月姫、天翔するの事(その二)

「……すめまのみことみづ御殿みあらか仕へまつりて、あめ御蔭みかげ、日の御蔭みかげと隠りして、安国やすくにと平けく知ろしさむ国中くぬちに成り出でむあめ益人ますひと等が、過ち犯しけむ種々くさぐさ罪事つみごとは、あまつ罪、国つ罪、許許太久ここだくの罪出でむ、く出でば、あめ宮事みやごと以ちて、あめ金木かなきもと打ち切り、すえ打ち断ちて、千座ちくら置座おきくらに置き足らはして、天つ菅麻すがそもと刈り断ち、すえ刈り切りて、八鉢やはちに取りきて、あめつ祝詞のふと祝詞のりとごとれ……!」



頼義の長い詠唱が続く。天の満月はますます明るく大きく、近づいてきているように見える。新月の空にあるはずのないその月は、その光をさらに神々しく輝かせ、地上の全てをあまねく照らし出した。


頼義の祝詞に合わせるように周囲にいた「山の佐伯」の樹人たちがザワザワと葉を揺らしてざわめつかせる。その荘厳な儀式の中で、金平も影道仙ほんどうせんもただ言葉も発せずに見守るばかりだった。



「……く聞こししてば、罪という罪はらじと、科戸しなどの風のあめの八重雲を吹き放つ事の如くあした御霧みぎり夕の御霧みぎりを朝風、夕風の吹き払う事の如く、大津辺おおつべる大船を、解き放ち、とも解き放ちて、大海原おおうなばらに押し放つ事の如く……」



隣にいた影道仙がしきりに金平の袖を引っ張る。



「いて、痛えよ、なんだよお前、まだ頼義あのバカに刺された傷が塞がってねえんだからそんな乱暴に引っ張るんじゃねえよ」



金平が儀式の邪魔をしないように小声で彼女を叱る。影道仙は金平には目もくれずに虚空を見つめて大口を開けている。



「アレ……金ちゃん、アレ見てアレ……!!」



あまりに異様な影道仙の態度に、金平も改めて彼女が見上げている天に向かって視線を移した。夜空には例の、そこにあるはずのない満月が浮かんでいる。それがだんだんと近づいてきているように錯覚するほどに煌々と輝いているのは変わらない。


いや


錯覚ではなかった。目を凝らしてもう一度満月を見返す。今度は間違いない。


!!



「な、な、なんだあ!?ありゃあ、月じゃねえのか!?」



金平が叫ぶ間にも満月はみるみる近づいて来る。やがてその月にさらなる変化が訪れた。



「月、月が…………」



影道仙が呆然とした表情のまま虚ろに呟く。その変化は金平にも見て取れた。真円だった月が次第に影を帯び、少しずつその姿を半月に変えていく。何かの影に入ったのではない。姿を消そうとしているのでもない。



……してるのか?ありゃあ!?」



金平がそう言った通り、天空のあり得ざる満月は、その身を球を転がすように回転させていた。月は次第にその裏側を見せ始めた。表面が隠れるにつれ、地上を照らしていた月の光は鳴りを潜め、少しずつまた夜の闇に閉ざされていく。


金平と影道仙は見た。その月の裏側に……


巨大な塔や城郭が立ち並び、無数の灯火がまるで満天の星のようにキラキラと点滅しているのを!



「街だ……月の裏側に、街があるだと!?」



金平が呆然と空を見上げながら言った。



天鳥船あまのとりふね……」


「あ?」



無意識に独り言を呟いていた影道に金平が反応する。



「『古事記』において、高天原たかまがはら葦原あしはら中国なかつくにとを行き来する神の乗り物とされ、『日本書紀』では『諸手船』と呼ばれた神船……まさか、本当に実在したなんて……!?」


「天の鳥船……?」


「ええ、古代インド、『摩訶婆羅多マハーバーラタ』では阿修羅アスラたちの乗る天空船ヴィマナとして伝えられている空を駆ける船です。一説には、地上に降臨した神々を天へ送り返すための船だと……」


「送り返す?じゃあアレは……」



金平がに振り向く。



「そうです。あれが私を迎えに来た、私と悪路王ケートゥを『彼方』へ運ぶ使者」


……」


「ふふ、だなんて可愛らしい名前で呼ばれたのは初めてだったのでちょっとこそばゆかったのですが、今となってはもうそれも懐かしい思い出……」


「行くのか、どうしても……」


「……はい」


「そうか……」


「…………」


「そうなら……だよな」



ずっと俯いていた金平が再び顔を上げた。その表情は憂いのかけらもない、満面の笑顔だった。



「だったら、笑って見送ってやらねえとな!」



そう言って金平は力強く拳を突き立てる。その姿には強がりもやせ我慢もなく、全てに納得した、覚悟の笑みだった。



「こんな事言うのも変かもしれねえが……元気でな」


「……はい!」



にぃの目から再び涙が溢れる。ぽろぽろ、ぽろぽろと。



「……気吹いぶき放ちてば、根国ねのくに底国そこのくに速佐須良比売はやさすらひめと言ふ神持ち佐須良さすらひ失いてん、佐須良さすらい失いてば、罪と言う罪はらじと、祓え給い清め給う事を、天つ神国つ神八百万神やおよろずのかみ等共たちともに、聞こしせともうす……!!」



頼義の長い長い祝詞の詠唱がついに終わった。頼義は手にした七星剣を天に浮かぶ「天鳥船あまのとりふね」に向けて突き立てる。その切っ先から、青白い光が一本の筋となって天のかつて月だったものに突き刺さり、一本の道を形作った。



「さあ、行かれよ、なよ竹のかぐや姫。いつの日にかその忌まわしき輪廻のくびきからそなたが解放されん事を切に願います」



頼義がそう促すと、「かぐや姫」の全身はいよいよ光の粒子に包まれていった。



「ここまでのお導き、心より感謝申し上げます。今日に至るまで、ずっと私をお守りしてくださっていた事、は片時も忘れた事はございません。どうかととさまを大切に、かかさま……!」


「かかさまぁ!?」



にそう呼ばれて、動揺のあまり頼義が一瞬素に戻った。



「はあ?おい、どう言う事だよ!?」


「さ、さあ」



詰め寄る金平に頼義は空とぼける。



「ふふっ父さまはニブチンだから気づいていなかったけど、後でちゃんと説明してあげてくださいね」



最後に見せたの笑顔は、まぎれもない、どこにでもいる普通の娘のそれだった。



「オン センダラ ハラバヤ ソワカ、オン センダラ ハラバヤ ソワカ……」



光に包まれたと悪路王が歌いながら天に昇って行く。



月光がっこう菩薩ぼさつ真言……あらゆる苦熱と病魔を退ける清浄のマントラ……」



影道仙がまた呟く。金平はもうそんな声も耳に入らず、仁王立ちのままじっと天に帰って行くを見守り続けた。



「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始まりにくらく。死に、死に、死に、死んで……もう、私は……」



その全身全てを光の粒子で包み込まれた「かぐや姫」は、その半身である悪路王と共に光と同化して天に昇って行く。光の粒の最後の一粒までが「天鳥船」の中に消えて行った時、再び世界は元の現世の静寂へと戻って行った。


一切の音の無くなった世界に、坂田金平はいつまでも天空に消えた娘の姿を追っていた。

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