怨霊と遭わせ(2)
ミケは倒れた
死んではいない。猫たちが放つ
とはいえ、猫たちの念がこれだけでなくなるという訳ではない。柴田は生き続ける限り、猫たちの負の念に、じわじわと
心身に影響を受け、もう元の生活には戻ることはない。それこそが、自分が犯した過ちへの罰なのだ。
「自業自得だ」
ミケはもう一度小さくつぶやいて、視線をその上へと向ける。
死んでからも苦しみ続ける憐れな猫たちが、そこにいた。
いったい、どれほどの苦しみだろう。
「……なあ。あんたたちは、それでいいのか?」
生きている間も散々苦しんだであろう猫たちに、これ以上辛い思いをしてほしくなどない。
怨霊になりかけているとはいえ、幸いなことに、まだ生者を呪い殺してはいない。それならば、まだ恨みを脱ぎ捨てさえすれば、天に昇っていけるかもしれない。
ミケは彼らを説得するように、言葉を紡ぐ。
「こいつには、しかるべき罰を与える。オレが責任をもって、監視し続ける。だから」
「ヴウヴヴヴヴヴ!」
一歩近づくと、警戒するように
「……そうだよな。許せる訳が、ないよな」
恨みを脱ぎ捨てるということは、
怨霊にとっては恨みを晴らすことが全て。それさえできるのなら、人の話になど耳を傾けすらしないのだ。
「分かるぜ。オレもそうだったからな。騙され、傷つけられ、大切な人から引き離され。絶望し、
ミケは沈みかけた心を奮い立たせ、怨霊を見つめる。
「でもな……あの人は、それを望まなかった。死にかけているのは自分のくせに、言ったんだ」
『あなたが苦しみ続けるところは、みたくない』
恨み続けるのは苦しいことだと、初めて知った。
その言葉がなければ、今も恨みにのまれたまま、悲劇を作り続けていたことだろう。
だからこそミケは、自分の犯した罪の分だけ人を助けることを選んだ。あわせ屋として、今日まで猫と人間の絆を繋ぎ合わせてきた。それがミケにとっての、
だから、目の前で苦しみ続ける猫たちを、放っておけない。
どうすれば苦しみから解放できるかは分からない。けれど一つだけ分かっている。放っておけば、苦しみ続けるということだけは。
だったら……。
ミケはゆっくりと立ち上がる。ゆらりと揺れた影が、うごめいた。
「せめて、苦しまないように消してやる」
――ゴウッ
風が入らないはずの部屋に、突風が吹いた。
うごめいていた影が、ミケを包む。影は黒い炎になり、渦巻き、重なり、大きくなっていく。
その炎が消えたとき、その場には四つ足の大型の獣がいた。
鋭く尖った爪はコンクリートの床を抉り、大きく裂けた口からは巨大な牙が見て取れる。
琥珀に光る眼は闇の中でも怪しく煌めき、頭に生えた三本角と、二又の尻尾からは真っ赤な炎が上がっていた。
それがミケの、妖たる姿。怨霊を消すときにのみ許される、本来の姿だ。
恨みを捨てることも、忘れることもできないのなら。
「オレが、全て引き受けよう」
ミケは、恨みや悲しみを、その魂ごと焼き尽くすつもりだ。
彼らの魂に傷がついてしまう前に。永遠につなぎ留められないように。消滅は避けられなくとも、もう苦しまなくていいように。
ミケの口から赤い炎が漏れ出て、怨霊が立ち向かうように低く唸った。
そのとき。
「――ルルーちゃん!」
この場に似つかわしくない、高い声が響いた。もう、聞きなれてしまった声が。
反射的に声のした方をむけば、やはり、想像通りの姿がある。
息を切らせ、肩を上下させながらも、しっかりとこちらを見据える、紡生の姿が……。
「あんたっ!」
ミケは信じられないものを見たかのように目を広げた。
なぜ、彼女がここに。なぜ、きたのか。なぜ、なぜ、なぜ!
「え?」
「っ!」
一瞬、固まってしまった。その隙を見逃さずに、怨霊が迫る。けれど、
怨霊は、なぜかミケを無視し、入口にいる紡生に襲い掛かった。
怨霊に背を向け、紡生に覆いかぶさるように、廊下へ転がる。
「っ」
怨霊の爪が、背中をかすった。途端に、頭の中に、映像が流れ込んでくる。
【痛い】【苦しい】【帰りたい】【……ママ、どこ?】【一人は寂しい】
雑音交じりの記憶は、全て怨霊となった猫たちの記憶だ。切りつけられ、毒で弱らせられ、最期には……。
涙がにじんだ。怨霊に触れてしまうと、その感情が流れてくるのだ。常人では、気がおかしくなってしまう程の、激情が。
「う、ぐ」
「ミケさん⁉」
下から紡生の心配そうな声が聞こえるが、答えてあげる余裕はない。
それに、次の攻撃が来るはずだ。すぐに動かないと、守ってやれない。
ミケはちかちかと点滅する視界もそのままに、紡生を口で
骨組みが向きだしのままの建物が、妖の脚力に耐え兼ねてギイっと音をたてる。だが、止まっている暇はない。そのまま一息に最上階までたどり着くと、作りかけの屋上に出た。
階段から距離をとると、ようやく紡生を降ろす。
「ミケさん、血が……!」
紡生は初めて見る妖の姿にも関わらず、ミケを、ミケと認識していた。そして背中から
「ごめんなさい。わたしを庇ったばっかりに……」
泣きそうな顔をしたまま傷を押さえる紡生に、「なんで来た」と苦痛に顔をゆがめながらも、責める言葉を吐き出した。
「せっかく逃がしてやったのに、なんで」
紡生が苦しむところを見たくなかった。危険になど、晒したくなかった。
だって……紡生は、自分を唯一肯定して、解き放ってくれた、あの人に……似ているから。
彼女が危ない目に遭うところを見たら、きっと自分は暴走してしまうだろうから。
だったら、恨まれてでも遠ざけたほうがいい。そう思って、きつい言葉を投げかけたのに……。
(あぁ、嫌だ)
怨霊の感情に引っ張られたミケの視界では、紡生とあの人が、重なっていた。
赤い炎の先で、腹に赤をまとった彼女が、倒れている。自分にとって、一番
「ミ、ミケさ」
「オレに関わるな! 近寄るな! 優しくしようとするんじゃ、ねぇ!」
伸ばされた手を振り払う。感情が、止まらない。
ここにいるのはあの人じゃないと分かっているのに、言葉があふれて止まらない。
「あんたも、どうせ、最後には……っ」
(オレを一人にするくせに)
オレに関わったから、死んだ、あの人のように。
背中の傷よりも、頭の方がずっと痛い。頭よりも、胸の方が。
一人にしないで。戻ってきて。自分のせいで。そんな感情がごちゃまぜになっている。
「クソッ」
心の底に押し込めた感情を、無理やり思いださせられているような。酷い気分だ。
「なんで戻ってきたかなんて」
何もかも忘れて、楽になりたい。そう思ったとき、紡生の声が聞こえた。
やけに静かな声に、思わず顔を上げる。
「……ミケさんを支えるために、決まっているでしょ」
「支える、ため……? なに、バカなこと言って。あんた、今の状況、分かってんのか⁉ 死にかけたんだぞ⁉」
「分かってるよ。きっとミケさんは、一人でもあの子をとめられるって」
「だったら‼」
「でも!」
紡生は声を荒げた。涙を溜めた目で、それでもにらみつける様に目に力を込めている。
「でも、それだとミケさんだけが辛いじゃない! ミケさんだけが、痛いじゃない! そんなの、黙って見てられないよ!」
「…………っは」
(こいつ、今、なんといった?)
先ほどまでの激情が、ぴたりと止んだ。呆気にとられ、思考が止まったのだ。
「アメちゃんにも、
「……」
「たくさん悲しい思いをした。たくさん傷ついた。そんな子たちの魂が、未だに傷つき苦しみ続けている。ミケさんは優しいから、あの子たちの分まで背負って、解放してあげようとしているんでしょ? でもそれじゃあ、ミケさんだけが傷を負ってしまうじゃない! 誰よりも苦しむじゃない!」
紡生の目から、涙が一筋こぼれた。
何故か。紡生の言葉は、驚くほどすんなりと、心に入ってくる。
「そんなの、放っておけるわけ、ないでしょ! わたしだってあわせ屋の一員なんだから! 一人で抱える必要なんて、ないんだから!」
ミケが紡生を守ろうとしたように、紡生も一人で抱えすぎるミケを支えたかった。あわせ屋の、仲間として。
紡生の秘めた想いを受けたミケは、僅かに身じろぐ。
(仲間、だから……共に痛みを背負う……?)
ここまで誰かに支えたいと願われたことなど、なかった。
いつも一人で、人を遠ざけて、近づかれることがないように、憎まれ口ばかり叩いて来た。
それなのに、どうして――。
そんな風に想ってくれるのか。ミケには分からなかった。
分からないのに、なぜか涙が滲む。胸の辺りが、浮き上がるような、そんな不思議な気分になる。
「……。だが」
人間では、怨霊に太刀打ちできない。
ただの人間である紡生がいても、怪我をするだけだ。その事実は変わらない。
だからこの仕事だけは譲れないのだ。
「安心して。いくらわたしでも、なんの策もなしに危険に飛び込んだりしないよ」
紡生はポケットから、青いリボンのついた首輪を取り出した。
「……それ」
「うん。初めて一緒に仕事をしたときに、見つけた首輪だよ。これ、ルルーちゃんのものだって、わかったの」
「アメちゃんに聞いたよ。
魂が、苦しみではない何かに目を向けてくれたら。言葉を聞いてくれたら。自我を取り戻すことができるかもしれない。
自我が戻れば、本当の願いを聞き出せるかもしれない。そうすれば、天に昇っていくこともできるかもしれない……。
どれも「かもしれない」でしかない。けれど、紡生は諦めていなかった。
「わたしにはミケさんみたいに魂も見えないし、猫の言葉も分からない。でも、口下手なミケさんの代わりに、言葉を届けるのがわたしの役目だから」
紡生は自分の意志でここに来た。決意は、固く決まっていたのだ。
「結末が少しでもよくなる可能性があるなら、やってみたい」
「……」
紡生は微かに笑って「大丈夫」と口にした。
そのまま耳に口を近づけ、皆で考えたという作戦を耳打ちする。
「……なるほど」
告げられた作戦なら、部の悪い賭けという訳でも、運次第という訳でもない。
危険はあるけれど、それでも、このまま戦うよりは、ずっといい。
(だったら、賭けてみたい)
そう考えている自分がいた。いつの間にか、紡生に感化されていたようだ。
紡生の言葉は、理想ばかりだ。
それでも。そんな理想が、いつの間にか、自分の理想となっていた。
「しゃーねぇな」
ミケはふっと笑みを漏らした。
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