8 母
「最近天塚さんの様子は前と違って来たな。」
菜月の上司が呟いた。
「そうですね。」
「前はぴりぴりした所があったが、余裕が出て来たと言うか。
後輩の面倒もよく見ているようだな。」
上司が腕組みをする。
「新しいプロジェクトに彼女を加えても良いんじゃないか?」
「そうですね、もうベテランですし。」
「打診してみるか。」
その日、菜月はご機嫌で帰って来た。
シューは既に帰宅していたので夕飯の準備をしている。
「ただいま。」
「ああ、おかえり。」
「良い匂い、牛肉とごぼう?」
「そうだよ、牛肉とごぼうの甘辛炒め。
糸こんにゃくも入れたよ。」
「好きなおかずだわ。ありがとう、シュー。」
シューはおかずを温めながらちらと菜月を見た。
いつもと声の調子が違うからだ。少しばかり浮かれた感じだ。
「なんか良い事あったの?」
菜月がシューにあの店のケーキボックスを見せた。
「えっ、どうしたの?」
「お祝い。新しいプロジェクトに参加が決まったの。」
菜月がにこにことシューを見た。
「えっ、凄い良い事なの?」
「そうよ、そこで指導とスケジュール調整をするの。
大したことはないかもしれないけど、選ばれたのが嬉しくて。」
菜月がボックスを開けるとシュークリームが入っていた。
「あっ、シュークリームだ。」
「好きでしょ。
今日はいちごが入ったものとスワンのよ。」
「ああ、良いな、スワンの好きだ。」
「でしょ。前祝よ、ご飯の後で食べよう。」
「うん、楽しみだなあ。」
シューが嬉しそうに笑って菜月も彼の手伝いで茶碗を並べた。
仕事で嬉しい事があった、帰宅すればご飯の用意がある、
部屋が暖かく、そこにお土産を持って行けば喜ぶ人がいる。
土産を買う時には相手が喜ぶものを考えながら選ぶ。
それは人から見れば大した話ではない。
小さな出来事だ。
だが菜月はそんな小さな事もずっと忘れていた。
それを気付かせてくれたのはシューだ。
押しかけの同居人だが、今では大事な人となっていた。
「菜月は平安の時にそこに来る人の教育をしていたから、
指導とか向いていると思うよ。」
とシューはにこにことして菜月を見た。
それは菜月は知らない話だ。
それでもそう言われると彼女は嬉しくなった。
「シューもどうなの、仕事は。」
「茜の親父さんの工場だからね、気は楽だよ。
それにボクは営業で人と話す仕事だから
ある意味ボクの調査にも役に立つ。人は面白いよ。」
彼はにこにこと話す。
元々人と触れ合うのが好きな性質だ。
茜からも聞いたが彼女の父親は
ちょっと変わっているが憎めない奴、と言っていたらしい。
「そう、良かったわね。」
「ねえ、菜月、シュークリーム食べようよ。」
「洗い物をしたらね。」
「ボク、コーヒーを淹れるよ。」
「うん、今日はシューが作ってくれたから、私が洗うよ。」
「よろしく。」
何となくうまく行っているのだ。
元々菜月は人付き合いが下手なのは自覚していた。
だがシューと同居し始めると
それなりに立ち回れるようになった気がしていた。
それが今回の会社での評価に繋がったのかもしれない。
食後の仕事を済ませて二人でのんびりとコーヒーを飲んでいた時だ。
シューは嬉しそうにシュークリームを頬張っている。
菜月のスマホに着信があった。
番号は標示されたが登録されていないものだったのだろう。
彼女はそれには出なかった。
だが留守電に何かが入ったらしい。
「ちょっとごめん。」
と菜月が席を立ち、部屋の隅に行って留守電を聞いた。
そしてその顔色が変わる。
彼女は慌ててその番号を登録していた。
「菜月、どうしたの?」
何かを感じたのかシューが彼女に言うと菜月は慌てて手を振った。
「あ、ううん、何ともないよ。」
彼女の顔色はあまり良くない。
その時再び電話がかかって来た。
その画面がちらとシューに見えた。
そこには『××』とあった。
名前でなく記号の「バツ」なのだ。
翌朝、シューは食事の用意をしつつ菜月の様子を伺った。
昨日電話があってから菜月は無口になった。
そして画面の『××』だ。
人の名前にそんな否定的な文字を使うだろうか。
あの後菜月は留守電を聞き、大きなため息をついた。
「おはよう……。」
菜月が起きて来た。
「菜月、おはよう。」
やはりどことなく元気がない。
彼女はテーブルにつくと少しため息をついた。
「菜月。」
シューが彼女を見た。
まっすぐな目だ。
「昨日電話があってから変だけど何かあった?」
ド直球の質問だ。
菜月が少し気後れしたような顔になった。
「何もないわよ。」
「そんな訳ないだろ。
呼び出しの名前もバツバツだったじゃないか。
嫌な人からの電話じゃないか?
良い人ならそんな名前は付けないもん。」
鋭いシューの言葉だ。
菜月は少しむっとする。
「シューには関係ないわよ。」
「菜月が嫌な思いをしているんなら関係ある。」
「どうせ、私が観測対象だからでしょ。」
すると彼の顔が変わった。少し怒っているようだ。
「観測なんて関係ないよ。
菜月に嫌な事をする人は許せない。」
「関係ないの?」
「当たり前だよ、
昨日はいい気分だったのに、電話で気分が変わったよ。
菜月もそうだろ?
でもこう言う事は早く解決しないとだめなんだ。
ボクにも話して欲しい。」
彼女は少し驚いた。
ついこの前まで子どものような感じだったのに
彼はよく分かっているのだ。
菜月は不思議な気がした。
菜月は大きくため息をつくと決心したようにシューを見た。
「……、あの、母なの。」
「お母さん?お母さんって菜月を産んだ人だろ?
人はそうやって増えるんだよね。」
「そうなんだけど……。」
「人の親子って愛情で結ばれているんだよね。
その愛情はボクも分かるよ。
精神世界でもとても大事なものだよ。
なのにその人の名前がバツ、って……。」
菜月の顔が暗くなる。
「色々あったのよ。」
彼女は時間を見る。
「あの、ご飯を食べない?会社に行かないといけないし。」
「あ、そうだね。」
二人は慌てて食事を始めた。
そしてちらと菜月がシューを見る。
「今日帰ったら話を聞いてくれる?」
彼は彼女を見て少し笑った。
「うん、悩みがあるなら話して欲しい。」
菜月は頷くと二人は急いで食事を済ませ家を出た。
その時、菜月がシューを見た。
「ありがとう。」
「え、なに?」
シューが不思議そうな顔をすると菜月が笑った。
「聞いてくれると言ってくれただけで
少し気が楽になったの。だからありがとう。」
「……そんなものなの?」
「だから今日一日頑張れる。」
「よく分かんないけどそれなら良かった。」
シューがにっこりと笑う。
「じゃあ、菜月、行ってらっしゃい。」
「早く帰った方が晩御飯ね、
それで作らなかった方が後片付けとお風呂ね。」
「了解。」
二人はそれぞれの職場へと向かう。
菜月の心には少しばかり重いものがある。
スマホには夜中にかかって来た着信の履歴が沢山残っていたのだ。
多分今日も何度も電話はかかって来るだろう。
だがそれを聞いてくれる人がいるだけで心が軽くなるのだ。
そしてこの前までこちらが大人の様に彼に接していたが、
今日はシューが大人のようだった。
信頼できる何かを彼女はシューに感じた。
いつの間にか自分が彼を頼っていたのだ。
その日の夕方、シューが晩御飯を作っていた。
「ごめん、やっぱり遅くなっちゃった。忙しくて。」
「良いよ、その代わり後片付けとお風呂だよ。」
「うん、分かってる。」
二人は早めに色々な事を済ませ、
テーブルにつくと菜月がスマホを出した。
そして着信画面を見せる。
「50件!」
シューがそれを見て驚いた。
「今日の昼間に?」
「ええ、留守電も沢山入ってる。」
彼女が再生する。
『菜月、元気にしてるかい、母さんだけど、困った事になってね。
連絡してくれるかい。』
優しげな声だ。
だがそれを聞いて彼女の顔が厳しくなる。
「要するにお金の話よ。」
「お金……。」
「誰からこの番号を聞いたのか分からないけど、
前はしょっちゅうお金の無心をされたのよ。」
それは10年程前の話だ。
菜月は母と妹の三人で古い家に住んでいた。
「あの糞じじい、連絡も寄越しもしない。」
妹ががんとタンスを蹴った。
「腹立つよな、親戚に聞いたけど誰も言いやしないし。
おい、菜月、糞おやじどこにいるか知らねぇか。」
父親は半年ほど前から家に帰って来なかった。
行先も分からない。
菜月がテーブルについてぼそぼそと食事をしていると
母親がその椅子を蹴った。
「し、知らないわよ……、」
「そんな女、役に立つわけねーよ。金稼ぐだけだもんなあ。」
と菜月がびくびくした様子で返事をすると
妹がげらげらと笑った。
「お前、長女なんだからしっかりしねぇとだめだろ。
親に楽させるのが子どもの役目だろ、妹の面倒も見ねぇとなあ。
産んでやったんだからちゃんと返せよ。」
と母親が菜月の頭を何発も強くはたいた。
彼女の扱いは昔からそうだった。
母親は妹ばかり可愛がっていた。
父親は菜月をかばう事なく、
母親がヒステリーを起すと家からそっと出て行った。
そうなると標的は菜月だ。
妹が生まれるとますますひどくなった。
そして妹も成長すると菜月を馬鹿にし出す。
おもちゃは妹のものばかり母は買った。
服も自分の物は人から貰った物やリサイクル品だ。
妹は新品の服を着ていた。
中学生の制服も人のおさがりだったが、妹は新品だ。
さすがに高校の時は制服を買ってもらったが、
卒業までずっと
「誰のおかげで高校に通っていられるんだ。金食い虫め。」
と毎日言われた。
菜月は中学の成績はとても良かった。
なのでレベルの高い高校に行けるはずだったが、
徒歩で通える公立学校に行かされた。
そして妹は私立の高校だ。
それでも初めて新品の制服を彼女は買ってもらえたのだ。
嬉しくて仕方がなかった。
だが卒業した途端それは捨てられた。
妹は高校二年生で中退してしまった。
その後彼女は働き出す。
進学など母親は許さなかった。
その頃父親が家を出てしまった。
どこに行ったのか分からない。
父親にすれば菜月が働き出したのだ。
自分にはもう責任はないと思ったのかもしれない。
彼女の肩にどっかりと母と妹が寄りかかって来た。
2年近くは無我夢中で働いた。
給料は殆ど二人に取られてごくわずか手元に残るだけだ。
それが当たり前だと思っていたが、ある時彼女ははっと思った。
これはおかしな話だ。
なぜ自分がこの二人を支えなくてはいけないのか。
母からは毎日のように
「お前なんか産まなきゃ良かった、堕ろせば良かった。」
と子どもの時から聞かされていた。
それが続くといつの間にか洗脳されているのだろう。
疑う事も無く日々は過ぎていた。
だが源泉徴収書の自分の年収を見た時に彼女は思った。
その収入のほとんどを母と妹が使ったのだ。
その異常さに初めて気が付いた。
その日から彼女は行動を起こした。
新しい職場を探した。そして住居だ。
実は父親がいなくなる前にそっとある程度のお金をもらっていた。
それがせめてもの彼の良心だったのだろう。
そして新しい職場が決まり、転職をした。
とりあえずウィークリーマンションを借りて何も言わず家を出た。
家には荷物などほとんどない。
二人はしばらく気が付かなかっただろう。
新しい職場は母や妹は知らなかった。
ウィークリーマンションもひと月で2回居場所を変えた。
その頃スマホも全て解約をした。
自分と母と妹の三台は全て自分名義だった。
海に落としてしまってと言い訳をして、
自分だけのスマホを新しく契約をした。
後の二台はどうなったか分からないが
突然使えなくなったので驚いただろうが、もう菜月には関係ない。
銀行にも新しい口座を開いた。
そしてある程度時間が経った時に安いアパートを探して引っ越した。
それから彼女は必死に働いた。
今度は収入は全て自分の物だ。
節約をして残業も厭わずコツコツとお金を貯めた。
そして中古だがやっと自分のマンションを手に入れたのだ。
そこまで来るのに10年近くかかった。
まだローンは残っているがそれも間もなく返済できるだろう。
今では母や妹がどうしているのか分からなかった。
家の近くにも行った事はない。
「それでどうして菜月に電話が来たの?」
菜月が難しい顔をする。
「一年ぐらい前に叔母と偶然会ったのよ。
私は嫌だったけど連絡先を教えてと言われて仕方なく。
当然母には教えないでと言ったんだけど。
私がどう言う扱いをされていたから知っていたから。
でも多分それだと思う。」
その時だ。
電話がかかって来る。
『××』だ。
菜月の顔色が変わる。
シューは彼女を見た。二人の目が合う。
「どうする、菜月。」
菜月はじっとスマホを見た。
やがて電話は留守電に変わる。
「菜月、色々な方法がある。」
シューが静かに言い出した。
「この電話を無視して明日にでも電話番号を変えてもいい。
そうすればもう二度とかかって来ない。
それとも電話に出て話をして事情を聴く事も出来る。」
菜月は迷った。
本当は無視したい。
自分の心から無責任な父親と乱暴な母親、生意気な妹を消してしまいたい。
だがそれは自分の記憶から消えることはないだろう。
そこに自分が生まれたのだから。
いつまでも付き纏う過去だ。
そしてまた電話がかかって来た。
菜月がつばを飲んだ。
「シュー、一緒に話を聞いてくれる?」
シューは真剣な顔で彼女を見て頷いた。
菜月が少しばかり震える手でスマホに触りスピーカーにした。
『菜月、やっと出た。』
母の声だ。
妙に嬉し気な声だった。
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