忍び寄る危険(1)
翌日の早朝。紡生は
倒れていた猫の様子を見るためだ。
あの猫は病院に運び込まれてすぐ、集中治療室へと連れていかれた。
そうなると紡生にできることは何もなく、ずっと病院にいる訳にもいかない。そのため、一時的に帰宅せざるを得なかった。
けれど気になって居ても立っても居られない。結局、朝早くから病院へと押しかけたのだ。
「おまたせ」
顔をあげると病院の中から、制服を着た女性が出てきた。その首には『
「お
「つむ、ろくに寝てないでしょ」
「だって……」
夏苗は紡生と七歳差の、
一人っ子の紡生にとって、むぎが一番の姉なら、夏苗は二番目の姉だった。
「とりあえず、裏に行きましょう。診察時間前とはいえ、ここで話すのもなんだわ」
夏苗は営業時間外にやって来た紡生にも怒らず、慣れた様子で病院の裏側へと回っていった。
裏には、ベンチとテーブルが置かれていた。従業員たちの休憩場所なのだろう。毛布やクッションまで用意されている。
夏苗はベンチに腰を掛けると、ため息とともに口を開いた。
「つむ、なにか危ないことをしているわけじゃ、ないのよね?」
「してないってば」
「でも、こう
呆れたように目が細められた。
ちょうど一か月前、怪我をしたハチを運び込んだのが、夏苗の勤める白動物病院だった。
一月に一回ペースで、
「急に駆け込んだのは、ごめん。……でも」
「まあ、つむが怪我した猫を見て、放っておけるわけがないってのは、重々承知だけどね」
夏苗は、明らかに気落ちした紡生をベンチに座らせると、クッションを持たせて、あやすように肩を叩く。
「それにしたって、今回の子は
「あの子……。どうなったの?」
「
昨日の猫は素人目にも
「お従姉ちゃん、どうにかできない?」
「手は尽くすつもりよ。でも正直、あの子の生命力に賭けるしかないと思う」
「そんな……」
白動物病院は、腕の良い院長が経営していると評判での病院だった。町の動物病院としては規模が大きく、設備も充実していると。
その院長こそ、夏苗であった。
そんな従姉にすら、どうすることもできないという事実が重くのしかかる。
「……これは、言おうかどうか、迷ったんだけど」
うつむいた紡生に、ためらいがちな声がかかる。少しだけ迷い、夏苗は再び口を開いた。
「あの子だけじゃないのよ」
「え?」
「様子がおかしくて運ばれてくる子がね。少なくとも、ここ一週間で、五件。あの子と同じように外傷はないのに、倒れていて、うちに運ばれてきてる」
「ご、五件⁉」
「そう。皆、うちに来た時にはもう……」
紡生は言葉を失った。
一週間に五件。同じ症状で運ばれてきた。偶然というには多すぎる。これではまるで……。
「人の手によって、故意に引き起こされているとみて、間違いないでしょうね。症状からすれば、毒を呑まされたんだと思うわ」
「そ、そんな……」
「うちに連れてこられた子たちは、皆さくら猫だった。でも他で見つかった子の中には、首輪をしていた子もいたそうなの。
頭を殴られたようだった。
そんな非道なことをする人が、この街にいるなんて思いたくない。
「しかも、それだけじゃないの」
「……どういうこと?」
「皆、酷く痩せていたの。つむが連れてきた子のように」
紡生が運んだ猫は、骨が浮き上がっていた。それこそ、数日間、何も食べていないかのような。
「……それって」
「うん。猫を捕まえて、餌をあげず、あるいは毒餌を少しずつ与えて、弱らせてるんだと思う。……むごいことするわね」
夏苗は心底
彼女の話が本当だとしたら……。
わざわざ捕まえて、弱らせて、いざ体力が尽きそうになったら、用済みとばかりに
「なんで……」
「それは分からないわ。でも、明らかに異常事態よ。警察も動き出しているわ。もしかしたら、大きな事件になりかねないからって、パトロールも強化されたみたい。何カ所かで、毒のようなものも見つかったそうよ」
「っ」
この街に、毒がばらまかれている。誰が、どうしてそんなことをするかは分からない。
けれど、あらゆる危険があるのは分かる。
もしも散歩中の犬が食べてしまったら? もしも公園などにあって、子供が触れてしまったら?
そういう事故につながりかねないのだ。この街に住んでいる身としては、不安が尽きない。
膝に置いた手に、無意識に力がこもる。
ガタン、と音がした。どうやら、従業員が出勤し始めたようだ。
夏苗も動き始めなければならないらしい。
「もしもまた様子がおかしい猫がいたら、すぐに教えてちょうだい。いつでも救えるように、全力で尽くすから」
そう言い残すと、慌ただしく戻っていった。
紡生は頭の中を整理しつつ歩く。
猫を意図的に苦しめている人が、この街のどこかにいる。
しかも、すぐに殺さず、じわじわと弱るのを待っているかのような、むごいやり方を好む、
そんなの――
「絶対に許せない」
以前、ミケが言っていた。地域ネコの数が少なくなっていると。
もしかしなくても、今回のことと関係があるのだろう。となると、あわせ屋に依頼が入っているかもしれない。
そうでなくても、なにか自分にできることをしていたかった。事件のことを知った今、ただじっとしているだなんて性に合わない。
紡生は足早にあわせ屋へと向う。
「?」
猫社の前までやって来ると、ふと足を止めた。誰かに見られているような気がしたのだ。振り返って、見渡してみる。
猫社で願い事をしている老婦人。夕食に使う食材を買い足す主婦。客を呼び込む商店街の店主の声。猫社も、商店街も、いつも通り賑わっている。
けれど、どこか。いつもとは違う、緊張感が漂っているような気がする。
それが何か。どれだけ考えて見ても、分からない。
……嫌な話を聞いたから、神経質になっているのだろうか。
そうかもしれない。きっと気のせいだろう。
紡生はそう考えると、早くなる心臓を押さえて、足を進めた。
今は、足を止めている時間などないのだから。
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