少女(1)

 一限の始まりを示すチャイムが鳴った。芙雪の机の上には国語の教科書とノートが広げてある。お世辞にも綺麗とは言えないノートだが、自分が読めれば問題ないと言わんばかりにその字体を貫いている。

 先生は教室に入ってきて一番に黒板に文字を書き始めた。そこに先生が書いたのは「お父さん・お母さんのこと」という文だ。それから先生は座席の方へ顔を向けた。


「皆は今までお父さんやお母さん、色々な人に支えられて育てられてきたよね。ご飯を作ってくれたり、夜遅くまで働いてくれたり……」


 先生は皆を一人ひとり見ながら優しい声で話している。芙雪は先生の優しい人柄が好きで、先生の顔を見ながら真剣に話を聞いていた。


「それから、遅刻した颯馬くんを起こしたり」


 少し間をおいて教室の後ろへ視線を向けて最後の言葉を付け加えた。芙雪は先生に釣られるように視線を教室の後ろへ向けた。


「おはようございます!」

「遅い、明日休みだからって気ぃ抜くなよー」


 そこには元気に挨拶する颯馬が立っていた。先生と颯馬のやり取りに思わず教室から笑いが溢れる。お調子者の颯馬は「すんません」と言いながら芙雪の席に座った。先生もそれ以上言わず話を続けた。


「皆には十歳という節目の時期に改めてお父さんやお母さんのことを考えてみてほしいんだ。皆にはお父さんやお母さんの作文を書いて発表してもらうからしっかり書くんだよ。まずは周りの人と自分のお父さんお母さんについて話してみて」


 先生がそう言うとたちまち教室の中は会話でいっぱいになる。斜め前の席の花恋が芙雪に話しかけてくる。


「芙雪のママはどんな人?」

「ママはいつもふゆのためにたくさん働いてる。でも忙しいからなかなか会えなくて寂しいかな。花恋のママは?」

「うちのママは家でお料理とかお洗濯とかしてるよ。いろんな料理が作れて、一緒に料理したりする。パパはサラリーマンしてる」

「ふゆはパパいないからわかんないや」


 花恋はふと思い出したように眉を上げ、気まずそうな顔でごめんねと小さな声で頭を下げる。芙雪は気にしないでと手を振って笑った。それでも花恋はまだ申し訳無さそうな顔をしている。


「正直パパとか言われてもピンと来ないんだよねー」


 芙雪は少し間抜けな声でそう話した。花恋は芙雪の声色に思わず笑みをこぼす。そこに颯馬が顔を突っ込んで、大きな声というよりもでかい声で自分の話を始めた。


「俺の父ちゃんはテレビで働いてんだぜ」

「なにそれ」

「カメラマンやってんだよ、だから有名人といっぱい知り合いなんだって!」


 芙雪は颯馬の話をこれまでもよく聞かされてきた。ある時はアイスで二回連続で当たりを引いただとか、ある時は自販機の下で十円玉を見つけたとか、そんなしょうもない話だ。

 しょうもない話だと分かっていても、颯馬が話していると不思議と面白い話のように聞こえてくる。今のように花恋との会話に入り込んできても嫌な気はしなかった。

 どこか嫌いになれないやつ。芙雪は颯馬のことをそう位置づけていた。


「自慢話する人はモテないんだよ?」

「うるせー! 女と遊ぶよりサッカーしてたほうが絶対楽しいから良いんだよ!」


 花恋はわざとらしく嫌な顔をしてみせた。颯馬は意地になって言い返す。二人がワイワイしてるのを横目に、芙雪は両親について考えてみることにした。


 芙雪はあまり自分の父親について詳しく知らない。芙雪が三歳の時に事故にあって亡くなったらしい。父親が事故にあって死んだという事実は母親から聞かされていたが、詳しいことは聞かされていない。

 父親との思い出を振り返ろうとするも大した思い出は浮かんでこない。かろうじて思い出されたのは芙雪が二歳の頃の話だ。公園で転んで膝を擦りむいてしまった芙雪は、父親におぶってもらって家に帰ったのだ。

 今思えばそこまで大きな怪我でもないのに喚き散らしたものだと、芙雪は当時の自分を思い出して笑った。


 母親はシングルマザーとして芙雪を育てている。母親は生活費を稼ぐことに苦労していて、朝から晩まで働いている。そのため普段は直接顔を合わせることは滅多にない。芙雪に宛てた食費と書き置きが母親が家に帰ってきている証だった。

 小学校に上がったばかりの頃、芙雪は「ママの料理が食べたい」と言ったことがある。料理の作り置きを食べることはあったが、作りたての暖かいご飯を共にすることはほぼなかった。

 その時に母親がひどく困った顔をしていたことをよく覚えている。芙雪の言葉をわがままといって切り捨てるにはあまりに冷たいと思ったのだろう。母親は良いとも悪いとも言わず、ごめんねと言ったのだ。それ以降芙雪はわがままを言うのをやめた。

 良い子にしていれば母親が笑顔でいてくれるとはっきりと気づいたのもこの時と同時期だった。ただでさえ顔を合わせることが少ないのだから、顔を合わせる時くらいは笑っていて欲しいと思うようになった。

 それまではトラブルを起こせば母親が迎えに来てくれるからといって、やんちゃをしたり時には怪我をして母親に迎えに来てもらっていた。母親に怒られるが幼い芙雪は自分のことを見ていてくれている気がして何度も繰り返していた。

 馬鹿なことをしていたと思う。


「ひどーい! 芙雪もそう思うよね?」

「ひどいよね」

「ほら芙雪もこう言ってるんだし」


 どんな話をしていたのかは分からないが芙雪は適当に相槌を打つ。相変わらず二人はお喋りが上手だと芙雪は思った。よく途切れずにこうも話ができるものかと感心してしまう。

 芙雪は自分のことを話すのは苦手で、何気ない話をするのはもっと苦手だった。何を話せば良いのか分からないのだ。二人は色々な友だちと話しているのを見るが、芙雪が友だちと胸を張って言えるのは花恋くらいだった。


「ん? どうしたの?」

「なんでもない、次の体育嫌だなぁって」


 花恋は芙雪の顔を覗き込みながら首をかしげる。体育が嫌なのは嘘じゃない。ただ、なんとなくきれいな瞳を向けられるのが恥ずかしくて、芙雪は思わず目をそらした。

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