2 去る男




スマホの目覚ましが鳴った。


その瞬間 菜月なつきはそれを止める。

スマホで起こされた事は殆どない。

それでも心配なので毎日目覚ましはセットをするのだ。

休みの日でも目が覚めてしまう。

一緒に住む彼は休みの日ぐらいは寝かせろよと言っていたが、


「休みでなくても寝ていたでしょ。

ただのヒモのくせに。」


そんな男は二、三日帰って来ない時があった。

留守をしていても知らん顔をして帰って来る。

そして今も家にはいない。


菜月が住んでいるマンションは彼女が必死にお金を貯めて買った物だ。

表札も彼女の苗字、天塚あまつかとある。

元々結婚なんて自分は出来ないと思っていた。

自分の親は今で言う毒親だ。

頼れはしない。

生活は自分でどうにかしないといけないと言う気持ちもあって

マンションを買ったのだ。

親を見ていたら結婚なんて全く希望が持てなくなった。


結婚はただの地獄の始まりだ。

彼女はそこで生まれて、そこから逃げて来たのだ。


だから社会人になって自分でお金を得るようになってから、

コツコツと貯金をして中古だがここを買った。

その時、さすがに気が緩んだのだろう。

妙な男に引っかかって彼はこのマンションに転がり込んできたのだ。


菜月はそろそろ30歳になる頃だった。

たまたま行った飲み屋で話が弾んだ男だ。

そしてそのままずるずると。


最初の一月ほどは彼も仕事に行っていたが、

それはただのふりだった。


そのうち家にゴロゴロと寝てばかりでずっといるようになり、

何もしなくなった。

最初は我慢していた。

何しろ初めての男だったからだ。

彼女にはその彼が生まれて初めて付き合った人なのだ。


異性と付き合った経験がないので

おかしいと感じながら最初はそんなものだろうかと思った。

だがさすがに半年も経つと経済的に苦しくなる。

まだマンションのローンは残っていた。

夜になると金をせびって男は出て行くのだ。


その頃には別れたくて仕方がなかったが、

彼は暴力を振るうのだ。

そしてその後異様に優しくなる。


そのような男にありがちな態度だ。

それでずるずると生活はしていたが、

その日、菜月は発熱して体の調子が悪くなった。

会社に事情を話して早退し、

ふらふらしながらバスから降りた。


昼間だ。太陽を見るとその近くに月がある。


これから満月に向かう月だ。

時期によっては昼でも月が見える。

上弦の月の少し前だ。青空に白く浮かんでいる。


以前ベランダで洗濯物を干している時に月が出ていた。

それを彼女は見上げる。

青空に白い月だ。

輝きはないが、それはそれで美しい。


「月が出てるよ。」


それを部屋にいるあの男に言った。

だがその彼はふうんと興味がなくすぐにゲームを始めた。

菜月はちらりと彼を見たが小さくため息をついて洗濯物を干し始めた。


しばらくすると彼は立ち上がり、

菜月の鞄から財布を出して札をみんな抜いた。


「ちょっと、止めてよ。」

「うるせえ。」


彼はじろりと菜月を睨んで家を出て行った。

それはいつだったか。


ぼんやりとした頭でそんな事を思い出しながら家に入ると、

大きな音楽が流れて玄関に彼の靴と自分の物ではない女の靴があった。

心のどこかでこれはいけない事だと警戒音が鳴る。


彼女の中で何かがぷつんと切れた気がした。


彼女はぼーっとした頭でスマホのカメラを起動した。

そして寝室に行くとベッドの上で彼と知らない女が睦合っていた。


二人は夢中だ。

音楽で玄関が開くのに気が付かなかったのだろう。


その横で菜月は写真と動画を撮る。


それに気が付いた二人が裸のままあっけにとられて彼女を見たが、

菜月はその辺りに落ちている二人の服をさっと拾って

玄関に行くと靴も持ち、廊下から下に落とした。


ここは5階だ。

落ちた音がすぐに聞こえた。


「お前、何すんだよ!」


男は怒ったが寝室に戻って来た菜月が

女の髪を掴むと引っ張って玄関から放り出した。

火事場の馬鹿力だ。

当然彼女は裸だ。


そして菜月は無言のまま男を見る。

彼女は目が座り顔は真っ白だった。


「ちょっと!助けなさいよ!」


と廊下で女が叫ぶ。


男は菜月と玄関側を素早く何度も見て、

青い顔になり無言で立ち上がった。

腰にタオルケットを巻いていたので菜月がそれを取り上げた。


「……お、ま、」


怒った声で彼女を見たが、

菜月の表情でますます青い顔になる。


彼は裸のまま外へ出た。

先程菜月が服を外に放り出したのだ。

それが目当てだろう。


菜月は二人が出て行くとすぐに鍵をかけた。

すると慌てたように外からどんどんと激しく叩かれた。


菜月がベッド辺りを見ると男のスマホや女のバッグがあった。

女のバックはブランド物だ。

菜月はそんなものは一つも持っていない。


しばらくすると外が静かになる。


菜月がドアスコープを見ると

女が廊下にうずくまっていて男の姿がない。

多分下に服を取りに行ったのだろう。


菜月はドアを開けて男のスマホと鞄を持って外に出ると

それを見た女が怯えた顔をした。

その胸元にキスマークがいくつかついている。

あの男はそうやって他の男の元に行かないよう女に印をつけるのだ。


彼女は廊下から男のスマホを投げ落とした。

そして女のバックの中身を開けてひっくり返した。

化粧ポーチや財布、ぎらぎら光るクリスタルのストラップが付いたスマホが

ざらざらと鞄から出て来て下に落ちカンカンと硬い音がした。


女の顔を見ながら菜月は無言で空になったブランドバッグを

ぽいと下に捨てた。

女は座ったまま顔をこわばらせている。


菜月は家に入り鍵を閉めた。

男は鍵は持っていない。

ベッドの横の棚の上に男にねだられて買った

ブランドの大きなシルバーのキーホルダーが置いてあった。

だから家には入れないはずだ。

そう思った時に彼女は廊下でばったりと倒れた。




その後彼女が気が付くと病院にいた。

ふと窓を見ると夜だ。

自分の腕には点滴がついている。


「大丈夫?」


と菜月を覗き込む人がいる。


「……大川おおかわさん。」


大川と呼ばれた女性は菜月と同じ年頃だ。

ベッドの横に座っていたようだ。


「良かった、気が付いた。」


大川は菜月の隣に住む夫婦の妻だ。

何度か顔を合わせて挨拶はしたことはあった。

だがそれほど深い付き合いではない。


「大川さん、なんで……、」

「なんでって、付き添ったんだよ。

あ、起きなくていいよ、そのままで。」

「あの、私は……、」


大川は彼女を見た。


「部屋で倒れていたんだよ。

それでわたしは付き添いで来たの。それは昼の話。

救急車で運ばれたんだよ。」

「あ、す、すみません……。」


菜月は彼女に迷惑をかけたのだ。

申し訳ない気持ちが心に広がった。


「と言うか、その前に何かあったでしょ?」


菜月ははっとする。


「あ、ありました……。」

「スコープから見てたよ。

彼氏が女の人を連れ込んでいたよね。」

「……はい。」


大川が難しい顔をする。


天塚あまつかさんに言って良いのかどうか迷っていたんだけど、

実は結構前からそんな感じだったよ。」

「そ、そうなんですか。」

「それにあの人ね、わたしにも声をかけたよ。

だから裸で二人が出て来たけど助ける気はなかったよ。」


菜月はぎょっとした。


「あ、あ、すみません、バカで。」


大川が少し怒った顔になった。


「天塚さんは悪くない。謝らなくて良い。

天塚さんが付き合っている人の悪口を言ってはだめだけど、

悪いのはあいつ。

碌な男じゃない。」


彼女は腕組みをして菜月を見た。

大川は菜月に怒っている訳ではない。

だがその言葉は菜月を叱っている感じだった。

価値のない男にいつまでも執着している自分に。


菜月の眼にじわりと涙が湧いた。


「ごめん、ちょっと言い過ぎた。」


それを見て大川が慌て出した。


「いえ、良いんです。

なんかそう言われて頭がはっきりしました。

ありがとう。」


それを聞いて少し大川が笑った。


「なら良いけど。

でもあの騒ぎは凄かったね。

天塚さんに何かあれば外に出たけど、

部屋に戻ったのは見たから放っておいた。

二人は1時間ぐらい扉の外で騒いでたよ。」

「そうなんですか。

廊下から物を捨てたのは覚えているんだけど。」

「多分その後に倒れたんだね。

鍵を開けてもらうために管理会社の人が来た時に

わたしは廊下に出て説明したの。その流れで付き添ったよ。」

「ご迷惑をかけてすみません。」

「良いよ、運ばれたのが昼頃で今は午後6時だから

半日ぐらい寝てたね。

入院手続きはわたしがしたから。でも入院費は自分で払ってね。」


彼女は笑いながら菜月を見た。


「それは当たり前です。

でも本当に迷惑をかけちゃって……、」

「わたしもびっくりしたけどこんな事もあるよね。

それで後は自分で出来る?」

「はい。」

「一応わたしの番号も教えておくね。何かあったら連絡して。」


と彼女がメモを取り出した。


「で、天塚さんの鞄だけど、」


と彼女が小さな鍵を出し

テレビの下の金庫を開け鞄を出した。


「管理会社の人に鍵を開けてもらった時に

少し家に入った。ごめん。天塚さんのそばに鞄があったから

それもそのまま持って来た。

スマホも入っていると思う。」


菜月が中を見るといつもの物が鞄に入っていた。

男からスマホに連絡がある気がしたが

投げ落としたので壊れたのだろう。何もなかった。


「色々と触ってごめん。」

「いえ、とんでもないです。

こちらが物凄く迷惑をかけたんで……。」


菜月が手を振る。そしてしばらく俯いてから顔を上げた。


「あの、迷惑ついでに色々とお願いして良いですか。」


菜月ははっきりした顔になった。

大川がはっとして彼女を見た。


「退院まで自宅をお願いして良いですか?」

「家?」

「多分あいつはまた来ると思うんです。

鍵は持っていないと思いますが、

私が退院するまで様子を見ていてくれるとありがたいです。」


彼女は大川に鍵を差し出して頭を下げた。

菜月は彼女とは挨拶ぐらいの間柄だ。

だが話をする限りは信用出来る人のような気がした。

それを見て大川がにやりと笑った。


「良いよ。顔がしっかりして来たね。」

「はい、よろしくお願いします。本当に申し訳ありません。」


そして菜月は彼女を見た。


「でもそんなに親しくない私にここまで親切にして頂けるなんて……。」


大川が笑って鍵をぶらぶらさせて彼女を見た。


「そんなに親しくないわたしに鍵を渡すってのも

なかなか勇気がいるよね。」


菜月ははっとする。


「その、なんか信用出来る気がして……。」


大川はにやにやと笑った。


「いやー、なんか頼られて嬉しいと言うか。

まあ旦那とシューに頼まれたんだよ。

天塚さんが倒れていたのを見つけたのはシューだよ。

それに天塚さんはわたしと一緒だと思うよ。」


菜月は大川の夫を思い出す。背の高い優しそうな男だ。


新婚夫婦の様で仲が良い。

菜月が出勤する時にたまに玄関先で会う。

ちょうど夫が出勤するのだろう。

その時二人はお出かけのキスをするのだ。

それを何度か見た。


菜月は思わずはっとして謝り、

二人は少しばかり恥ずかしかって挨拶をする。


まだ若い夫婦だ。

菜月自身は結婚に希望はないが、彼らは良い結婚生活なのだろう。


それはそれで良いのだが、実は彼女は大川の夫が怖かった。


彼の後ろにいつも何かが見えるのだ。

人影のような光るものが。

そして時々顔が見える。


その顔は彼と同じぐらいの年齢の男性で

なかなか端正な顔をしている。


だがそれは現実にいる人ではない。

彼女にはいわゆる霊的なもの、

俗にいう守護霊のようなものに見えたのだ。


そして菜月は子どもの頃からまれにそのようなものを見た。


だから二人の仲睦まじい様子は

本当はほのぼのとしたものなのだろう。

だが菜月にはぞわぞわとしか感じなかった。

その夫が自分の面倒を見ろと言ったらしい。

しかも大川は菜月を自分と一緒だと言ったのだ。


そしてシューとは。


菜月はきょとんとした顔になった。


「信用にお答えするように頑張るよ。

わたしは大川 あかねだよ、旦那は直斗なおと。」


茜は手を差し出した。


「私は菜月です、天塚菜月。」

「もう半年も隣同士なのに自己紹介って変だね。」


と菜月は手を握り返した。




菜月は2日ほどすると退院した。


『とりあえずしっかり休めよ。』


と職場に電話をするとそう言われた。

多分入社して初めて取った長期の休みだろう。

病院からは診断書を貰った。


そして入院中色々考えているうちに

今まで悩んでいた事がどうでも良くなった。

男の事だ。


「ともかく茜さんには本当にお世話になったから、

お礼しないと。」


帰り道に彼女は近所のケーキ屋に寄り、焼菓子を買った。

少しばかり有名な美味しい店だ。


そしてマンションに戻った時だ。

エレベーターに乗ると元カレがどこから来たのか

飛び乗って来た。


「おい、お前、待てよ!」


ひどく怒った顔をしていた。

菜月は慌てて出ようとしたが男はその手を掴み5階を押した。


彼は無言で菜月を睨んでいる

腕を掴んでいる力が強い。


「ちょっと止めてよ、痛いじゃない。」


5階に着くと彼は菜月を放り出すように廊下に倒した。


「家、開けろ!ふざけやがって。恥かかせんな!」


菜月は倒れたままだが腹が立って来た。

もう前のような彼を思う気持ちは全くなかった。

怒った顔も醜く見える。

彼のメッキは剝がれたのだ。


「そんな事出来る訳ないでしょ、

人の家に女連れ込んで。仕事もしないバカが。」

「うるせえ、俺の家だ、口答えするな!」

「私の家よ!」


と言った瞬間だ。


大川夫婦の部屋の扉が開くと直斗と茜が出て来た。

元カレがぎょっとした顔をする。

直斗がずんずんと男に近づいた。


「二度と来るなと言っただろ。」


直斗は背の高い男だ。

体つきもがっしりとしている。

上から見下ろすように直斗が男を見た。


「だ、だって俺の荷物……。」


茜が菜月を起した。


「荷物あるの?」

「さあ。」


男が菜月を見る。


「ゲームとかそう言うの全部俺のだろ!

スマホもぶっ壊れた!」


菜月がきっと元カレを見た。


「私のお金で買ったのよ!スマホも私の名義でしょ!」


茜が呆れて男を見た。


「どこが自分の物だか。」


直斗が菜月を見た。


「どうする、何か荷物を渡すか?」

「渡さない。」


菜月は首を振ったが彼女は少し考えた。


「服だけは渡してあげる。」

「おい、馬鹿にするなよ、」

「あんな趣味の悪い服、香水臭いし。」

「菜月、持っておいでよ、わたしも手伝う。

直斗、その男動かないように見張っていて。」

「おう。任せろ。」


二人は菜月の家に入るとしばらくばたばたと音がしていたが

紙袋二つぐらいに服を詰め込んで持って来た。

にやりと笑って茜が男の前にそれを置く。


「あなたの元カノは本当に優しいね。これはあげるって。

着るものは困らないね。」


男は菜月を見る。


「おい鍵を渡せ。」


直斗が男に顔を寄せた。


「バカか、渡せるか。

すぐに鍵は変えるぞ。二度と顔を出すな。菜月さんの仕事場にもだ。

どこかでお前が菜月さんのそばに来たら即通報だからな。」


男は慌てて袋を持つと這う這うの体で走って逃げて行った。

菜月がぽかんとそれを見ていると茜が彼女に寄った。


「菜月がいないうちに何度もここに来てドアを開けようとしたんだよ。

わたしが警察に連絡して警官が来たら、

俺の家だからと言ったけどわたしが事情を話したよ。

そうしたら警察に名前を聞かれたりしたんだ。

ものすごく焦ってたよ。

あいつが近くに来た時はいつもシューが教えてくれたんだ。

今も来たって言ったから出て来たんだよ。」


茜が彼女の耳元に囁く。


「あいつ詐欺の前科もあったみたいよ。」


菜月ははっとした。

そしてうなだれる。


「ほんと、私は人を見る目がない……。」


かつて罪を犯した人でも

ちゃんと更生して真面目に生きている人は多い。

だが彼は違ったのだ。


菜月は思った。

自分の目は眩んでいたのだ。

マンションを買って男に少しばかり優しい言葉を吐かれて、

浮かれ過ぎたのだ。


彼女はエレベーターの方を見た。

大川夫婦に買って来たお菓子が入った紙袋が落ちている。

元カレはそこを通る時に腹いせにそれを踏んづけたのだろう。

中身は潰れていた。


「あの、また改めてご挨拶させていただきます。」


と菜月がしょぼんとして二人に言った。


「まあ良いって、気にしちゃだめだよ。」


と茜が菜月に笑いながら肩を持った。

菜月は顔を上げて直斗を見た。


彼はにこにことしている。

少しばかり怖い人だが助けてもらったのだ。

ちゃんと礼をしなければと彼女が思った時だ。


彼の後ろに人の姿が見えた。

いつもの端正な顔立ちの光る男だ。


そしてその顔はにっこりと笑って手を振った。

その顔はとても素直で優しかった。


菜月は思わずぽかんとした表情になる。

それを見た直斗がにやりと笑った。






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