第29話 ちゃんと見て欲しい
温かみのあるイラストと穏やかな音楽が流れ、スタッフロールが始まった。
部屋には映画を観終わったとき特有の何とも言えない沈黙が落ちる。いつもなら俺から感想を聞き始めるところだが、それより先に黒江の方が口を開いた。
「最近の私やっぱり変だと思った?」
予想外の言葉が飛んできて肩がびくりと震えた。
いくつか会話のステップを飛ばして、彼女は俺が触れたかった部分について自ら言及してきたのだ。
身体をひねり彼女を方を見るが、彼女の視線は依然として画面に注がれている。少し赤く腫れた目元と、ニヒルに笑う口元がやけに印象的だった。
なんだか、初めてここで映画を観たときの黒江に戻ったみたいだ。
「なんで?」
考えうる限り一番良くない返事が口をついて出た。
出鼻を挫かれたせいか、マドラーでかき混ぜたみたいに頭がぐちゃぐちゃだ。
「なんか最初の頃みたいに緊張してたし、この映画を通して伝えたいメッセージみたいなものがあるのかなって。そしたら、示唆的なキャラクターとかセリフが結構出てきたから。考えすぎだった?」
「……いや、大体合ってる」
「そっか。考えすぎなら良かったのにな」
長い沈黙が流れた。それでやっとエンドロールも終わって画面が暗転していたことに気が付いた。
彼女はそこに映る自分に向かって話しかけるように言葉を紡いだ。
「私はこれを観て“相互理解”がテーマだと思った。私が出来てないこと。それと、ミランダは今の私みたいだよね。無理して仮面を被って——それが自分の首を絞める」
「やっぱり、無理してるんだな」
ほとんどオウム返しのような返事をする。
聞きたかったことを聞けたのに全く胸が晴れることはない。ただただ重苦しさだけがのしかかっている。
「でもなんで急に」
呟くように言うと、彼女は小さく鼻をすすった。
溢れそうになる涙を必死に抑えているのだ。
——俺は彼女が苦しんでいることを確認して、どうするつもりだったんだっけ。
事前に考えていたはずの彼女を励ます文句は、全て独りよがりで気持ち悪いものに思えてしまった。
彼女は淡々と続ける。それはまるで心の底に押し込めていた澱を少しずつ吐き出すようで、苦しみに満ちていた。
「死のうと思ったあの日から本当に色んなことがあって——半分くらい映画観てたけど、それも合わせて今まで知らなかったことをたくさん知って、慎やひまりさんに良くしてもらって『このままじゃダメだ、私も変わらなきゃ』って思った。文化祭は丁度いい機会だったから、色々頑張ってみた。でも前向きになろうとする心と一緒に後ろ暗さが湧いてくるの。『今更こんなことして何になるんだろう』とか、『母親とすら上手くいってないくせに?』って……それが、苦しい。ちょっとだけ」
言いながら、彼女はぎゅっと膝を抱えて顔を埋めてしまった。ただ弱々しい少女がそこには居た。
それは今まで見てきたどの黒江ナナとも違うものだ。
「そんな、身を削ってまで変わる必要ないんじゃないか? ——辛いんだろ」
「アハハ、慎はそう言ってくれるよね。私のこと、直視してないから」
ぐちゃついた頭にとどめを刺すような重たい言葉がぶつけられる。
彼女は相変わらず身体を縮こまらせたままで、その声はわずかに上擦って震えていた。
「そんなっ……! そんなこと……」
反論したかったが、ハッキリ「ない」とは言えなかった。
俺は本当に心の底から黒江と向き合っていたか? 少なくとも最初のうちはそうだった。
でも、こうやって映画を観ていくうちに状況に、そして彼女という存在に“慣れて”からは——。
『はいはい。分かってるよ。慎は私のこと不当に高評価してくれるもんね。さすがに慣れてきた』
ふと先日の彼女の言葉が頭に浮かんだ。
あのときは深く考えていなかったが、この認識の差こそがずっと彼女を苦しめていたのかも知れない。
「ごめん。でも俺は本当に——」
「やめてッ! その先は、聞きたくない」
黒江が初めて声を張り上げた。
彼女は丸めていた身体を跳ねさせるように立ち上がると、ひるむ俺を見下ろしながら掠れた声でまた叫んだ。
「私はみんなよりダメだから、普通にできないから、ちゃんと頑張らないといけないんだよ! それなのに結局また心配かけて、気使わせてる。君みたいに頑張れない——君が思ってるような人間じゃないんだよ、私は……!」
黒江が流した大粒の涙が目の前で落ちる。
俺がここまで彼女を追い詰めてしまったという実感がじわじわと湧いてきて、五感が遠くなるような感覚がする。ただ、目元に熱が集まる感覚と、黒江の嗚咽する音だけを強く感じる。
なにかを言おうと口は動くのに、言いたいことは頭を巡るのに、そのどれもが喉から先に出ていかない。何を言ってもまた彼女を傷つけてしまう——そしてそれは自分を苦しめることにもなると思うと何も言えなかった。
結局俺は、こんな状況でも自分本位だ。
「ごめんね。やっぱり今の私、変だ……今日はもう帰る」
「待っ——黒江!」
そう言って早足に廊下へ出ようとする彼女の背に反射的に手を伸ばすが、指先は空を切り彼女は扉の向こうへ消えてしまった。
追いかけようという意思に反して身体は立ち上がろうともしてくれなかった。
まるで意識と肉体が別々になったようだ。そんな場合ではないのに視界がどんどん歪んでいく。俺にそんな資格なんてないのに、涙が溢れて止まってくれなかった。
そして、翌日——黒江は学校に来なかった。
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