17 満ちる
シューが家に戻ると菜月が夕飯の準備をしていた。
「ごめん、菜月、直斗の所に相談に行ってた。」
菜月がちらと彼を見た。
「観測結果の事?」
「うん、まあ。」
会話はそれっきりだ。
テレビの音だけが聞こえている。
そしてシューは先ほどの直斗の言葉を思い出していた。
ド直球だ。
どちらかと言えはシューは何かを聞く時はずばりと聞く方だ。
もたもたしているのが嫌なのだ。
だが何故か今の菜月に聞くのがどうしても出来なかった。
それがどうしてなのか自分でも分からない。
はっきりとした結果が出るのが怖いのだ。
でもこのままではいけない、と彼は思った。
「あのさ、菜月、」
いつもの食後のコーヒーを飲んでいる時だ。
シューは思い切って菜月に声をかけた。
菜月は無言のまま彼を見た。
「あのさ、菜月、最近口をきかないけどどうして?」
菜月は彼をちらと見てすぐにテレビに目を戻した。
テレビでは地方のニュースをやっている。
幸いにも大きな事件は無く他愛のない話だ。
「別になんでもないよ。」
「……なんでもないじゃないよ。」
シューはその態度に少しばかりむっとした。
「僕が何かしたなら謝るよ。」
「何もしてないよ。」
「なら口をきいてくれても良いじゃないか。」
「……だって話す事ないし。」
「話す事ないって、あるよね、いくらでも。
もうすぐ帰るのにこのままじゃ、僕は……、」
シューが怒った声で言った。
テレビではニュースキャスターが笑いながら
原稿を読んでいる。
だが部屋にいる二人の間にはぴりぴりとしたものがあった。
すると菜月が彼をきっと見た。
「帰るんでしょ?ならもう私は用済みじゃない。
観測が終わるんなら。
さよならよ。」
シューの口がぽかんと開く。
「終わりって、ちょっと待ってよ。
終わりは終わりだけど、そうじゃなくて。」
「そうじゃないって何よ。
最初からただの観察対象じゃない。
それ以上の何があるの?」
菜月が強く彼を見た。
彼はぐっと黙り込む。
胸の奥に何かもやもやとしたものが湧いて来た。
それが何なのか彼自身もよく分からなかった。
これがもしシューが生きて来た世界なら、
一瞬で相手に伝わるはずだ。
そして相手が考えている事もすぐに伝わる。
だからシューの世界では気持ちがすれ違う事はない。
だがこの世界は?
自分が今話している言葉は胸の中のもやもやは伝えていない。
菜月にどうしてそんな態度なのかと聞いているだけだ。
彼ははっとする。
肉体と精神で思っている事や考えは違うのだ。
そしてその行動も心と体では違う事がある。
これはこの世界の摂理なのだ。
今自分が感じている事は菜月には言わなければ伝わらないのだ。
シューは深呼吸をした。
「菜月、僕は今この世界がどんなものか結構分かった気がする。」
菜月は彼を見た。
「ちゃんと言うよ。
僕は今、胸の中が物凄くもやもやしている。
それでそれが何なのか考えた。
それは菜月と仲良く出来ないからだと思った。」
「仲良くって……、」
シューは真剣に菜月を見た。
「もしかしたら菜月も胸の中がもやもやしているんじゃないか?
それが何なのか僕は知りたい。」
「……知りたいのは観測対象だから?」
「違う。そんなんじゃない。
僕は菜月が僕の事をどう思っているのか、それが知りたい。」
すると彼女の目にじわりと涙が湧いた。
「じゃあ、シューは私の事をどう思っているのよ。」
怒った声だ。
シューは少し俯く。
「……あの、僕は忘れたくない。」
「忘れたくない?」
シューが菜月を見た。
「最近菜月を思うと胸がドキドキする。
鼓動が早くなるんだ。
病気でもないのに体がかっと熱くなる。
体の機能がおかしいのかもしれない。」
それを聞いて菜月の顔がぽかんとなる。
「家に一人でいるとなんか足りないんだ。
菜月が帰って来ると思うと嬉しくなる。
一緒にご飯を食べてコーヒーを飲むのも好きだ。
変な話をして笑ったりしたい。
菜月と仲良く出来ないのは辛い……、」
シューはそこまで言うと俯いた。
しばらくすると菜月の目に涙が湧いて零れた。
それにシューは気が付いたのか顔を上げた。
「あの、よく分からないけど
僕が何かしたのなら謝るよ、ごめん。
前みたいに菜月と喋りたい。」
菜月はしばらく俯いていたが、顔を上げて首を振った。
「シュー……、シューは言っていたよね、
人は心で思っている事と体は違う事をするって。」
「……うん、」
菜月が涙を拭った。
「ちゃんと言わないと分からないって。
その通りだと今思った。」
菜月がシューを見た。
「……私、シューがいなくなったら淋しくなると思った。」
「淋しい?」
「自分の世界に帰るんでしょ?
そうしたらまた私は一人になるじゃない。
それならいつまでもシューにこだわっていたら辛くなる。
だから口をききたくなかったの。
いなくなるなら早めに忘れたいと思ったの。」
シューと同居し始めて一年ぐらいになる。
彼は菜月の許可もなく突然やって来た押しかけの同居人だ。
最初は訳の分からない彼に振り回されたが、
今ではいるのが当たり前になっていた。
だがその彼は自分の世界に戻るという。
最初から別の世界の人であることは知っていた。
いつの間にか彼女はそんな事は忘れてしまっていた。
だがその彼は姿を消す。
それを考えると元カレがいなくなった時より
彼女には遥かに辛かったのだ。
「菜月、確かに一度僕の世界に行く。
でもこちらにまた戻ってくるつもりなんだ。」
それを聞いて菜月が顔を上げた。
「えっ?」
「色々考えたんだ。
それでさっき直斗とも話した。
直斗は言ったんだ。ここに戻って菜月と暮らすかって。」
「それって……、」
「今はっきり決めた。
一度自分の世界に行くけどまた絶対に戻るよ。菜月がいるから。」
菜月の目から涙がぽろぽろと流れると
その頬にそっとシューが触れた。
「それは観測で?」
シューが微笑む。
「違う。菜月が泣いているから。」
シューは菜月に近づいて彼女の顔に自分の顔を寄せた。
「どうしてこの星に来た人が地球人になりたがる理由が
僕ははっきり分かった。
直斗が地球人になったのも。」
シューはそっと彼女の体を引き寄せ、
菜月の耳元でシューが囁いた。
「直斗と茜がよくしている。
どうしてそんな事をしているのか分からなかったけど
今僕もすごくしたくなった。」
菜月が間近でシューを見た。
彼の目は優しい。
そしてゆっくりと彼の顔が近づき菜月は目を閉じた。
彼女は唇に柔らかいものがそっと触れるのを感じた。
菜月の心臓が早くなる。
そしてそれは離れた。
「……シュー、」
「ドキドキはこう言う事なんだ。僕は今すごくどきどきしてる。
そして嬉しい。」
菜月は彼の頬に手を触れた。
「シューはあっちに行ってもまた戻って来るんだよね。」
「うん。菜月と離れたくない。」
「それって私が好きってこと?」
シューが微笑む。
「当たり前だよ。」
その顔ははっきりとしていた。
最初の頃の子どもっぽい好きとは違うものに彼女は感じた。
「シュー……、」
彼女は彼にそっと口づけた。
そして少しばかり深いキスをする。
「菜月……、」
「シュー、私もシューが好き。
絶対に離れたくない。
ずっとこうしたかった。
だから大好きな人としかしない事をシューとするの。」
それはどう言う事なのか、シューにはよく分からなかった。
ただ体の奥底から何か熱いものが湧いて来る。
そして心が何かに囚われたように菜月に全てが向いていた。
それは今まで感じたことがないものだった。
ただ言葉で好きと言うだけではない何かだ。
今まで見つけられなかった彼が求めていた真実を
ここで見つけた気がした。
自分の中に足りなかったものはここにあったのだ。
菜月はどう思っているのか分からない。
だがそれは菜月も同じように感じているとシューは思った。
そこにたどり着くものをシューはなぜか分かっていた。
以前菜月に教えてもらったからではない。
生き物として生き続ける本能が知っているものだ。
そこには理性も何もない。
高め合うものに心と体が持って行かれた。
菜月の手が彼を誘う。
そしてそれをシューは知っていたのだ。
深い深い所で菜月とシューは抱き合い登っていく。
それは離れがたい何か、
別れがたい何か、
どこかで定められた約束のようなものだった。
二人は何度も確かめ合った。
そしてお互いに抱き合いその体を手でなぞった。
「……菜月、」
シューが囁くと菜月が顔を上げその唇が赤く彼を誘った。
彼はそっと口づけた。
「これが愛し合うと言う事なんだね。」
菜月が彼の胸に顔を寄せた。
「そうよ。本当に好きな人としかしないの。」
それは満ち足りた言葉だ。
心も体もしっかりとお互いの印が残り、
忘れることはないのだ。
「菜月の、地球人の愛は二重構造なんだ。」
「二重構造?」
「心と体が一緒になって結ばれるんだ。
それは心だけ体だけじゃ見つからないものなんだよ。
二つが一緒になって初めて本当が分かるんだ。」
それは研究者としてのシューの言葉だ。
理論で固めた言葉かもしれない。
だが菜月にはそれは真実に思えた。
「だからそれを見つけた直斗やこちらで生きる事を
選んだ人はそれを知ったんだ。」
菜月は顔を上げた。
「シューは見つけたの?」
彼はにっこりと笑った。
「うん、菜月だ。
だから僕は絶対に戻って来る。」
菜月の目に涙が浮かんだ。
それをシューがそっと触れる。
「もう分かるよ、これは嬉しいからだ。」
「そう、そうよ。その通りよ。」
「心が溢れているんだ。」
二人はまた深く口づけた。
「何度か菜月の裸を見たけどやっぱり綺麗だ。」
とシューが照れくさそうに言った。
確かに今まで彼に恥ずかしい姿は見られた事はあったが、
いつもシューは笑ってすぐに背を向けて行ってしまった。
それを菜月は見て彼は特に意識はしていないと思っていた。
「全然気にしていなかったんじゃないの?」
「……いやその、見るたびにドキドキしてた。
なんか見たくて仕方なかったけど我慢してた。
それに見たら菜月が嫌がると思って。」
「そ、そうなの?いつもすぐ行ってしまったから
そんなものかと思ってた。」
シューが首を振る。
「見ると体が熱くなってその、歩きにくくなった。」
菜月がしばらくぽかんとした顔でシューを見て
くすくすと笑い出した。
「どうしてそうなったか今は分かる?」
「うん、分かった。それが儀式の準備なんだ。
そう言うのって教えられなくても体や心が知っているって事かな。」
菜月が彼の顔に触れた。
「多分そう。
肉体のある生き物はそうしないと子孫が残せないよって
体が教えてくれてるのよ。
人には色々な役目があるからそれが全てではないけど、
子どもを残すのも生き物としての一つの仕事なのかも。」
ショーが菜月を見る。
そして彼女の唇にふっと触れた。
「ねえ、菜月、もう一回したい。」
「えっ、」
「僕は明日戻って報告するよ。そしてなるべく早く帰って来る。」
「本当?」
「うん。」
ショーは菜月を仰向けにする。
そして彼女を見下ろした。
「菜月をずっと見ていたい。
しばらく会えないから忘れないようにしたい。
菜月が教えてくれたことは
とても大事なものだと僕は思った。」
菜月はそれを聞いて彼の首筋に腕を伸ばした。
シューは滑らかな菜月の肌を感じつつ、
このような感情がこの世にあるとはと信じられない気がしていた。
翌朝早く菜月はシューが起きる気配で目が覚めた。
「おはよう。」
ショーは菜月にそっと口づけた。
菜月は彼の頭に触れる。
「傷は痛くない?」
そこには彼が負った傷があった。
抜糸はもう済んでいて傷は塞がっている。
だが少しばかりまだ赤い。
「痛くないよ、でもここはもう毛は生えないから禿げるって。」
菜月はふふと笑う。
「探さないと分からないわよ。
それにこれはとても大事だから。」
「思い出の傷?」
「そう。体が覚えている記憶よ。私も絶対に忘れないわ。
シューが私を助けてくれたんだから。」
「体も記憶するんだね。」
菜月が彼の傷を撫でた。
「シュー、行ってらっしゃい。
そして色々と報告して来てね。
私はどちらの世界が良いって分からないけど、
シューはこっちが良いと言ったから、
私はこの星に生まれて良かったと思うよ。」
シューは彼女の額に口づけた。
「ありがとう、菜月。
最初に菜月と目が合った時からこの人だってずっと思ってた。
僕の勘は当たっていたよ。
だから帰るまで待っていてね。」
菜月は頷く。
「でもちょっと問題があってさ。」
「問題?」
「うん、過去に僕が菜月を何度か助けただろ?
あれが少しばかり歴史を変えてしまったんじゃないかって。」
菜月の顔が真顔になる。
「それ、まずいんじゃないの?大丈夫なの?」
シューが少しばかり焦った顔になった。
「あー、そんなに心配しなくて良いと思うよ。
確かに干渉したけど時間って案外と
フレキシブルだからさ、ちゃんと修正出来るし。」
「私のせいだよね……、」
菜月が暗い顔になった。
「違うよ。僕が菜月を助けたんだ。
菜月がひどい目に遭っているのに僕が黙って見ていると思う?
菜月に何かあったら僕は自分が許せない。
何があっても菜月を守る。」
シューは菜月を見た。
「だから菜月は心配しないで。じゃあ行ってくる。」
と言うと彼は立ち上がった。
そしてふっと光に変わり静かに消えた。
しばらく菜月はそこを見ていた。
彼はただ出かけたのだ。
そして帰ると言った。
少し前に直斗が出張に出かけたようなものだ。
それは分かっている。
だが菜月の心には淋しさが湧いて来た。
たった一人になるのがどんなに淋しいのか
彼女は知っていた。
昨夜二人は初めて身も心も通じ合った。
二人は満ちたのだ。
なのにこの寂しさは何だろう。
そして彼がさっき言った過去に自分を助けた事が
菜月には覚えはないがなにかしらの枷になるのではと
考えると気が重くなった。
それをどうにかしたくても今の自分には何も出来ない。
彼女は歯がゆさを感じ、
胸には重いものが湧き上がって来た。
涙が零れて彼女はひとしきり泣いた。
そして起き上がる。
確かに今は悲しくてどうしようもない。
だが以前の何もしない男とシューは全く違う。
シューは帰ると言ったのだ。
そして彼は大丈夫と言った。
それを信じてシューを待とう。
前の彼はいなくなったがシューは帰って来る。
菜月は涙を拭うと会社に行くために準備を始めた。
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