第30話 夜明け前が最も暗い


 教室のざわめきが頭を冒していく。

 言葉は次々と頭に侵入してくるのにその意味を処理することができない。いくつもの声が重なってノイズになり脳を占拠する。

 睡眠不足のせいか、白昼夢を見ているような浮遊感が身体を包んでいる。

 

「慎、おはよう」


 呼びかけられて、フッと遠ざかっていた意識が徐々に戻っていく感覚がした。

 

 もしかして黒江が……!


 勢いよく上体を起こすと、心配そうにこちらを見る風間譲二と目が合った。


「——なんだ風間か。おはよ」


「なんだとはなんだ、全く。まーだ溶けてんのか。その様子見るに土日も仲直りできず、か」


 風間は呆れ声と共に肩を軽く揺さぶってくる。


 彼には黒江を怒らせてしまったとだけ言ってある。だが俺の状態を見てただ事ではないと判断したのか、かなり心配してくれている。


 顔を上げたついでに淡い期待を込めて前方の席に視線を送るが、凛と背を伸ばして本を読む黒江の姿はない。


 喧嘩をした翌日の金曜日、黒江は学校に来なかった。担任曰く「声がガラガラだったから喉風邪だろう。みんなも気を付けるように」とのことだった。

 本当に体調も悪くなってしまったのかもしれないが、どちらにしても休んでいる原因が俺にあるのは明らかだった。


「既読にはなるんだよな? 文面では謝って、電話もしたと」


「出て貰えなかったけど……」


 彼女が部屋を飛び出した後も、翌日以降にも何度も謝罪と、心配している旨のメッセージを送ったが返事はない。一度意を決して電話を掛けてみたがそれも不在着信。なしのつぶてだった。

 風間の言う通り、既読にはなるからとりあえず“最悪の事態”にはなっていない。

 だが、いつまでその状況かも分からない。

 

「んじゃもう直接家行くしか無いんじゃねェ?」


 不意に横から飄々とした声が飛び込んできた。


「うおっ!? 急に現れんなよ亀井! でもその意見はオレも賛成だ。正直それしかないだろ。学校にも来ないんじゃ」


「そーそー、自分から動かなきゃ」


「たしかに直接謝りたいけど、そもそも家知らないし……知ってても家まで押しかけたらもっと迷惑かけるだろ。てかそこで拒絶されたら……」


 どうしても事が上手く運び解決する想像ができない。考えれば考えるほどネガティブな妄想と共に黒江の泣き顔が思い出されて、あのときの身の竦む感覚が蘇ってくる。

 この三日間何度も襲われた最悪の気分だ。こうなると更に思考が回らなくなる悪循環に陥ってしまうのだ。


「全く、これだからオタク野郎は困る」


「……は?」


 それは、ごちゃ混ぜの頭の中にも強烈に響く言葉だった。中学の頃、後に散々バカにされたときによく言われた言葉だったから。

 普段なら軽口で流せるが、今はそんな余裕もなく正面から受け止めてしまい、分かりやすく苛立った声が出た。


「拒否られたら、そんときはそんときでしょ。ウジウジしてる時間無駄じゃねェ? 正直見ててムカつく」


「む、ムカつくって……俺は本気で悩んでて——」


 追撃とばかりに亀井からも不満を言われてたまらず反論すると、風間が「それだよそれ」としたり顔で割り込んできた。

 

「好きなもんの為ならなりふり構わずなんでもするのがお前だろ。打算とか人の目とか気にせずよ。今のお前はアレだ、色々考えすぎ。ちょっと変わったって基本はただの映画バカなんだから、カッコつけず気楽にいけよ。会いたいんだろ? 謝りたいんだろ? じゃあやること一つだろ」


「黒江ちゃんのことはよく知らねェけど、ブロックされたり“話しかけんな”とか言われてないんでしょ? 心の底からアンタの事イヤになってたらもっと拒絶してるっしょ。時間経ったらどうなるか分かんないけどねェ。ましてや、こんなウジウジたダサい奴だって知られたら無理かもだけど」


 不思議と、二人の言葉を聞いている内に思考の澱みが晴れていく感覚がした。みるみる視野が広がっていき、耳に走っていたノイズは普段通りな教室の喧騒に変わっていった。

 それはかき混ぜられた頭をさらに強く混ぜて全部外に零してしまった、というような力業だったけれど、それでも確かにやるべきことが明瞭になった。


 ——ああ、確かに俺は何も変わっていない。


 脳裏には、空気の読めないオタクとして浮いてた俺とも仲良くしてくれた更に空気が読めないこの二人との日々が過った。

 風間の言う通り、俺は黒江に対して無理にカッコつけようとし過ぎていた。その結果、亀井の言う通り踏み込み切れないダサい奴になっていた。

 そして黒江の言う通り、俺は彼女と向き合いきれていなかった。そしてまだそれを挽回するチャンスはある。


「二人の言う通りだ。色々ごめん、あとほんとありがとう。俺ちょっと行ってくる!」


 迷いが吹っ切れると居ても立っても居られなくなった。

 教科書も出さずに置いていたカバンを引っ掴んで教室を飛び出す。風間が何か言っていたが、もう足を止めることは出来なかった。



 *



「今から!? てか家分かんないんじゃ……! ってもう聞こえねぇか」


 残された二人は顔を見合わせて堪えきれず噴き出した。


「なはは、発破かけすぎたね。まぁアレでこそって感じだけど。世話焼けるぜェ」


「全く、極端で困っちゃうネ。文化祭準備も佳境だってのに。黒江さん共々、明日からたくさん働いて貰わないとな」


「あーあ、なんか青春見せつけられちった」


「言うな……俺らはまず趣味に理解ある相手探しからだな。特撮とパンク、映画より大変だぞ」


「まぁ、そのうちだねェ」


 友人の背中を押した二人は和やかに笑い合った。

 内心では二人とも、自分たちの将来よりも一歩踏み出した友人の行く末の幸を願っていた。

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