少女(4)
芙雪が誘拐されてから、約一週間が経った。一日目は訳もわからず殴られるばかりだったが、段々と殴られている理由が分かってきた。
どうやら男はこの家で“お父さん”として暮らしているようだ。“お父さん”は芙雪のことを“娘”としてこの家に連れてきた。その娘の名前が夜春だと気づいたのは三日前だった。
芙雪には娘を外から連れてくるという行為が理解できなかった。しかし理解は出来なくても、殴られないようにすることはできる。自分が“お父さん”のために夜春として振る舞えば良いのだと少女は気づいた。
それから芙雪は、夜春がどんな子であるかを知ろうとした。幸い、少女が与えられた部屋は当時夜春が暮らしていたままだ。今までは部屋にあるものに触れることすらせず、うすい布団で寒さと恐怖に震えているだけだった。
普段、“お父さん”はこの家で仕事をしているのだが、今日は出社している。少女が誘拐されてきた日の翌日も出社していたが、その時点ではこの環境になれるので精一杯だった。
“お父さん”がいる時に行って気を損ねることだけはしたくない。だからこそ今日という機会に夜春の人物像を掴まなければならない。
芙雪は改めて自分の部屋を見てみる。部屋には机と布団、それと小さな本棚があるだけだった。机と本棚はホコリを被っている。机の上にはいくつかの筆記用具が整理されて置いてある。本棚には教科書とノート、それに一昔前の少女漫画がきれいに並べられていた。
夜春は整頓が得意だったようだ。芙雪は自分の部屋の汚さを想像し、天と地ほどの差があると思った。
何気なく過ごしているだけだと気が付かなかった事が、よく見ると様々なところに隠されているのだと、少女は気づきを得て少しだけ心がはずむ。しかしすぐに現実を思い出し、冷水をかけられたように気持ちは冷えてしまう。
芙雪はひとまず机と本棚の上に薄く被ったホコリを払うことにした。少女が雑巾で机を撫でると、蓄積されたホコリの層は机の上からゴミ箱へ落とされていく。
机の上や本棚は整理されていたため、ホコリ掃除はすぐに終わった。少女は窓を大きく開けて、反対側に付いている小窓も控えめに開けた。爽やかな風が、部屋の中の淀んだ空気と混じり合う。部屋の空気は吹き込む風と混じり合い、徐々に軽やかなものに変わっていった。
軽やかになった部屋の空気に、もはや淀みを感じることはない。少女は胸に溢れんばかりの空気を取り入れる。冷たい空気が芙雪の胸を刺すが、その痛みも少女にとっては心地よかった。
改めて机の上を見てみると、ホコリの下には家族写真が埋まっていたようだ。そこには父と母、少女の三人が写っている。写真に写る少女は芙雪とは似ても似つかない美少女だった。
写真の少女は眩しいほどきれいな笑顔を浮かべている。整った顔立ちでクラスにいたら浮いてしまうほど可愛らしい少女だ。隣に写る父親には“お父さん”の面影が残っていた。
芙雪はポケットから家族写真を取り出して見比べてみる。その家族写真はランドセルカバーに入れていたものだが、ランドセルは処分されてしまった。しかし“お母さん”が“お父さん”に秘密でこっそり取ってくれたのだ。
そこに写る自分はしかめっ面をしていた。隣りにいる母親は困った表情をして少女をなだめている。幼かった自分のわがままは酷かったと、芙雪は改めて心のなかで謝っておく。
次に少女は本棚に目を向ける。本棚からなんとなく目についたノートを引っ張り出して確認する。表紙には夜春の名前が書いてあり、中はきれいな字で板書事項がまとめてある。科目は算数のようだ。三角形などの色々な図形が定規できれいに作図されていた。
芙雪はフリーハンドで書いてしまうため、自分のノートは見にくくなってしまっていた。ただ、それを改めるのも面倒なので、ぐちゃぐちゃのノートのまま先生に提出しては小言を言われていた。
しばらく本棚に目を通していると、その中に少女の日記を見つけた。日記には夜春の友だちの事がたくさん書いてある。そこに彼女の友達想いな人となりを感じて、少しだけ妬ましく思った。
彼女の日記にある話はどれも何気ない笑い話だが、その中に少女は寂しさのようなものを感じた。その寂しさの理由が分からないまま日記を読み進めていく。そして少女の想いを綴るページを見つけた。
10/9
はなちゃんときょりを感じる。はなちゃんだけじゃなくて皆そう。わたしが話に入るとどこかそっけない態度でお話する。どうしてか聞いたけど、はなちゃんはそんなことないって言ってた。石井くんに聞いたら「おまえずっと笑ってんじゃん。何考えてるのか分からなくて怖ぇんだよ」って言われた。
笑顔じゃだめなのかな? そっけない態度とったらきらいにならない? いやなこと言ったらたたかない? 笑顔でいればたたかれないんじゃないの?
怖い。助けてって言ったら助けてくれるの?
助けてよ。
10/14
体育の時間に背中のあざをみられた。笑ってごまかそうとしたけど「正直に話して」っていわれた。怖かったけど話してみたら、心配してくれた。いやなことはいやって言って良いんだって。
お父さんにいやって言ったら分かってくれるのかな?
やっぱりこわい。けどみくちゃんみたいにわかってくれるよね。
可愛くて友達想いの優しい、まさに完璧な少女がこのような葛藤を抱えていたことに、芙雪は親近感を覚えた。この家でなんとか生き抜くために身につけた技術がまさにこれだったのだろう。
この日記を見つけるまでは夜春に成り切るのは難しいと思っていたが、少女は今なら夜春になれる気がした。窓ガラスに顔を向けて、自分の口角を吊り上げる。
窓の外に桜の木が見える。桜の木が蕾をつけるのはもう少し先なのかも知れない。
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