怨霊と遭わせ(3)


 強い風が、屋上に吹き込む。ふいに鼻を刺す異臭が、下から這い上がってきた。

 ミケは獣姿のまま、その背に紡生を乗せて、怨霊おんりょうが屋上に上がってくるのを待っていた。


「来たぞ」


 赤い瞳が二つ、床から平行に覗いていた。

 重力を感じさせないそれは、濡れた音を響かせて屋上へと上がる。


「ルルーちゃん、だよね?」


 紡生が語りかける。その手には青い首輪が握られ、怨霊に見えるように掲げていた。


「あなたのママさん……蒼樹あおきさんに、話を聞いてきたよ」


 怨霊の目が、ミケではなく紡生へと向けられる。

 自分の名前と「ママ」という言葉に反応したようだった。


 ……やっぱりだ。ミケは微かに目を広げた。

 怨霊は本来、恨みに囚われていて、話を聞ける状態にはないはずだ。恨みの元に憑き、恨みを晴らすことだけを考え、対象から離れることもない。


 けれど今、実際に。恨みのもとである柴田から離れ、自分たちを追ってきた。

 紡生がやって来たときもそうだった。

 名前を呼ばれたとき、それまで攻撃対象としていたはずのミケを放り出して、紡生へと向かった。自分の名前を呼ばれた、その元へと向かうように。明らかに反応を示しているのだ。

 もしかしたら……、本当に、自我を取り戻させることができるかもしれない。


 何故かはわからない。けれど。

 ミケの胸に、今までなかった熱が灯った。


「聞いて。わたし、あなたのことたくさん調べてきたの」


 怨霊の核になっているのが誰で、どこの子なのか。どんな子だったのか。何が好きだったのか。そして、どうやって殺されたのか。紡生は、そのすべてを調べてきた。


「あなたは迷子になって、心細いままに彷徨さまよっていた。そのときに、あの人と出会ってしまった。ずっと苦しめ続けられて、最後は、誰にも見つけられずに、ゴミ袋に詰められて、捨てられた。あの竹やぶの先に埋められていたのは、あなたでしょう?」


 怨霊が、苦しそうに歪む。その記憶を恐れる様に、不安定に震え、波打っている。


「自分をそんな目にあわせたやつなんて、許せないよね。復讐ふくしゅうしたいって思うのも、当然だと思う。わたしだって、大事な子が、人が、仲間がそうされたら……。あなたと同じように、恨むと思うもの。……でも」


 怖かっただろう。痛かっただろう。どれほど、心細かっただろうか。想像するだけで、涙が止まらなくなる。

 紡生は浮かんで来た涙を乱雑に拭い、それでも言葉を届けようと、息を吸った。


「恨みに染まってしまえば、恨んでいる人に、ずっと憑いていなきゃいけない。会いたい相手にも、会いに行けない。自分が誰なのかさえ、分からなくなってしまうって、聞いたよ。そして最後には、魂ごと、消えてしまうって」


 ずっと恨みの対象に憑いていれば、望む人とも会うことはないだろう。

 飼い主にも、友人にも、兄弟にも。誰にも会えない。苦しみ続けた挙句、ひっそりと消えるのを待つのみ。そして、忘れられていく。


「私はあなたに、そんな思いをしてほしくない。苦しめられた分だけ、報われてほしい。せめて……魂だけは、あなたの行きたいと願うところに……。ママさんのもとに、連れて……っ行ってあげたい」


 紡生は言葉に詰まった。こらえきれなかった雫が、顎を伝い、落ちていく。

 それでも、伝えなければ。紡生はそう思い、うつむきかけた顔を上げる。


「あなたの身体は、家に帰したよ。首に入っていたマイクロチップが、あなたをあなただと証明してくれた。……ママさん、ずっと謝っていた。泣いて、泣いて、ごめんね、ごめんねって。自分が目を離さなければ。窓をちゃんと見ておけばって」


 置いていってしまった方も、置いて行かれた方も。どちらにももう、幸福な未来は訪れない。

 後悔ばかりが頭を埋め尽くし、自分を責め続けるほかない。大切だった分だけ、引き摺ってしまうだろう。

 起こってしまったことを変えることはできない。

 それでも。


「結末だけは、変えられる。わたしたちなら、あなたの言葉を、届けられる」


 死んでしまった事実は変わらなくとも、魂だけでも家に帰してあげられたら。

 会いたかった、ずっと恋しかった人に、言葉だけでもつなぎ合わせてあげられるはずだから。


「だから、応えてほしい。そのために、わたしたちはいる。恨みに囚われないで、抜け出して、あなたの言葉を教えてほしいの。家に、帰ろう?」


 ――ぽとり。


 大きな粒が、怨霊の赤い目から零れ落ちた。


 ――怨霊が、泣いている。


 長い間怨霊と関わってきたミケでも、見たことがない光景だった。

 泣きながら震える猫は、その体にため込んだ怨念を振り払おうと、藻掻もがいているように見えた。


「があああおおおおぉぉぉ!!」


 何度も、何度も。藻掻いて、藻掻いて、叫び声を上げた。

 藻掻くほど、まとわりついて、離れない。あと一歩が、届かない。

 苦しみに暴れ出す。怨霊は、その苦しみから逃れる様に、紡生に突進してきた。

 我を忘れているようだ。


「っち! しっかり掴まっておけよ!」


 ミケはそう叫ぶと、駆けだした。向かうは、屋上のその外。


 ――ダンッ!


 足場を蹴る音が響き、ミケ達の身体が、夜空を舞う。

 そして、再び力強く地を蹴る音が響いた。

 ビルの屋上から、隣の屋上へ。民家の屋根へ。群れのように立ち並ぶ建造物を、駆け抜けていく。


「来てるか⁉」

「来てる! ちゃんといるよ!」


 短く問えば、すぐに紡生が答える。

 彼らの後ろを、怨霊が追ってきていた。もともと柴田を恨んで憑りついていた者が、今は紡生だけを追いかけているのだ。

 とまることも、あのビルへ戻ることもしない。

 ミケは僅かに口角を上げた。


「そりゃ重畳ちょうじょう! このまま一気に行くから、振り落とされんなよっ!」


 一気に加速していく。


 すぐに見覚えのある建物が見えてきた。――猫社だ。

 そのお社の上で、がゆらゆらと煌めいているのが見える。


「アメちゃん!」


 猫社には、アメが待機していた。紡生の声に気がつき、一声、鳴き声を上げる。

 揺らいでいた蒼い炎が、アメへと吸い寄せられ、蒼い炎をまとった白獅子しろじしへと変貌する。それがアメの本来の姿だった。


 ミケと紡生は、その勢いのまま猫社の鳥居を潜った。その数秒後、怨霊も猫社へとたどり着く。紡生を追って、鳥居の中へと迫っていた。

 そのとき。


「ガルルルルッ!」


 獅子となったアメが一声咆えた。

 ボウッっという音をたて、蒼い炎が鳥居をふさぎ、怨霊の侵入を阻む。

 そして、神々しい獅子が、紡生とミケを庇うように降り立った。


「よく、ここまで連れてきてくれたわ。あとは神様に任せておきなさい」


 アメはふと優しい笑みを浮かべ、二人を見た。

 こまの仕事は、神社を守り、じゃはらうこと。それすなわち――浄化じょうか

 狛猫という性質上、神社内でなければ力を扱えない。


 だからこそ紡生たちは、怨霊を猫社にまで誘導してきた。浄化で、その魂が解放できる可能性に賭けて。


「導かれた魂よ。恨みを捨てたいと願うのなら、その門を潜りなさい。さすればその炎は、浄化の炎となり、貴方を導くでしょう」


 アメは怨霊に語りかける。

 けがれを……恨みを落とし去りたいと願うのならば。怨霊自身が復讐ではなく、解放を望んでいるのならば。

 炎は猫を弾くことなく穢れのみを浄化し、囚われた魂を、苦しみから解き放つことができると……。


 後は、怨霊の……。ルルー次第だ。もう紡生たちにできることは、見守ることしかない。

 皆が息をのんで、ルルーの選択を待つ。


「グゥア……」


 ルルーは、一声だけ鳴いた。迷うように、鳥居の前をうろつく。

 ダメなのだろうか。やはり、恨みは忘れられないのだろうか。そう思ったとき。


 ――リリン


 紡生の手の中にある首輪が、音をたてた。

 風もないのに、まるで戻ってこいというように……。

 ルルーは、音を追いかけるように、炎へと一歩踏み入れた。


 ――シュワアアア


(……この音)


 光の粒子が空に溶けていくような、そんな音。むぎを見送ったときにも、聞こえた音だ。

 きっと、魂が天に昇っていく音なのだろう。


 炎の中の黒が消えていく。その中に、安らかな笑みが見えた気がした――。


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