第18話 瞳の奥の秘密
「え、本当に映画観ないで勉強してたの?」
翌日、ローテーブルを挟んで向かい合う黒江に昨晩一人で進めた問題集を見せびらかしたところ、そんなことを言われてしまった。
彼女は心の底から驚いたようで、カッと目を見開いている。
何とも言えない脱力感が全身を襲った。
「そんな驚く? アナタが言ったんでしょ。映画禁止って」
「ごめん。まさか本当にそこまでやるとは思わなくて……冗談のつもりだったの」
彼女は本当に申し訳なさそうに言う。まるで俺が彼女の影響で何か間違いを起こしたような雰囲気だ。
冷静に考えて「テスト前に映画なんか観るな」という圧倒的正論を言った黒江と、ただそれに従って勉強した俺というだけなのだが、俺の日頃の行いのせいで何故か彼女が謝罪している。
真面目にシュンとしている彼女には申し訳ないが、あまりに可笑しな話で変な笑いが込み上がってくる。
「ハハハッ! 黒江が謝る必要ゼロでしょ。正論だし、最初に言ったのは黒江だけど俺が自分の意思で勉強を選んだんだから」
「そうかもしれないけど、だって慎にとって映画って大事なものでしょ? それを私が奪うのってよく考えたら何様? って感じだなって思っちゃって」
俺が思っている以上に、本人は相当気にしているようだった。そしてどうやら問題は俺の行いだけでなく、彼女の精神性も関わっているようだとようやく理解する。
今のように時折、彼女からは自己肯定感の低さと過剰な加害者意識が垣間見えるのだ。それは黒江ナナのこれまでの人生で培われてしまったもので、そうそう変化するものではない。
あの日から今にかけて、彼女は随分明るくなったと感じるが、奥底には苦しみと生き辛さの根が張っている。
俺にできるのは自分を否定する彼女を否定し直すことだ。
「確かに映画も大事だけど、別に奪われたなんて思ってない。それに今回はこうして教えて貰ってるし、テスト頑張ろうって思っててさ。だから、とりあえず始めようぜ。今日も黒江先生を頼りにしていいんだよな?」
「——うん。そう、だね。私も頑張るから、頼って」
完全に納得したわけではないだろうが、ひとまずは口車に乗ってくれた。
彼女と出会っていなければ、俺はこんな相手のことを真剣に考えた対話なんかせずにのうのうと生きていたのかもしれないな、という思考がぼんやりと浮かんだ。
「よし! じゃあ、一緒に乗り切ろう」
さて、雑念を払って勉強開始だ。
*
実際問題、少しやる気を出した程度で過去の怠慢が帳消しになるわけではない。格好つけても頭が良くなる訳でもない。結局大いに黒江を頼る結果になる。それがかえって彼女の肯定感の上昇に繋がったのか、徐々に平時の彼女に戻っていった。
一時間ほど経っただろうか。何度も助けてもらいながらではあるが、ついにテキスト上で最難関とされている応用問題を解き切ることができた。
「数Ⅱ終わったー!」
「“テスト範囲の問題集の一周目”が、ね。ちゃんと繰り返してやるんだよ?」
「うっ、頑張ります」
彼女の言う通りである。つい浮かれてしまったが、テスト当日までにこれを自力で出来るようにならなければ意味がない。むしろここからが本番と言ってもいいだろう。
それでも、前回は同じ問題集をテスト前日に焦って形だけ終わらせていたことを考えると、我ながら本当に大きな意識変革をしたなと実感する。
「でもお疲れ様。ちょっと休憩にしよっか」
黒江はそういうとグイと大きく伸びをした。
自然と制服が身体のラインを強調するようにピンと張るのをハッキリと見てしまって、咄嗟に視線を机に落とした。今まで余裕がなくて意識していなかったが、こうして彼女と正面から向かい合うなんてほとんど無かった。
映画も観ず、勉強もしないでいると、この狭い部屋の中で黒江と二人きりであることを否が応でも意識してしまう。今更過ぎる緊張に思わず生唾を飲み込む。
努めてそれらが表に出ないように、意味もなく別のテキストを出す素振りをしてみたりしていると、シンと落ち着いたトーンで黒江が喋り出した。
「慎、なんか変わったよね。あっ、イイ風にね。勉強の事だけじゃなくて、全体的に。この一か月くらいでだから気のせいかも知れないけど、なにかあった?」
突然何を言い出すかと思えば。なにかあったかだって? あったに決まっている。
俺が変化する要因なんて一つしかないが、本人には全くその自覚が無いのだろうか。
今日はなんだか彼女の言動に脱力することが多い日だ。
「ホントに分かんない?」
「うん」
こんなに真っ直ぐな瞳で肯定されてしまえば、こちらも誤魔化すのが馬鹿らしく思えてきた。
だから自分でも驚くほど率直に言葉が出た。
「アナタです。アナタ」
「え、私? 何かしたっけ……?」
「うん……そうだよな」
黒江は本当に心の底から言っている。それはこれまでの付き合いでよく分かる。
俺が黒江ナナとの邂逅によってどれだけ変化したことか。黒江ナナにどれだけ心身共に振り回され、その一挙手一投足にどれだけ感情を揺さぶられていると思っているのか——!
しかし当の本人はこの調子である。
思う所が無いと言えば噓になるが、そもそも始まりからして俺の独善だ。彼女に何かを求めるのは間違っている。
そう思って「内緒」と言いかけたとき、机の上に置いていた左手が温かい何かに包まれた。
「え、あっ」
それが彼女の右手だと気づくのに時間は必要なかった。目の前で起きていることだから見れば分かる。
だが脳はその光景を、その柔らかな感触を中々処理することができず、言葉にならない声を発することしか出来なかった。
「気になるからちゃんと言って欲しい」
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の切れ長の目が逃げるのを許してくれない。
本当は全部計算でやっているんじゃないかと思ってしまう程、俺は彼女の手のひらの上で簡単に転がされてしまう。
故意でも天然でも、俺自身がそれを心の底では「悪くない」と思ってしまっている時点で敗北は決定事項である。
「あーもう、話すから! 手、離して……!」
辛うじて押し出した声は裏返って情けない変な音になった。
彼女はそれを聞くと自分の右手を見て一瞬驚いたような顔をしてからパッと離して膝の上に置いた。天然だったらしい。
その一連の動作もまた俺の心臓を刺激する。
とにかく一度落ち着かなければ。深呼吸をして何をどう話したものか考える。
黒江によって変えられたものは本当にたくさんある。でも、俺が彼女と出会ってから一番明確に変わったこと、それを簡潔に言えば——。
「夢、やりたいことが出来たんだ。目指すべき進路。黒江とここで映画を観始めてから」
「なにをやりたいの?」
「今日はなんかグイグイ来るな……誰にも言わない?」
「言う相手も居ないって知ってるでしょ?」
彼女は自虐的な笑みと共に明るく答えた。
それを聞いて、「話せる」と確信が持てた。自分のくだらなくて荒唐無稽な夢を。
「映画館をな、つくりたいんだ」
「へぇ、映画館……どんな?」
「どんな? ——そうだな、施設自体は大きくなくていい。欲しいのは映画を提供する場だから。数は問題じゃない。上映するのは、面白いのに売れないと判断されて埋もれてる作品とか……まだ名前が売れてない監督の作品とか。もちろん往年の名作のリバイバル上映とかもバンバンしたい。大手の劇場では出来ないスケジュールでさ! 欲を言えば口うるさい映画通にも、普段は映画なんて滅多に見ない人にも“最高の映画体験”を届けられる劇場……は、さすがに難しいかもしれないけど、とにかく少なくても良いから強く求める誰かのための映画館、かな」
日々、頭の中で漠然と考えていた妄想以下の夢想——話しているうちにそれらが徐々に、ゆっくりと列をなして、ぼんやりはしているが一つの形になっていく。
それは考えながら自分でも自然と口角が上がってしまう、文字通りの夢物語だった。
黒江はそれを一緒になって嬉しそうに聞いてくれた。成り行きだったが、それだけで話してよかったと心の底から思えた。
「いいね。なんか凄く、良い。慎が創るなら、きっと色んな人の素敵な思い出になる場所になるね」
「いやいや、一体全体なにを根拠に」
「……内緒」
黒江は少し考えた末に悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
本当にズルい奴だ。そんなことをされたら「なんだよ」と弱々しく返すのが精一杯だ。
「再開しようか、勉強。私もなんだかやる気出てきた」
彼女はそう言ってシャツの袖をまくってテキストを開いた。
今日は本当に自由だなと思ったが結構時間を使ってしまったし、その提案を拒否する理由はなかった。
しばらくお互い会話もなく、黙々とペンを滑らせていると、彼女が手を止めずに呟くように言った。
「ねぇ、いつか私の夢の話も聞いてくれる?」
「——当然。今のところ俺だけ語ってて不公平だし」
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