第三章 ローリンローリン

第16話 おだやかな日々

 

 黒江と食卓を囲むようになってから一週間が経った。元々母さんともそれなりに交流していたのが良かったのか、彼女はすぐに馴染んだ。むしろ俺の方が緊張していたかもしれない。


 そして木曜の放課後、今日も今日とて黒江との鑑賞会だ。

 彼女との下校時間をズラすために教室で適当に時間を潰していると、風圧と共に机に凄まじい質量の物体が置かれた。思わず体が跳ねる。何が起きたか把握する前に頭上から聞きなれた声が響いた。


「わりぃ神崎、ホチキス留め手伝ってくれ! たったのこれだけだからさ……! 忙しかったら全然いいんだけど」


「返事を言う前に置くんじゃないよ、大量のプリントを!」

 

 風間はいつも通り人好きのする笑顔で全てを誤魔化して前の席に座り込んだ。机に置かれた大量のプリント群は彼が所属する“放送委員”の企画する行事に関するもののようだ。

 来月の文化祭に向けて色々と動きがあるらしい。プリントを一枚手に取れば『各部活動への伝達事項』というようなことが書いてある。何にも所属せず家と学校を往復するだけの者には縁のない話だ。


「いやだってお前どうせ暇だろ?」


「本心出したな」


 彼の一見横暴な振舞も許せてしまうのはその底抜けな明るさと善性があるからだろう。日頃の行いとも言う。俺や黒江にはできない芸当である。

 ふと黒江の不機嫌な顔が頭に浮かんで、この状況を知らせなくてはとスマホのメッセージアプリを開いた。

 目の前に聳え立つプリントの山を見る限り、すぐには帰れないだろう。風間に「ちょっと待って」と断りを入れ、簡潔にメッセージを打ち込む。


『雑用任されて少し帰り遅くなりそう。母さん居ると思うから先に家入ってて。適当に映画見始めてても大丈夫◎』


『”OK!”』


 こちらのそれなりに長い文言に対してサムズアップした動物キャラクターのスタンプ一つの返事がすぐに帰ってきた。いつも通りの彼女らしい返答に安心感すら覚える。


「ん? もしかして何か先約でも——あっ! ……まさか恋人!?」


 プリントに阻まれてこちらの画面は見えていないはずだが、なんとも鋭い奴だ。恋人ではないが。


 風間は良い奴だ。俺が周囲から浮いていたとき彼が居なかったら下手をすれば不登校になっていたかもしれない。

 だから、人との約束があると言ってしまえば彼は俺を解放してくれてしまうだろう。

 黒江とのことを秘匿している負い目もある。頼られたならちゃんと応えたい。

 

「どっかの誰かさんのせいで家に帰るの遅れるって連絡だよ。で、どう留めればいい?」


「ほんとかぁ? ——まあいっか! このプリントを五枚一組でホチキスしてく感じで、よろしくぅ!」


 嘘は言っていない。家族に送った風に言っただけ。黒江への連絡ということを否定したわけでもない。勘付かれたりもしていないだろう。

 

 “細かいことを気にしない”を体現したようなカラッとした彼の笑顔に苦笑しつつ、作業を開始した。

 




「時間かかったな、思ったより」


 すべての作業が終わり、風間は部活があるからと感謝の言葉を叫びながら忙しなく去ってしまった。今から行ってもほとんど終わってるだろうに、あの嫌な先輩とかに何か言われていなければいいが。

 微妙な時間だからか昇降口には自分以外誰も居ない。靴を履く無機質な音がやけに響く。外に出れば既に日は傾き始めていた。

 黒江が何か映画を観ていても、もう終わり際かもしれない。


「今年もいつの間にか冬になってんだろうな」


 家までの道を歩きながら独り言つ。

 一年が短いと感じるようになったのはいつからだろう。小学生くらいまでは大人になるなんてずっと先の話だと思っていたのに、もう目に見えるところにその分水嶺が迫ってきている。


『皆もう大学受験に向けて各々で動き始めてるの。分かる?』


 どうして寒くなると嫌なことばかり考えてしまうのだろう。

 それに何か大事なことを忘れているような感覚がある。

 


 あれこれ考えているうちにもう家の前、玄関扉を開くとリビングから賑やかな話し声が耳に入ってきた。

 いつも通り母さんがテレビに向かって喋っているのかと思ったが、よくよく聞けば黒江の声も混ざっている。何となく堂々と入るのは憚られてチラリと覗き込むと、黒江と目が合った。

 

「おかえり」


「えーっと、ただいま」


 黒江は制服の上にエプロンを付けて木べらを携えている。誰が見ても料理中という恰好だ。なぜ。

 なんだかムズ痒くなる光景にどう反応したらいいのか分からずにいると、柱の陰から母さんが顔を出した。


「ナナちゃん借りてるわよ~。ちょっと教えたらすーぐ出来るようになるから教え甲斐あるのよ~! “若さ”かしらね。これ、ほとんどナナちゃんが作ったのよ」


が教えるの上手だから……一人じゃ絶対無理です」


「もう、お上手!」


 いつの間にか二人の距離がぐっと縮まっている。なんなら聞き間違いじゃなければ母さんも下の名前で呼ばれている。この短時間で一体何が……?

 いや、二人が仲良くなるのは非常に良い事なのだが。


 若干の疎外感を覚えつつ、それよりも二人の穏和な笑顔を見るとつられて頬が緩む。

 作っていたのはホワイトシチュー。芯が冷えた体に嬉しいメニューだ。カバンを置き、着替えと手洗いを済ませてリビングに戻ると丁度調理も終盤に差し掛かったところらしかった。


「——うん! いい感じ。ナナちゃん本当にありがとね~! あとは軽く煮込むだけだから、慎は食器準備しちゃって~。ちょっと早いけどご飯にしちゃいましょ!」


 母さんの指示で食器やら作り置きやらを机に並べていると黒江がずいと顔を寄せて耳打ちするように言った。


「先に言っとくけど、私からひまりさんに頼んで手伝ってるから」


「ん? ああ、ありがとう」


 いつもとシチュエーションが違うからか、近づかれると緊張してしまうからやめて欲しい。いつも同じくらいの距離感でいるのに不思議だ。


「……」


「なんで黙る。何故つつく!?」


「何でもない。今の無し」


 彼女の発言の意図も、機嫌を損ねた理由もよく分からなかった。

 それなりに理解した気になっていたが、やっぱり黒江のことはよく分からない。



* 


 

「「「いただきます」」」


 こうして三人で食卓を囲むことも少し慣れてきた……はずだったのだが、黒江が初日のようにソワソワと落ち着きがない。俺と母さんの方を交互にちらちらと伺っている。

 緊張する彼女の気持ちは痛い程分かる。だが、気を使っても仕方がない。素直な感想をズバッと言ってやろうじゃないか。

 普段より一回り小さく切られた野菜を掬い上げ、横からの視線に気づかないフリをして口へ運んだ。


「んっ、ウマい!」


「うん、美味しい~! 完璧よナナちゃん」


「ほ、ほんとうですか」


「マジマジ。自分で食べてみな」


 黒江は緊張の面持ちで恐る恐る匙を小さな口に運び込む。


「……美味しい。よかった」


 彼女の顔がふわっと綻ぶ。その横顔がなんだか眩しくて、スプーンを忙しく口に運ぶフリをした。


 それからは和やかに、時々雑談をしながら食事は進んだ。

 しかし、そんな平和は母さんが放った一言でいともたやすく崩壊した。


「ところで、そろそろ定期テストの時期よね?」


「め゛」


「うわっ聞いたことない声」


 “忘れていた大事なこと”は中間テストだった。


「最近色々あったから完全に忘れてた……」


「お母さんは何でもいいけど、あんまり酷い成績取るとお父さんの雷落ちるわよ~」


「そんなにヤバいの?」


「毎回補習ギリギリのライン攻めてる」


 一学期は何とか赤点を免れたが、あまりにもギリギリで成績を見た父さんが苦虫を嚙み潰したような顔になったのを思い出す。アレは最愛の一人息子に向ける顔ではなかった。

 これ以上成績は下げられないが、二学期に入ってから各教科内容が難化してきた。課題などは一応熟してはいるが身についているかと言われれば微妙なところだ。

 正直、残り一週間と少しでは厳しいものがある。


「だったら、一緒に勉強する?」


 それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸の如き救いの手だった。

 

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