紡生とあわせ屋(2)


 泣き出しそうな空模様。けれど雨は一向に降りださない。ぶ厚い雲の層は、紡生つむきの心を表現したようだ。


 ――むぎが、死んだ。


 数日前、ちょうど猫社にお参りに行った、その日に。

 電話を受けて一目散に帰宅すると、むぎはもう、ほとんど動いていなかった。

 辛うじて息をしている状態で、その呼吸音も弱弱しい音しか出ていない。そんな状態だった。


 ああ、もう……ダメなんだ。


 そう直感で分かる姿に、紡生は涙を耐えながら傍へと駆け寄った。

 名前を呼びながら、いつもそうしていたように、ゆっくりと優しく頭を撫でてやる。


 …………にゃー


 僅かに口が開き、掠れた声が聞こえた。そして……ふっとむぎの体から力が抜けたのが分かった。

 まるで紡生を待っていたかのように、一瞬で。

 僅かに残っていた温もりも、徐々になくなっていく。その感覚が、今も指先に残ったまま。


 むぎの葬儀を終えても、紡生は体の一部を失ったかのような喪失感をぬぐえずにいた。

 幸い、大学は春休みだったので単位の心配はない。けれど今はただ、何もやりたくない。どこにも行きたくない。ただ、むぎがいた場所に、いたかった。


「むぎ……」


 呟いてみても、もう返事は返ってこない。家の中の、むぎが好きだった場所を探してみても、見つかるわけもない。けれど、それでもむぎを求めてやまないのだ。

 紡生はベッドに倒れ込んだ。むぎといつも一緒に寝ていたベッドだ。

 かすかに、むぎのいた形跡が残っている。抜け落ちたヒゲを見つけると、紡生は余計に深く沈んでいった。


 もっとやってあげられることが、あったんじゃないか。

 ちゃんと幸せだったのだろうか。

 延命治療を受け続けていたのは、本当は嫌だったのではないか。

 自分のしたことは、むぎを苦しめていただけなのではないか。


 そんな思いが頭の中をグルグルと廻る。答えなんて、出るはずがないのに。


「……猫社にお参りしに、行ったのになぁ」


 むぎの気持ちを知りたくて、あの日、時間を削って猫社に向かった。けれど遅すぎたのか、願いが届かなかったのか。紡生の願い通りに、むぎの気持ちを知ることはできなかった。


「結局、なにも分からなかったな……」


 自分は、むぎに何をしてあげられただろうか。むぎの時間がもうないことが分かっていたら、猫社に向かわずに、ずっと傍にいてあげればよかった。後悔ばかりが次々と出てきて、止められない。


 神がいるのなら、聞いてみたかった。あの子は、本当に幸せだったのかどうか。


 気がつくと紡生の足は、猫社へと向かっていた。

 けれどいざ神社を目の前にすると、鳥居とりいくぐる気にもならない。


 ――リリン


 ふと、鈴の音が聞こえた。

 顔を上げると、商店街の入口に、あのときの白猫がいた。白猫は紡生をじっと見つめると、商店街の奥へと消えていく。


「――そういえば」


 あの白猫を追って向かった先、あの男の人に出会った。ふしぎな雰囲気を持つ、男の人。変な場所にいた、あの人。

 別れ際、あの人は何と言った?


 ――猫を飼っているか


「なんで、猫を飼っているかなんて聞いたの? どうして白猫って……」


 ただ聞いただけかもしれない。なんとなく、あてずっぽうかもしれない。


(でも……あの響きは……)


 猫を飼っているのを確信した響きだった。

 それに迎え入れたのに、急に帰そうとしてきたのも気になる。タイミングが良すぎたのだ。

 だって、あの屋敷を出た瞬間に電話が掛かって来た。まるでむぎが危篤きとくだって分かっていたかのように……。


 そう考えたら、自然と足が向かっていった。


 一度しか行ったことがない場所、しかも路地裏なんて、案内がなければたどり着けないような気もした。けれど驚くほどすんなりと、目の前にあの門が現れた。

 前も見た、古びた木製の門扉。決まりごとのように、少しだけ開いた扉から見える広い庭。その奥にある大きな屋敷。


 ――あの場所だ。


 紡生は扉に手をかけた。向かう先は屋敷の玄関、その横にある縁側えんがわ。あの人と初めて出会った場所だ。

 予想通り、縁側には、ぼうっとしているあの男の人がいた。その隣には、紅白の首輪をしたあの白猫が丸まっていた。


「……なんだ。また来たの」


 こちらを見ずにつぶやかれた言葉にどきりとする。けれどそれは、紡生に向けられた言葉ではなさそうだ。


「まぁ、その様子じゃ、向こうになんていけないか」


 そう言って振り返る男性の視線は、紡生のへと注がれていた。誰に向かって話しているのかは謎だが、そんなこと、今の紡生には関係なかった。


「あなた……なんで分かったの?」

「何が?」

「とぼけないで。むぎのことよ」

「むぎ?」

「飼い猫よ! わたしの飼い猫! 名前はむぎ。あなたが帰れって言った日! あの日、むぎは……っ」


 尚もとぼける様に首を傾げる男に、気が障った。

 紡生は声を荒げ、男をキッとにらみつける。頭では分かっている。これは八つ当たりだ。この男に声を荒げても、なんの意味もない。

 それでも、喉に力を入れていなければ声が震えてしまいそうだった。だからつい、きつい言い方になってしまった。


「……あぁ。そいつのことか」


 男は紡生の足元を見つめたまま、ようやく気がついたというようにつぶやいた。

 男の目が、紡生を捉える。琥珀こはく色の瞳が、ゆらりと光ったように見えた。


「そんなの、ここが『あわせ屋』だからに決まっているだろう」

「あわせ屋……?」


 確か、門の前にある看板に、そんな言葉が書いてあったような気がする。だが、そう言われてもイマイチぴんと来ない。


「なんなの、その、あわせ屋って……」

「簡単にいえば、猫社の下請したうけってところか」

「下請け……。猫社の……?」

「そう。猫社に祈られた願いを叶えるための場所。あんた、あそこに行って願っただろ。『猫の望みがしりたい』って」

「っ!」


 神社の下請け? 願いを叶えるための場所?


 そんなことを言われても、信じられるはずもない。

 けれど、なぜか男は紡生の願いを知っていた。誰にも話していない、神社で祈ったことを。

 だとしたら。


「わたしの願いを叶える、ってこと?」

端的たんてきに言えば、そうなる。だが、叶えるのはけどな」

「え?」

「あんた達の願いは受け入れられた。だから、ここに導かれた」


 話がよくわからない。だって、紡生の願いは叶わなかった。

 だってむぎは……。


「ムリだよ。だって、だって、むぎは、もう……」


 眼の奥がズンと重い。けれど涙は出そうになかった。握った掌に、爪の痕だけが残っていく。


「肉体はないけれど、話すことはできる」

「……え?」


 何を言われたのか。紡生は分からずに男を見る。


「オレは、猫と話すことができる。生きてようが、死んでようが、どちらでも、な」

「猫、と……?」


 紡生に衝撃しょうげきが走った。だって、それが本当なら、むぎのことが分かるかもしれない。むぎが、なにを望んでいたのか。むぎ自身が、どう思っていたのか。

 それは、紡生が一番知りたかったことだ。でも……。


(むぎに、恨まれていたら? 嫌われていたら?)


 寿命にあらがい、延命治療を受けることを決めたのは紡生たち人間だ。もしも本人が望んでいなかったとしたら、望まぬ苦痛を与えていただけということになる。

 そうであれば、痛みばかり与える紡生を、憎んでいてもおかしくない。

 仮に話すことができたとしても、なにもしてあげられなかった自分を責める言葉が出てきたら。紡生は耐えられそうになかった。


「……なら、むぎがどんな猫だったか、分かる?」


 臆病おくびょうだったのだ。それを聞くくらいなら、それを真実だと言われるのならば。変な男の妄言もうげんだと思っていたい。

 だからこそ紡生は、男を疑う材料を欲しがった。むぎのことを知らないはずの男が、むぎのことを当てられるわけがない。

 そのはずなのに。


「……白地に黄土色おうどいろの麦みたいな模様が、尻尾の付け根にある猫。あぁ、だからむぎか。結構な年齢だったみたいだな。若い時はあんたのベッドの枕がお気に入りの場所だった。年老いてからは、登れなかったみたいだがな」

「なん、で」

「そこにいる猫……むぎがそう言ってるからな」


 男は、何の迷いもなく、そう口にした。

 名前の由来になった模様や、その位置。そして家族しか知るはずのないお気に入りの場所まで。

 告げられる特徴は、まごうことなく、むぎのものだった。それが示すのは……。


(本当に、猫と……)


 いや、それ以前に死んだ猫の魂が、まだここにあるとでも言いたいのだろうか。

 ちゃんと葬式そうしきをあげた。供養くようもしている。それなのに、魂がまだこの世にいるのだとしたら……。


「っ」


 紡生の頭に、最悪な予感が広がる。もしかしたら、成仏じょうぶつできないほど恨まれているのかもしれない、と。

 さあっと血の気が失せ、体が小刻みに震える。


「まあ、信じなくても結構。でも、あんたが初めに来た時、そいつはいなかった。けど茶を入れてもどったとき、玄関に魂の片鱗へんりんが座っていた。たぶん、自分が長くないことを、あんたに伝えたくて来ていたんだと思う」


 確かに、あのときお茶を入れて戻ってきてから、男の態度たいどが一変した。それは、むぎの魂が見えていたからなのだろう。

 そして男の言葉を信じるのなら、自分の寿命が尽きると紡生に知らせたかったということになる。


「……伝えに、って。でも……」


 恨んでいたのなら、最期なんて看取ってほしくないはず。それなのに、むぎは自分の時間の終わりを告げに来た。体から抜け出してまで。いったい、どうして。


「あんたに傍にいてほしいって」


 男性は、紡生の思考を呼んだかのようにつぶやいた。


「え?」

「そいつ、最期にあんたに撫でてもらいたいって言っていた」


 男は縁側からおりて、紡生の傍にしゃがみ込んだ。


「触れられるのが最後だから。最後に触れられるなら、あんたがいい。そう願っていた」

「……うそ。だって……それなら、むぎは」


 ――わたしを、憎んでいないの?


 言葉にはできない思いを拾ったのだろう。男は目を細めて紡生を見上げた。


「嫌いな奴に触れてほしいやつなんて、いないだろう。逆だ。あんただから、傍にいてほしいと願われた。あんたの願いと、こいつの願いは一致していた。だから引き合わせた」


 それが答えだ。


 男はそうつぶやいて立ち上がった。

 紡生は目を見開いたまま男を見つめ続けるほかない。


「ちゃんと、間に合ったか?」

「……あ」


 ――まっすぐ、寄り道せずに家に帰るんだ。そんで、ちゃんと撫でてやれ。


 確かにそう言われた。

 むぎの願いは、最期に紡生に撫でてもらうこと。そしてそれは、あのままなにも知らずにいたら、きっと叶わなかった。寄り道していても、間に合わなかっただろう。もしも追い出されなければ、電話にすら気がつかなかったかもしれない。

 男が教えてくれたから、紡生はむぎの最期に立ち会うことができた。

 だとしたら、男のいうことは本当のことなのだろう。


(むぎが……わたしに会いたがっていた。最期に、傍に、触れてほしかったから)


 ジワリと視界が歪んだ。


「わたし……辛い思いをしているむぎに、何もできなかった。ちゃんとあの子が幸せだったのかも、分からない。ああしたら、こうしたら、って後悔ばかりで。もしかしたら、むぎに恨まれているかもしれないって……。でも」


 体を抜け出してまで、知らせてくれたのだ。そこまでしてくれたのに、恨まれているはずがない。

 むぎの心を疑った自分が、恥ずかしい。うつむいてばかりで、今までむぎと過ごして感じていた絆を忘れてしまっていたのだ。簡単なことだったのに。どうして、それを信じてあげられなかったのだろう。


「……猫は、どうでもいい相手に時間を使わない。嫌だと思えば絶対に近寄らないし、撫でさせるなんてもってのほかだ」


 滲む世界の中で、男の声がやけに鮮明に聞こえた。


「そんな猫が、最期にあんたに触れてほしいと願った。そしてあんたも、猫の気持ちを知りたいと願った。あんたが猫社に来たからこそ、つながった思いだ。なにもできなかっただなんてこと、ねぇと思うけど」

「……そう、なのかな」

「そうだ。つーか、あんたがそんな調子だから、そいつ、まだここにいるんじゃねーの」

「え?」

「あんたのこと、心配しているみたいだ。今も足元にいる」


 反射的に足元を見た。けれど、なにも見えない。それでも――足にすり寄る感触があった気がした。


「……っう」


 一瞬だったけれど、間違えようがない。むぎのすり寄り方だ。

 紡生は立っていられなかった。その場にうずくまり、嗚咽おえつを零す。今までせき止めていた分の涙が、一気にこぼれ始めた。


「うああ……っ! むぎ……、むぎ……っ。ごめん、ごめんね! ちゃんと分かってあげられなくて……っ!」


 会いたい。触れたい。抱きしめたい。一緒にご飯を食べたい。頭を、なでてあげたい。

 とめどなくあふれる想いは、どれも、もう叶わない。それを実感してしまって、止まった時間が動き出す。全てを吐き出すように、紡生は泣いた。



「……。ちゃんと、飯を食え。だってよ」

「うぅっ。……え?」


 ふいに言葉が掛けられる。ぼやける視界の端で、紡生の足元を指している男が見えた。そこは、先ほどむぎの感触を感じた場所。むぎが、そう言っていると言うことなのだろう。心配している、と。


 思えば、紡生が悲しい想いをしていると、いつも感じ取ったように甘えに来てくれるのがむぎだった。

 それは。その優しさは。肉体がなくなってしまっても、変わらないのだろう。

 変わらないものが、確かにあるのだ。


 ツツっと頬を伝った涙が、地面に落ちる。けれどこれは、寂しさからじゃない。嬉しかったのだ。むぎの全てがなかったことになるわけじゃないと、気がついたから。


「あんたのことが心配で、ここにとどまっていたそうだ。……だが、それは」

「……分かっています」


 この世に留まるのは未練みれんがあるからだって、テレビで聞いたことがある。だから、ずっとこの世にとどまっているのは、きっとよくないことなのだろう。

 本当かどうかなんて、分からないけれど。でもそうだとしたら。むぎの未練になっちゃだめだ。

 飼い主の最後の役目は、きっと、安心して逝けるようにしてあげることだから。

 だから、どれだけ辛くとも。別れたくなくとも。むぎの幸せを願って。


「むぎに伝えてください。わたしは大丈夫だって。ちゃんと進むから、安心してって」


 紡生の目には、今まで消えていた信念が宿っていた。


「伝えるまでもない。そいつには、あんたの言葉はちゃんと届いているよ」

「そっか……」


 届いたのだ。決意が。紡生の想いが。それがたまらなく嬉しい。


「……ふ」


 男は紡生をみて、少し笑った。穏やかな笑みのまま、お道化どけるように口を開いた。


「あんた、むぎに妹分だと思われていたみたいだな。『この子、落ち込むとごはんを食べなくなるから心配なんだ。男にフラれた時も、あたしがすりすりしてあげないと、食べなかったくらいだし』って言ってるぞ」

「⁉ っちょ! むぎ⁉ そ、それは言わなくてもいいよ!」


 ちょっと恥ずかしいエピソードを唐突に暴露ばくろされ、慌てる。そんな昔のこと、よく覚えているなと感じずにはいられない。

 どうやら、猫は思っている以上に人間のことを理解しているようだ。そしてちゃんと思い出として覚えていてくれる。


「『もうすりすりして上げられないけれど、ちゃんと食べるのよ。食べて、ちゃんと生きて、楽しいこと、いっぱいしてね。それで満足できたら、また話を聞かせて。……待っているから』」


 紡生にはむぎの声は聞こえない。姿も見えない。

 けれど、そのとき確かに、自分の傍にむぎを見た。一瞬だったけれど、穏やかな目でこちらを見つめ、満足したように尻尾を揺らす、その姿が。


 別れの言葉に、止まったはずの涙が滲みだすけれど、お腹に力を入れて耐える。そして、笑顔を作った。


「……分かった。心配ばかり掛けて、ごめんね。ちゃんと生きるよ」


 精いっぱい楽しんで、そしていつかまた会える時が来たら。いろんな話を聞かせてあげられるように。むぎに楽しんでもらえるように。紡生は、そう心に誓った。


「だから、安心してね」


 光の粒子りゅうしが空に溶けていくような、そんな音がした。さっきまで感じていた気配も、もうしない。

 紡生は消えていった空気の重さを想い、しばし空を眺めていた。


 ◇


「ちゃんとあっちに行けたかな?」


 しっかりと見送った紡生は、ぽつりとつぶやいた。


「さあな。だが、伝えてぇことも伝えられただろ」


 相変わらずそっけない返答だ。なぐさめの言葉ではなく、ただの事実として告げられる。


「忘れないでいてやることが、何よりの供養だ」


 けれど、無関心ではなかった。紡生を置いて、どこかに行くこともない。ただ傍にいるだけ。

 なにをいうのでもないけれど、今の紡生にはそれがありがたい。


「……そうですね。ちゃんと、毎日手を合わせます」


 二人の間を、風が流れた。温かさを含んだ、包み込んでくれるような風が。

 紡生は空を見上げて、願う。

 どうか、やすらかに……。



「……。……それはそれとして」


 ふとひかえめな声がかけられる。目を向ければ、男は迷ったように口を開いた。


「お供えは『ちゅ~る』にしてね、って言い残してったぞ」

「ぶはっ‼」


 ツボに入った。紡生はくつくつと笑いながらも、むぎらしいと思った。

 「ちゅ~る」はシニアになってからも食いつきの良かったおやつだから。


「ふふ、分かったわ。ささみ&ほたて味のやつね」


 帰りに買って帰ろう。そう思って、再び空を見上げた。

 ぶ厚い雲の隙間から、太陽の光がうすく差し込んでいた。


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