウンドが窓越しで一番はっきり見える教室へ行く事にした。

野球部以外にも朝練に来ている運動部はあるが、特段声が大きいのはこの部活だといつも感じる。

そんなに野球には詳しくないが、今春の選抜高校野球とやらはもう終わり、次の夏に向けて練習に熱が入る頃…らしい。

季節感も何も無く、ただ淡々と日々仕事をこなしている俺からして見れば、火傷しそうな程の思いを選手達は抱えているのだろう。

特に、彼は。

「お願いします!」

外気温はそんなに熱くないのに、汗だくになっているその姿は、どれだけ体を動かしたのだろうかと疑問に浮かぶ程だった。

彼の言葉を聞いてから、顧問である佐久間がバッドでボールを打つ。

その放たれた玉にすぐ反応し、怪我の事なんて考えてもいないようなスピードで動き、持っているグローブで拾い上げ塁へ送る。

そして、元のポジションに戻りすぐ次のボールが打たれるので、またそのボールを追う。

「次、セカンド!」

雷の様な声が響くと、今度は別の塁への送球の練習を始める。

体は人間のはずなのに、正確過ぎるその投げ方は機械が仕組まれているのではないかと疑ってしまう程真っ直ぐで、そして…綺麗なものだった。

(なるほどこれは…期待される。)

野球…というか、スポーツ全般なのだが、どれもこれも素人で運動音痴な俺でも、その異才さが一目で分かる。

他の選手のボール投げやバットの打ち方も同時に見えたが、園田の動きは別次元だ。

練習が変わり、今度は投げる練習をしている様だが、縦に伸びた高身長から繰り出されるボールの威力に、受け止めているキャッチャーがよく悲鳴を上げないなと感心する。

しかし、と俺は首を傾けた。

(相談の時は、まるで別人だな。)

その圧倒的存在感でマウンドにいる彼は、まさに絶対的なこの野球部のエース。

だからと言って弱みを見せない様にと演じている訳でも無さそうに見え、俺は保健室の時だけ垣間見る事が出来るあの弱々しい姿を思い出し、考えを巡らせてしまう。

すると、教室の外から早く教室へやってきたらしい生徒の声が近付いてきた。

(のめり込み過ぎた。)

すぐに俺は教室から退散し、保健室へと戻る事にした。

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