迷い猫探し(4)
「ハチ! すみません、ハチの飼い主です! って、貴方、今朝の!」
ハチを病院へと運び込み、治療を受け終わった時、赤堀が駆け込んできた。
大きな声ではないが、
軽く
「連絡した小宮です。ハチちゃん、元気そうでしたよ。足のケガも大したことはなかったみたいです」
「よ、よかった……!」
体に入っていた力が見る見るうちに抜けていく。ついにはその場にへたり込んでしまった。涙を浮かべて、何度もお礼を口にしている。
「お願いしたものは持ってきてくれました? たぶん、まだ緊張状態だと思うので」
「ええ! ケージといつも使っている毛布はここに!」
「よかった。多少は安心するかも」
「本当に、なんてお礼を言ったらいいか……!」
「無事に見つかって、本当によかったです。さ、様子を見てきてあげてください」
赤堀をハチの元に促して、紡生は外に出た。
病院の外、少し離れた場所にミケがいた。どうやら、病院が嫌いらしい。一緒に入ろうと言っても、全く入ろうとしなかったのだ。きっと薬品の匂いが嫌なのだろう。ペットあるあるだ。
ミケにも該当するとは思わなかったが、なんだか可愛らしく思ってしまう。
紡生は笑いそうになるのを我慢して、ミケに近づいた。
「……臭いな」
「えっ⁉ うそ!」
ドキリとした。思わず歩みを止め、自分の体の匂いを嗅いでみる。
自分の鼻では分からないが、数時間、病院にいたせいで匂いがついてしまったのだろうか。
「別に、あんたに言ったわけじゃない」
ミケは遠くを見つめたまま、目を細めていた。紡生も視力は悪くないはずだが、ミケが何を見ているのかは分からなかった。きっと、また見えない何かなのだろう。
しばらくすると、ミケはふっと力を抜き、ようやく紡生を振り返った。
「で、どうだった?」
「え、ええと。けがは大したことなかったです。治療も大人しく受けてくれました。喧嘩の痕ではないから、たぶん、ガラスかなにかの
「……そうか。飼い主は?」
「泣いて喜んでいましたよ! さっき確認してもらって、今は感動の再会中です。たぶんそろそろ出てくると思いますよ」
病院の方を見ると、ちょうど赤堀が出てきた。抱えられたケージには、ハチがちょこんと入っている。
赤堀は紡生たちを見つけると、小走りに近寄ってきた。
「本当に、ありがとうございました! なんとお礼を言ったらいいか……」
「いえいえ。無事でよかったです」
「本当に、この子がいなくなって、生きた心地がしなくて……」
そういう赤堀の顔には、疲労が浮かんでいた。今朝会ったときもくたびれた印象を受けたが、やはり精神的にも追いつめられていたようだ。
「……おい、あんた」
そのとき、黙って見ていたミケが、唐突に声を上げた。その視線は赤堀をとらえている。
紡生は少しの驚きを感じたけれど、振り仰いだ顔があまりに真剣だったから、口を
「私、ですか?」
「おとなしい猫だろうと、活発な猫だろうと、脱走する可能性は等しくある。だが、家の中にいた猫にとって、外は未知の領域。恐怖で動けなくなることが多い。それがどれだけ危険なことか、分からないわけじゃないだろ。家の中しか知らなかった猫が、外で生き残れる可能性なんて、ほとんどないんだぞ」
ミケは責めるような口調で、
車にひかれてしまうかもしれない。野良猫と喧嘩になるかもしれない。今回のように怪我をしてしまうかもしれない。そうした可能性は、決して低くない。
道路で猫や動物が轢かれていたのを、紡生だって、見たことがある。
動物たちに人間のルールや常識なんて通じないし、危険なものも分からない。
それに猫は驚くと固まってしまうこともある。そしてそのまま……なんてことも、ありえないとは言えないのだ。
「今回はオレ達が見つけられたが、見つけた奴らが良いやつだとは限らない。害意をもったやつに見つかれば、
ミケはそれだけ言って
「え、ちょっと、ミケさん⁉」
ミケの言い分にも納得はできるが、いかんせん言い方というものがある。
一番心配していたのは、間違いなく飼い主だ。外が危ないということも分かっていたから、必死に探していた。そしてやっと再会できて安心したはずだ。
それなのに「飼うべきじゃない」なんて言葉は、あまりにも酷い。
しかも言うだけ言って、当の本人はさっさと歩いて行ってしまう。
紡生は慌てて声を上げたが、ミケの姿はどんどん遠くなる。止まるつもりはないようだ。紡生は少し追いかけるべきか迷ったけれど、結局、捕まえるのは後回しにして、非礼を詫びた。
「いえ。彼のいう通りです。命を預かるのが飼い主の務め。それなのに私は、予防を
しゅんと
後悔ばかりが頭を占めて、自分を責め続けているのだ。
でも、ハチは生きて戻ってきてくれた。だから、後悔するよりも、前を向いてほしい。そんな気持ちが湧いてくる。
気がつけば、紡生は自然と口を開いていた。
「……命を預かるって、楽しいばかりじゃない。時に自分が思いもしないことも起こるし、失敗することも、後悔することだってある。でも失敗したからって、飼い主失格だなんてことないと思う」
「……え?」
赤堀はうつむきかけた顔を上げた。その目は、今でも深い後悔に沈んでいる。
紡生は真っ直ぐにその視線を受け止めた。
「飼い主失格っていうのは、そこからなにも感じない、学ばないことだと思う。そう言う人は、飼い猫がいなくなっても、そんなに落ち込まないよ」
脱走したのに探さない。心配しない。脱走の予防もしない。相手のことを、知ろうともしない。
愛情を注がずにお金稼ぎの為の道具として見ていたり、持っていることをステータスにしていたり。そういう人も世の中にはいると、知っている。
飼い主の資格がないというのは、そう言うことだろう。
だけど赤堀は、そうではない。普段はちゃんと防止柵を付けていると言っていたし、心配で探し回っていた。チラシを見ている人に声をかける程、無事を願っていたのだ。それは愛情をもって接していたという、何よりの証拠だ。
それだけははっきりと分かる。
「それに、あなたのことが嫌いになったから、脱走したってわけじゃないと思います。だって、あなたが病院に来た時、ハチちゃん、体中に入っていた力が少し抜けた感じがあったもの。きっとあなたを見て安心したんだと思う」
「ハチが……? でも、探している時は呼んでも逃げられて……」
「それは赤堀さんを嫌ってのことじゃないですよ。猫は環境の違いにとても敏感な生き物です。慣れない外にいるのに、飼い主さんのいつもと違う必死な声を聞いたら、余計に警戒して出てこなくなってしまうんです」
だから大声で探し回ったり、追いかけたりするのは逆効果になってしまう。
信頼する飼い主の様子が普段と違うことを察しているから。そして飼い主を信じているからこそ、必死な声がすれば、きっと良くないことが起こっているのだと思う。だから身を潜め、動けなくなってしまうのだ。
「そういう習性なんです。あなたを信用しているからこそ、それが収まるまでじっと待とうとおしたんでしょう。でも、ずっと同じところにはいられなかった。他の猫にあったのかも。そして逃げているうちに、帰り道が分からなくなってしまった」
そして逃げ惑ううちに、足を怪我してしまった。
ずっと不安で、怖くて、寂しくて。一人あの場所で蹲っていたのだ。
「きっと帰りたがっていた。だから今は、ただ傍にいて、いつも通り話しかけてあげてください。すぐには落ち着かなくても、きっとあなたの傍なら、落ち着ける様になりますから」
「っ!」
赤堀は、とうとう涙をこらえきれなくなったようだ。ぽろぽろとこぼれた雫が、ケージの上に落ちる。
「にゃおん」
ハチが鳴いた。ケージの中から赤堀を見上げ、不安そうにうろうろとしている。
まるで「どうしたの、大丈夫?」と言っているようだった。
赤堀は落ちた涙を拭い、何とか笑顔を作った。
「ごめん、ごめんねぇ。大丈夫だよ。おうちに、帰ろうねぇ。一緒に、帰ろう、ねぇ」
震える声は、それでも温かさが籠っていた。もう、大丈夫だろう。
「それじゃあ、わたしはそろそろ行きますね。ハチちゃん、見つかって本当によかったですね」
「あっ、待って! お礼を……」
「気にしないでください。見つけられて、わたしも嬉しいですから」
「でも……」
女性はどうしても気にかかる様だ。
とはいっても、今回見つけられたのはミケのおかげだ。なにもやれていない身としては、お礼を受け取るのは気が引ける。
それに一匹の猫とひと家族の助けになれたのなら、それだけで満足だ。
「うーん。じゃあ、猫社にお礼を伝えてください」
「猫社に……? えっ、でもなぜ?」
「あっ!」
そうだ。紡生は裏事情を知っているが、赤堀が知るはずがない。猫社と今回の騒動が結びつくとは思っていないだろう。
それなのに口を滑らせてしまった。どうにかごまかさなくては。
「え、えーっと。こんなこと信じられないかもしれないですけど、夢でハチちゃんがあそこにいるって見たんです。わたし、実は猫社の関係者なので、神様が導いたのかなって思って! それだけなんで! それじゃっ!」
不思議そうに首を傾げる赤堀に別れを告げて、紡生は走り出した。
◇
「あ」
猫社の前までくると、階段に腰を掛けてぼんやりとしているミケを見つけた。
ミケも気がついたようで、目が合うと頭をぼりぼりと掻いて立ち上がった。
「……どうなった。さっきのやつ」
「どうって……」
ミケはあからさまに気まずそうに尋ねた。言葉が悪かった自覚はある様だ。
「そんなに気にするなら、あんなふうに言わなければよかったんじゃないですか? 赤堀さんが一番不安だっただろうし、反省も後悔もしていたのに……」
「事実だろ」
「言い方の問題だってこと」
「じゃあどう言えばよかったんだ? きつく言わないと、人間は同じ過ちを繰り返すだろ」
「えっ。じゃあ、あれはハチちゃんと赤堀さんの為に……?」
紡生のつぶやきに、ミケはハッとした。そして舌打ちを零す。
どうやら、言うつもりじゃなかったことまで言ってしまったようだ。
「別に、あいつらの為じゃねぇよ。何回も繰り返されちゃ、オレの仕事が増えるだろ」
頭を掻きながら吐き捨てるように零される言葉が、今はもう、照れ隠しのようにしか聞こえない。
思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「でも、あんな厳しい言い方ばかりしていたら、誤解されちゃいますよ? せっかく優しいところもあるのに……」
「……別に、いい」
ミケは背中を丸めてそっぽを向いてしまった。
(本当に素直じゃない……)
紡生には、なんだかミケが子供のように見えてきた。
「……ミケさんがよくても私は嫌だな」
「はあ? なんであんたが嫌がるんだよ」
「そりゃあ、ミケさんの頑張りを知っているから、かなぁ。ハチちゃんだって、ミケさんじゃなかったら、見つけられなかったかも。それだけすごいことをしているのに、変な勘違いで悪く言われるなんて、嫌じゃない」
「別に、あんたには関係ないし、いいだろ」
「関係なくないし、よくない! だってミケさんとわたしは、あわせ屋仲間でしょ?」
「それは、あんたが勝手に言っているだけで……」
「勝手にそう思っていることにしたの!」
紡生に望まれた役目は、ミケをサポートすることだ。恐らくはアメもこのままではよくないと思っていたのだろう。なんとなく理解した。
(ミケさんはひねくれ者だ。でも、心根は優しい人だって、知ってる)
助けを必要としている誰かがいたら、放っておけない人だ。
紡生とむぎの時もそうだった。
慰めの言葉なんて口にはしないけれど、ただ傍にいてくれた。紡生を、一人にしないでくれたのだ。
それに、今日一日、結局紡生を置いていくことはしなかった。本当に嫌ならいつでも置いていけただろう。けれどなんだかんだ言いながら、仕事も教えてくれた。
口数は少ないし、言葉は足りないし、素直じゃない。普段から素気ない態度だから、勘違いされてしまうけれど。それでも、自分はもう中身を知ってしまった。
(うん。決めた!)
紡生はミケの正面に立つと、真っ直ぐに目線を合わせた。
「だからミケさんが勘違いされたままにならないように、フォローする! それが、わたしの役目だって思うから」
「はあ?」
素っ頓狂な声が聞こえた。そんなこと言われるとは、予想もしていなかったのだろう。
そんなミケの様子を見て、紡生はニコリと笑った。
「いつか『紡生がいて良かった』って言わせてあげるわ! 覚悟しておいてくださいね? わたし、やるって決めたら諦めないので!」
諦めるという言葉は、紡生には存在しない。それこそが、紡生の長所。ミケが認めていないのなら、認めさせるまで。
ミケは何度か瞬きをして、呆れたように、口元を覆った。
「……勝手なやつ」
「勝手で結構! それにミケさんみたいなひねくれ者には、このくらいでちょうどいいでしょ?」
「ふん、言ってろ」
憎まれ口を叩いてくるも、手の端から覗く口角はかすかに上がっている。それもまた、愛嬌のうちだ。
昼下がり。少しだけゆったりと流れる時間の中、二人は隣を歩く。
朝、大幅にずれていた歩幅は、少しだけ縮まっていた。
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