少女(2)

「寒くなってきたねー」

「もう日が暮れちゃうからね」

「わたし今日習い事あるからそろそろ帰る」

「うん、またね」

「また明日」


 放課後、芙雪と花恋は住宅地にある公園のブランコで他愛もない話をしていた。ブランコの支柱の根本にはランドセルが二つ置いてある。一つはきちんと置いてあるのに対して、もう一つは乱雑に放り投げられていた。放り投げられたランドセルは砂埃にまみれて薄汚れている。

 花恋は習い事があるからと言って、ブランコから降りてランドセルを拾った。花恋は公園の出口で振り返り芙雪に向かって手をふると、小走りで公園を出ていった。

 それを見た芙雪も、しばらく前に漕ぐのを辞めてベンチと化していたブランコから降りてランドセルの砂埃を払う。

 芙雪は公園を出る前に振り返り公園の端にあるポールの上の時計を見上げた。時計は四時半を指している。時計から視線を地面に向けておろしていくと、日は出ているものの薄暗くて時計の影ははっきりとは見えない。時計の隣に植えられた桜の木はすっかり葉を落として寒そうにしている。

 芙雪は手袋の上から手をこすり身を縮めてトボトボと家へ向かう。マフラーに顔を埋めてうつむいていた芙雪は視界の端から突如現れた何かに左腕を掴まれ引きずり込まれる。


 芙雪は突然の出来事に頭が真っ白になる。身体のいたる所から痛みを感じ、眼の前の男に襲われているのだと一拍遅れて気づいた。眼の前の男は馬乗りになりながら芙雪の首元に手を掛けている。


「騒ぐな騒いだら殺す」


 芙雪は爆ぜるように脈打つ鼓動のままに叫ぼうとした。今も、恐怖心そのものが口を衝いて出ていこうとしている。しかし男がやつれた冷え切った目で芙雪を睨むと、その勢いは口を結んでいない風船のように萎んでいった。

 芙雪は助けを求めようと叫ぼうとしたが、恐怖心が邪魔をして思うように音にならない。早くなる呼吸のまま吸い込んだ空気は、ただ掠れるようなうめき声となって喉から漏れるばかりだ。手足をばたつかせるも、大した意味はなかった。


「助けて……!」


 かろうじて出た言葉も男に喉を強く押さえつけられて小さなノイズへと変わってしまう。


「本当に殺すぞ」


 芙雪は目に涙を溜めて首を縦にふる。男が少し力を緩めると芙雪は激しく咳き込んだ。芙雪は露骨に表情を歪める男に身を固くするが、男は舌打ちしただけだった。

 男は慣れない様子で芙雪に布を噛ませて手足を縛る。芙雪は後部座席に詰められ、頭にブランケットを被せられた。車が動き出す音がかすかに聞こえるが、景色は全く見えない。身じろぎをしてブランケットをどうにか外そうとするがブランケットが外れる気配はない。

 芙雪は身じろぎすることをやめて、ただ狭く何も見えない空間の中でこれからのことを思案する。思案すると言っても頭に浮かぶのは漠然とした恐怖と母親の顔だけだった。母親の穏やかな表情を浮かべると形にならない恐怖心が少しだけ薄れた。


 ブランケットから少しだけ差し込む光も完全に途絶え、完全な暗闇となってから数時間が経った。もしかしたらそれほど時間は経っていないのかも知れない。既に芙雪の中には正常な時間の感覚など残っていなかった。

 他の車が走る駆動音が聞こえなくなり、車は坂道を登り続けている。車が止まると男は車外へ出て行った。芙雪はどうなるのか分からない恐怖で気が狂いそうだった。それでも芙雪にはどうすることもできない。ただ身を縮めて恐怖と寒さをやり過ごそうとした。

 どれほど経ったのかは分からないが、男が戻ってきた。男は車を少しだけ前に進めて再び車から降りた。大きな物音がした後、芙雪は男にむりやり抱き起こされる。

 男になされるがままに運ばれていくとブランケットの隙間から光が差し込んできた。芙雪は頭を覆うブランケットや手足の拘束具を解かれた。そして無意識に周囲を見回す。


 そこは古い家のようだった。部屋の壁は土気色で明らかに年季が入っている。なんの匂いかは分からないが独特な匂いがした。芙雪の祖母の家とは違うが、それでも芙雪は“おばあちゃんの家”のような懐かしさを感じた。


「おかえり夜春」


 芙雪は一瞬誰に向けられた言葉なのか分からなかった。あまりに穏やかな声でそれが誰の声なのかも分からない。しかし男の口が動き、その視線が自分に向いていることは疑いようがなかった。

 男の変わりように理解が追いつかず、恐怖と緊張で何が起きているのか分からなかった。引きつった表情で男に視線を返すと、男は穏やかな表情を歪めて芙雪を殴りつけた。


「おかえりと言われたら、ただいまだろ! お父さんに対してそれはおかしいだろ!」


 訳が分からない。しかし男がふざけていないことだけは、混乱の中にいる芙雪でも分かった。頬を殴られ口の中が切れる。痛む頬と口を動かして芙雪は男が望んでいるであろう言葉を発した。


「……ただいま、お父さん」

「うん、おかえり。お母さんがご飯作ってくれてるよ。早く食べよう」


 お父さんと名乗る男は満足そうに笑みを浮かべた。

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