少女(3)
「いただきます」
芙雪と男、そして知らない女性が食卓の席についた。机には味噌汁とご飯、野菜の煮物、ブリの照り焼きと様々な料理が並べられている。芙雪は普通というには少し豪華な料理に目を丸くする。最近はコンビニのおにぎりやパンが多く、温かい料理は久々だった。
芙雪は恐る恐る煮物の大根を口に運ぶ。その味に違和感はなく、毒物や異物が混ざっている気配は感じられない。
「……美味しい」
芙雪は思わずそんな言葉を漏らす。正面に座る女性は一瞬箸を止めて笑みを浮かべた。芙雪はご飯を口に含んで咀嚼しながら、訳の分からない空間で摂る食事だというのに美味しく食べられる自分が悔しくなった。
「お母さん、明日は会社だけど弁当はいらないよ。上司が奢ってくれるらしい」
「何? 良いもの食べるの?」
「大したもんじゃないよ、軽いもの食べながら簡単な打ち合わせ」
「わかった」
男が何か話し始めた瞬間、芙雪は身を固くし心臓が早鐘を打つ。お母さんと呼ばれた女性は“お母さん”として、男とさしあたりのない会話を交わしている。芙雪は顔を上げてはいけない気がして、眼の前のブリに視線を落とした。
皿には大きなブリが一切れ乗っていて、ブリの脂が照り焼きのタレの上に浮いている。芙雪が箸を入れればブリの身は簡単に崩れてしまう。芙雪は切り身から鱗の粗い皮を剥がして口に運んだ。品よく盛り付けられていた切り身はバラバラと崩れてしまった。
「ごちそうさまでした」
正面の二人が手を合わせるのを見て、慌てて芙雪も手を合わせる。芙雪はごちそうさまでしたと口に出すが、その声はちいさくか細いものだった。
「夜春、どうかした? なんかあればお父さんが話聞くよ?」
自分を襲ってきた男が自分を心配している現状に、不快感や嫌悪感、恐怖が腹の底から込み上げてくる。男は気味の悪い笑顔を浮かべて詰め寄ってくる。その醜悪な姿に芙雪は思わず一歩退く。
すると男の顔からストンと表情が消え、ひどく冷たい目を向けた。
「なんで逃げたんだよ、お父さんなんか悪いことした? お父さんたち家族だよね? お父さんはただ夜春の事が心配なだけなんだよ。それなのになんで逃げたの? ねぇ?」
男は震える芙雪の肩に手を乗せて激情に身を任せて腹部を殴りつける。男は痛みに喘ぐ芙雪が落ち着くのを待ち、再び殴りつける。
「っ汚いな……。涼華、片付けておいて」
四回目の強打で芙雪の胃から内容物が口から溢れ出てしまう。男は先程まで芙雪を押さえつけていた左手で、怒りに身を任せて芙雪を突き飛ばす。押さえつけられる力を失った芙雪はバランスを崩して倒れ込んだ。
芙雪は焦点の定まらない瞳で男の方をぼんやりと見つめる。男は芙雪の方を一瞥すると、女性に一言だけ伝えて自室に消えていった。
男が大きな音を立てながら部屋のドアを閉めたのを確認して、女性は顔色を変えて芙雪の元へ駆け寄ってくる。
「……ごめんね。私、なにもできなかった」
芙雪は女性になにか言葉を返そうとするが、言葉の代わりに再び吐き気が込み上げて来る。芙雪は女性に背を擦られながら夕食のすべてを吐き切った。
「訳分からないよね。いきなりここに連れてこられて、殴られて」
芙雪に話し始めた女性の声は震えていた。
フローリングに座り込む芙雪の焦点が徐々に女性に合ってくる。女性の目から涙が伝っている。痩せこけて目の下には隈ができていた。質素なヘアゴムで後ろに一つにして結ばれている髪の毛は艶を失い、ひどく傷んでいる。
芙雪は直感的に女性は自分と同じなんだと気づく。彼女も男に連れてこられたのだ。
「ねぇ、名前なんていうの? 夜春じゃなくて、本当の名前」
「……芙雪、です。お姉さんは? 涼華?」
女性は困ったような笑みを浮かべる。芙雪の目には、女性の優しげな表情の奥にはおぞましいなにかが息を潜めているように見えた。
「涼華はお母さんの名前。私のことは、お母さんって呼んで。それが芙雪ちゃんを守ることになるから」
「でも、本当のママじゃない」
「そうだね。でもね、ここでは私はお母さんじゃないと行けないの。お母さんじゃないと怖い思いをするから」
女性の瞳にはもはや光は映らない。芙雪は“お母さん”の狂気に濡れた瞳を見つめる。土砂降りの雨の日の校庭と同じ、濁った色だ。この家にいる限り、その濁りが消えることはない。
「芙雪ちゃんもだよ。ここでは芙雪ちゃんは夜春じゃないといけないの」
「……ふゆ、全然わかんない」
「そうだよね。ここで過ごしてれば嫌でも分かるようになるよ」
“お母さん”は妙に明るい声でそう言った。それは何か大切なものが抜け落ちたかのような軽さだ。あるいは諦観の果てのようにも感じられる。
「さ、お母さんと片付けしよっか」
片付けを終えて、芙雪は大きな湯船に身を縮こまらせて浸かっていた。芙雪は湯船のお湯を見つめながら“お母さん”の言葉を反芻する。
芙雪はこれから夜春として過ごしていかなければならない。あの女性が“お母さん”をしているように、芙雪はこの家では夜春なのだ。
“お母さん”の様々な表情を思い出してはつゆと消える。そして苦しげな表情であるというのに気遣ってくれた“お母さん”に感謝の言葉を伝えていなかったことを思い出す。芙雪は胸いっぱいに息を吸い、頬を膨らませながら湯船の中に吐き出した。
幾度かそれを繰り返すうちに、様々な感情の波が押し寄せてくる。誘拐されたという恐怖と男からの理不尽な暴力への怒り、これからの不安、“お母さん”への申し訳無さや本当の母に対する謝罪。幾層にも重なる不幸な感情の波が芙雪の中で何度も満ち引きして心を揺らし続ける。
芙雪は押し寄せる感情に耐えきれなくなって、湯船の中でしばらく声を押し殺して泣いた。
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