少女(5)

 少女が日記を見つけてから二ヶ月ほど。少女はこの家での生活に馴染み始めていた。たまに叩かれてしまうこともあるが、笑顔でいれば苦しくなかった。

 ここで暮らしているのは誘拐されてきて辛い思いをしている芙雪ではない。長年お父さんと共にしてきた夜春なのだ。そうやって考えることで少女の心には余裕ができた。


「お母さん? どうかした?」


 お母さんが思いつめた表情をしていたので、少女は声をかける。お母さんが物憂げな表情をしているのは珍しいことではないが、今日は特別暗い表情をしている。


「ううん、なんでもない。後で話す」


 お母さんは取り繕った明るい表情を見せるが、そこには隠しきれないほどの暗さが潜んでいた。少女は首をかしげてお母さんに体調を気遣うような言葉を掛ける。そして水を飲んでから玄関から外へ出ていった。


 家の外には広い庭が広がっている。辺りを見渡す限り木々に覆われていて、この家一帯だけが切り開かれているようだった。家は大きなフェンスで覆われていて有刺鉄線が巻かれている。

 お父さんが言うにはここは獣がよく出るから追い払うためのものらしい。少女は深く考えずに笑顔でその言葉を肯定した。彼に異を唱えたところで良いことなど一つもない。笑顔で肯定することがここでの過ごし方だと少女は理解していた。

 庭には畑がある。しかしその畑は使われている様子はなく、雑草が好き放題に生えていた。荒れた畑を横目にお父さんが待っている遊び場まで向かう。

 そこは地面がむき出しになっていて、均されていた。ここでボール遊びや運動をして身体を動かせるようになっているのだ。


「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった」

「大丈夫だよ」


 遊び場でお父さんは朗らかに笑う。それにつられて少女も笑顔を見せる。お父さんは足元のサッカーボールを少女の足元をめがけて蹴った。少女は慣れない様子でボールを止めて、同じようにお父さんめがけてボールを蹴った。

 しかしそのボールは見当違いのところへ向かって転がっていく。お父さんは小走りでボールに追いついて少し強めにボールを蹴り返す。


「夜春下手になったなぁ」

「最近あまりやってなかったからねー」


 少女は恥ずかしそうに俯きながらはにかむ。しばらくパスを続けていると少女の技術も上達し、しばらくパスが続くようになってきた。しばらく身体を動かしていると芯から暖かくなってきて、熱を持った身体と外気の冷たさが心地よかった。

 少女は疲れて一度、短い休憩を挟むことにした。少しずつ春が近づいてきて段々と暖かくなってきている。しかし運動をやめると、火照っていた身体から熱が奪われ、冬の名残りを感じる。正面に見える桜の木には蕾がプクリと膨らんでいる。花見が出来たら良いなと少女は春の訪れを待ち遠しく感じた。

 不意にお父さんが口を開いた。


「お母さんも呼んで三人でやりたいな」

「そうだね。でもさっき体調悪そうだったよ」


 少女がそう答えると、お父さんの機嫌が露骨に悪くなる。パス交換をしていた時までは笑顔をみせていたのに、お父さんの顔から表情が抜け落ちてしまった。


「お母さんを連れてきなさい」

「……でもたいちょ」


 言葉の途中でお父さんは少女に平手打ちをする。久々に口の中が切れ、少女の口の中に鉄の味が充満する。しかし少女は怯えた表情をすること無く、笑顔で居続ける。先程までの笑顔よりも不自然で引きつった笑みだ。しかし笑顔でいなければいけない。少女は夜春なのだから。


「良いから連れてこい」

「はい」


 少女は鋼鉄の笑みを浮かべ、返事をする。小走りで家へ戻り、ソファに座り込むお母さんに声をかける。


「お父さんが呼んでる」

「芙雪ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫ってどういうこと? えっと、私は大丈夫。それよりついてきてよ、お父さんが来いって」


 お母さんの心配そうな表情に、少女は精一杯の笑顔で応える。しかしその反応を見てお母さんはより一層心配そうな表情を見せた。少女はそれよりも大事なことがあると言いたげに頬を膨らませてお母さんの目を見つめる。

 お母さんの目には困惑の色が写っていた。何に悩んでいるのか分からないが、瞳が不安げに揺れている。お母さんは目を伏せて話を始めた。


「……女の子が死んでた。どろどろになってたけど、あの子は絶対に“夜春”だと思う。しかも、一人じゃなかった……。芙雪ちゃんもこのままじゃ殺されちゃうかもしれない。ここから逃げ出さないと、私達死んじゃうよ……!」


 少女にはお母さんが何を言っているのかよく分からなかった。ただお母さんが取り乱しているのを見て、そっと抱きしめた。言葉でお母さんを慰めてあげることはできないけれど、心で慰めたいと少女は抱擁し続ける。

 呼吸の荒かったお母さんが落ち着きを取り戻したところで、少女はお母さんを見つめる。


「後で行くって伝えておいて。遅くならないから、十分後には出れるって」

「分かった」


 お母さんは諦めたような面持ちで少女を見つめ返す。少女は安心して頬を緩め、再びお父さんが待つ遊び場へ向かった。


 少女がお父さんに、お母さんの言葉を伝えると、自ら様子を見に行くと言って自宅へ向かった。お父さんは足音を立てながら不機嫌そうに歩く。時折地面に転がっている樹の実を蹴り飛ばして怒りを紛らわしていた。

 玄関を開けてもお母さんの姿は見当たらない。お父さんはリビングを通り抜けて、自分の部屋が開いている事に気がついた。普段は鍵が掛かっていて入ることが出来ないが、なぜかお父さんの部屋が開いていた。


「――――」


 部屋からはお母さんの声が聞こえた。 お父さんは部屋の中へ入り、お母さんが手にしているスマートフォンを奪い取る。そして通話を終了してから激情のままに地面に叩きつけた。液晶が粉々になって飛び散ったが、それを気に留める人はいなかった。

 お母さんは崩れるように膝をつき、顔を両手で覆った。その隙間から弱く、か細い嗚咽が漏れる。しかしその泣き声はお父さんには響かない。


「夜春、リビングで待ってなさい。涼華と話がある」


 お父さんはお母さんを無理やり立たせて、引きずるように家の外に連れ出した。

 少女はお父さんの言われた通りにリビングのソファに座って時間を潰す。二人が出て行ってから一時間ほど経って、お父さんだけが家に帰ってきた。


「もうお昼だね。ご飯にしようか」


 お父さんは変わらぬ笑顔で少女に微笑む。その後お母さんが帰ってくることはなかった。

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