こわもて飼い主と、猫たち(3)



「つまり……とらじろうが変な行動をしているのは、俺のせいってことだな」


 小さくつぶやかれた言葉は、店内を流れる音楽にかき消される。

 背中は丸められ、握られた拳は何かを耐えるように、フルフルと震えていた。

 きっと、喪失感そうしつかん罪悪感ざいあくかんがせめぎ合っているのだろう。


「……どうしたら、いいんだろうな」


 ややあって上げられた顔は、悲しみの滲む笑みだった。

 悲しみを打ち消そうと、必死に気持ちを抑えようとしているのが伝わってくる。


「本当は、そうなんじゃないかって、思ってたんだ。とらじろうは、俺のことをよく見てる、優しい猫だから。俺だって、早く立ち直らなきゃって思ってる。……でも、どうしても無理なんだ」


 黒永は思いだすように天を仰いだ。


「……アズキは、妻を亡くして自暴自棄じぼうじきになっていた俺に、生きる意味を教えてくれた子だから」


 黒永の妻は八年前に病気で亡くなったそうだ。二人の息子が巣立ってすぐのことだったらしい。


「落ち込んで、やさぐれて、なんで自分だけ生きているんだって、毎日嘆いていた。家に一人なのが寂しくて、酒にひたるようになって、路上で寝ているなんてこともあった。……そんなとき、アズキがやってきた」


 どこからやって来たのか。路上で目が覚めたとき、気がついたら傍にいたらしい。人懐っこい黒猫だった。


「俺さ、こんな顔だから。初対面で怯えられないのって、あんまりないんだよね。だから驚いたよ。警戒心が強いはずの猫が、俺を見て怯えるどころか、近寄って来るなんて」


 当時のことを思いだしたのだろうか。どこか遠くを見つめる黒永の鼻は、少しだけ赤かった。


「すり寄ってくれて、舐めてくれて。まるで励ましてくれているようだった。……アズキは、妻に似ていたんだ。いつも心配してくれて、元気をくれて……。もしかしたら、妻が猫になって来てくれたのかもって、そう思うようになった。立ち直れたのは、アズキのおかげなんだ。……それなのに」


 ふっ、と言葉が途切れた。

 落とされた視線は、小刻みに震えるてのひらに注がれていた。


「アズキの体調にも、気がついて、やれなくて。気がついたときには、もう、取り返しが、つかない状況だった」


 黒永はついに顔を覆った。

 言葉に詰まり、覆われた頬から雫が伝っているのが見えた。


「……」


 紡生はただ黙って耳を傾けていた。

 目の奥がジンと熱を帯びていくのを感じる。彼がどんな思いなのか、よく分かるから。


 ああすれば、こうすれば。あのとき異変に気がつけていたら。もしも自分ではなく、他の人に拾われていたのなら。

 もしかしたら、今も病気にならずに、生きていたのかもしれない。もっと別の幸せが、あったのかもしれない。


 そうやって気がつけなかった自分を責め、後悔に押しつぶされそうになっているのだ。


「……だから、アズキちゃんは幸せじゃなかったと、思うんですか?」


 自然と言葉がこぼれた。思ったよりも震えた声が出てしまったが、それでも言葉は止まらない。


「楽しかった思い出もあったはずなのに……、できなかったことばかりを数えるんですか? 幸せだと思った日々も、なかったことにしちゃうんですか?」


 九年間。黒永がどれだけアズキを思ってきたのかは、先ほどの話で分かる。きっと一緒に暮らしていて、幸せだと思うこともたくさんあっただろう。

 一緒にご飯を食べたこと。布団に潜り込んできたこと。後ろをついて回ったこと。なんでもいい。普通のことでも、些細なことでも。


 一度も幸せだと思わなかったことなんて、きっとない。

 だって、もしそうなら。アズキだって、九年間も黒永の元に居続けなかったはずだから。

 だから、その小さな幸せを、なかったことになんて、してほしくない。


「それがアズキちゃんの望みだと、本当に、そう思うんですか」

「小宮さん……」


 黒永は涙の滲んだ目を見開いた。


「……でも、アズキは俺を憎んで、この世に残っているんじゃ……?」

「猫は嫌な人には近づかないし、どうでもいい人には時間すら使わない」

「え?」

「前に、ミケさんが言っていました」


 紡生がミケに言われて救われた言葉だ。

 嫌だと思った相手からは離れていくし、触らせることも、すり寄ることもないのだと。そんな猫が、魂だけになっても家にいる。それが指すことは……。


「あなたのことが、大好きだから……。あなたのことが心配だから、今も留まっているんじゃないかな」


 とらじろうが縄張りの変化を感じ取っているように、きっとアズキも、縄張りだった家の変化を気にしている。

 その変化は自分がもたらしたものだから、どうにか仲間を安心させようとしているのではないだろうか。


「そうでしょ。ミケさん」


 紡生はそうであってほしいと願い、ミケを振り返った。

 この場でただ一人、猫の言葉が分かる人。猫の、アズキの気持ちを代弁できる人を。

 そして彼もそのことを理解している。珍しく神妙しんみょうな面持ちで頷いた。


「恨みを抱えて死んだ者は、恨みの元にくものだ。時だけ、場所に憑く。それに、そう言うやつらの声は、恨みにまみれていてろくに聞こえない」


 透き通った声が、辺りに響く。ざわついている店内なのに、その声だけがやけにはっきりと聞こえた。


「あんたを憎んでこの世に留まっているのなら、あんたに憑いているはずだ。でもこいつは、そうじゃない。声も透き通っているし、恨みなど、吐いていない。聞こえてくるのは……、仲間を心配する声だけだ」


 ミケはもう一度動画を再生して、ふっ、と優しい微笑みを浮かべた。


「ここ。このキャットウォークの途中。ハウスに行くまでの、ここが定位置だったみたいだな。片足を宙ぶらりんにして、寝るのがお気に入りらしい」

「……なん、で」


 黒永ははっと息をのんだ。

 ミケが指したのは、画面のちょうど真ん中。とらじろうが見上げている壁の辺りだ。


 部屋の隅。壁の上。自分のテリトリーをくまなく見渡せる場所。ハウスまで行かず、その途中の狭い足場に寝そべり、足を投げ出して眠りこけるのがアズキの日課だった。

 それを誰かに話したことなど、なかったはず。それなのに、なぜ。


 そんな黒永の視線を受けたミケは、面倒くさそうに一つだけため息をついた。


「こいつが言っただろ。オレは猫と話せるし、魂だって見えている。まだ疑ってんのか」


 あごで示された先には、もちろん紡生がいる。


 まさか本当に。本当に、真実だったのか。見開かれた目は、そう如実に語っていた。


「アズキは……なんて……」


 黒永はどうしても知りたかった。何か言いたいことがあって残っているのなら、全て吐き出してほしい。

 いつの間にか黒永は、すがるような目で見ていた。そこにはもう、疑いの色は一切いない。


「……あんたのことは、狩りもできない、ダメな猫だと思っているみたいだ。だから、守ってやらないとって」

「狩り……?」

「こいつ、外に行くたびに鳥とか虫とか、咥えてきたんじゃないか? まだ生きている奴をな」

「あっ」


 思い当たることがあった。

 アズキはもともと外で暮らしていたからか、定期的に外に行きたがった。そのたびに、小さな獲物を咥えて戻ってきていた。


「猫……特にメスは、子猫の元に餌を運んで、狩りを覚えさせる習性があるのは知っているか?」


 半殺しの状態で持ってくるのは、仕留め方を教える為とも言われている。

 それを人間にやるということは、飼い主を子猫、つまり面倒を見る対象として見ているということ。

 黒永は、アズキにとって、守るべき対象だったのだ。


「アズキ……」


 黒永はそれに気がつき、小さく名前を呼んだ。もう戻らない、いとし子の名を。


「けど、あんたが狩りをマスターする前に、自分の体調が悪くなっちまった。だから心配いているんだろう。まだいてやるって、言っているぞ」


 そっけなく言いきったミケは、ふいっと視線を外し、紡生をみた。

 もう言うべきことは言い切ったから、後はお前がやれとでも言いたげだ。


 紡生も頷いて言葉を受け継ぐ。


「肉体を失っても、あなたを心配してくれている。それだけアズキちゃんにとって、あなたの存在が大きかったんだと思う。飼い主としても、仲間としても。……それでもまだ、恨まれているって思いますか?」

「っ」


 そう告げれば、黒永は顔を歪めた。伝った雫が、テーブルに落ちる。

 一滴、二滴。その後も、とめどなくあふれてきた。必死に耐えようと唇を噛んでいるが、止められるものではない。


「……っ、バカ、だよなぁ、……俺っ」


 嗚咽おえつ交じりの声が小さく響く。


「本当は……分かっていたんだ。アズキが、俺を恨むわけ、ないって。もともと外猫だったから、出ていこうとすればいつでも出ていけた。それでも、アズキはずっと、傍にっ、いてくれた。最後まで俺を見放さないで、ささえてくれて……。自分の方が、体、痛いだろうに……っ! 俺は……!」


 アズキは死ぬ直前まで、黒永の元へと寄ろうとしていたらしい。命が消えるそのときまで、傍にいたかったのだろう。病の身体を引き摺っても、黒永の傍に――。


「……これから先、どれだけ時間が経ったって、後悔はなくならないと思う」


 紡生はゆっくりと口を開いた。

 猫が自分を恨んでいようがいまいが、「たられば」は尽きることはない。ふとした瞬間に思い起こされては、心をさいなむ刃になる。けれど。


「それでも、アズキちゃんの想いはあなたに届いた。確かに愛されていたんだって。それはなくなることも、変わることもないんじゃないかな」


 不安に駆られることもあるだろう。寂しさで押しつぶされることもあるだろう。

 そんな時は、思いだしてほしい。共に過ごした時間を。


「大切だった分、すぐに切り替えろなんて言いません。でも、少しずつでも前を向いて、もう大丈夫だよって、示してあげてほしい。……きっと、安心させてあげるのが、飼い主の……最後の役目だと思うから」


 そして少しずつ。すぐにはムリでも、少しずつ歩んでいく。そうやって前を向くしかないのだ。


「……そう、だね。その通りだ」


 しばらく痛ましい嗚咽をこぼしていた黒永は、呼吸を落ち着かせるように大きく息を吸いこんだ。

 乱暴に袖で頬を拭うと、真っ赤になったままの目で、うすく笑う。


「一緒にいた日々が、無くなるわけじゃないんだよね」


 気持ちの問題は、自分自身でケリをつけるしかない。だから黒永次第なのは変わりない。


 けれどもう、大丈夫だろう。

 黒永が立ち直れれば、アズキも安心して逝くことができる。そうなれば、とらじろうの奇怪な行動も収まるはずだ。

 そうなる日も、きっと遠くない。そう思える笑みだった。


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