第9話 メリーポピンズ

 膝を抱えて泣いている村田の真後ろに周り、ヤマガミは何やら準備運動を始めた。ムラカミはその様子を伺いながらヤマガミに訊ねた。


「これからどうするんですか」

 ヤマガミは脇腹を伸ばしながら答えた。

「ん?コイツを崖の下に突き落とす。太ってるし重そうだからちょっと骨が折れるかもな」

 ああ、やっぱり─ムラカミは静かに目を閉じた。飛び下り自殺と聞いたときからそんな予感がしていた。村田はギャンブル好きで娘の入学金をパチンコで使い果たすようなどうしようもない男だったが、そうだとしてもこんな崖の上から突き落とすのは心が痛かった。だがいくらムラカミが嫌がったとてヤマガミは村田を殺すだろう。彼は述べ10万人を葬ってきた熟練の死神なのだから。ムラカミが心の整理をしている間、ヤマガミは首を回しながらこう言った。


「よーし、整ったぞ。さあやりますか」

 そしておもむろに体育座りで座っている村田に近付き、背中を思い切り突き飛ばした。だが村田は転落しなかった。身体がちょっと前後に揺れただけだった。

 ヤマガミはやっきになって村田に両手で押したり飛び蹴りを食らわせたりしたが、村田は尋常でない安定感を見せ、全く転落する気配がなかった。ヤマガミは肩で息をしながらムラカミを振り返ってこう言った。

「しぶとい野郎だ。おいムラカミ、見てないで手伝え」

「すみません」

 ムラカミも加勢して2人がかりで村田を押したり引っ張ったりタックルしたりしたが、村田の身体は依然としてそこにあった。村田はいつの間にか泣くのを止め、胡座をかいて、

「今日は風が強いな」

 と呟いた。


 死神2人は困り果てて互いに顔を見合わせた。

「どうします、ヤマガミさん。全然動きませんよ」

 ヤマガミは忌々しそうに足元を見やって言った。

「座ってるからダメなんだよ。地面が凸凹してるから摩擦がすごくて動かん。立ってくれたらやり易いんだけど」

 2人の会話を知ってか知らずか、村田がふぅーと大きく溜め息をついて呟くように言った。

「やっぱり怖くなってきたし帰ろうかな」

 村田は立ち上がって尻をパンパンとはたいた。

 その瞬間をヤマガミは逃さなかった。

「おらああああっ!!」

 ヤマガミは助走をつけて思い切り村田にタックルをかました。村田はよろめき、崖下へまっ逆さまに落ちていった。数秒の間があり、下の方からドーン!という衝突音が響いてきた。

「ふう、何とか上手く行ったな」

 ヤマガミは立ち上がり、晴れがましい顔でかいてもいない額の汗を腕で拭った。その背中をムラカミは何とも言えない気持ちで見ていた。


「さあ、魂を回収しにいくぞ」

「はい。でもどうやって降りるんですか」

 ムラカミは崖の下を恐々覗き込んだ。足がすくむ程の高さだ。遥か下に米粒くらいの大きさで村田が倒れているのが見えた。

 ヤマガミは何処からか折り畳み傘を出してヤマガミに見せた。

「お前もこれ、持ってるだろ。鞄から出しな」

 そう言われ、ムラカミは鞄を引っ掻き回した。そしてヤマガミが持っているのと同じ、真っ黒な折り畳み傘を発見した。

「これですか」

 ヤマガミは折り畳み傘をバッと開きながら説明した。

「そう。これも死神の七つ道具の1つだ。何の素材で出来ているのかは知らんがやたら頑丈でな。折れないし曲がらないし破けない、雷だって防げる優れものだ」

「へえー」

「これを開いてパラシュート代わりにして降りる。メリーポピンズのようにな」

「メリーポピンズ…?」

 頭上にハテナが飛ぶムラカミに、ヤマガミは驚いてこう言った。

「ディズニーの名作映画だぞ?…まあいい。俺が手本を見せるから真似して降りてこい」

 ヤマガミは傘を手に持ち、そのままひょいっと崖からジャンプした。ムラカミは息を呑んだが、ヤマガミはタンポポの綿毛のようにふわりふわりと舞いながら、ゆっくりと落ちていった。

「ほら、大丈夫だろう?お前も早く来い」

 ヤマガミがこちらを見上げながら促した。ムラカミはもうどうにでもなれという気持ちで、傘を手に崖からジャンプした。

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