第10話 エリートとしての品格

 オルレアの学院内における評判は、三日前の決闘騒動を境に地に落ちた。

 いや、そもそも初日から遅刻と投げやりな授業態度で既に評判など底辺を這っていたのだから、正確には「さらに地の底へ」と表現するのが適切だっただろう。


 決闘での圧倒的な実力を見せつけたことで、彼に対する恐れや敬意を抱いた生徒がいないわけではない。

 だが、それ以上に彼の無責任な態度、茶化すような物言い、そして学院や魔術そのものに対する無関心ぶりが、あまりにも目に余った。


 結果として、オルレアの授業を受ける生徒は皆無となった。

 理事長であるギュスターヴの計らいで、自習室が設けられ、オルレアの授業の時間帯には、生徒たちはそちらで自主的に学ぶことができるようになっていた。

 自習室には日替わりで空きのある教授陣が付き添い、質問に答えたり、簡単な補足授業を行ったりしていた。


 幸いにも、学院の生徒たちは学習意欲が高く、魔術に対する探究心に満ちていた。

 彼らにとってオルレアの授業をボイコットすることは、時間の無駄を避けるための合理的な選択であり、むしろ学びの効率が上がる結果となっていた。


 そんな状態でも、当のオルレアは一切文句を言わない。

 授業を受け持つべき生徒が誰一人いない教室で、のんびりと時間をつぶし、授業開始時間を大幅に過ぎてから姿を現す。


「はーい、授業を始めまーす」


 その日もオルレアは、授業を大幅に遅刻して教室へやってきた。

 だが、予想通り教室には誰もいない。シーンと静まり返った教室は、窓から差し込む陽光が床に斑模様を作るだけで、生徒たちの声や気配は一切なかった。


 オルレアはドアを押し開け、ゆっくりと中へ足を踏み入れると、教卓に向かってのんびりと歩みを進めた。

 その足取りには、焦りや苛立ちといったものは微塵もなく、むしろ気だるげな余裕すら漂わせていた。


「おやおや、今日も全員欠席か。みんな熱心だなぁ」


 オルレアは教室の中を軽く見回し、生徒が誰一人いないことを確認すると、ため息をつきながら教卓の椅子に腰を下ろした。

 別に研究室に戻っても構わないが、わざわざ戻るのも面倒だ――そんな気持ちが、彼をこの教室にとどまらせていた。


 椅子にもたれかかり、しばらくぼんやりと天井を眺めた後、ポケットから細身のペンと紙束を取り出した。

 そこには彼の字で埋め尽くされたページが数枚、整然と重ねられている。文字は整然としているが、その内容にはどこか未完成の空気が漂っていた。


「さて、どこまでだったっけな……」


 小さく呟きながらペンを持つと、《筆記の魔法》を発動させた。

 ペン先が淡い光を帯び、紙の上で滑るように動き出す。その瞬間、彼の表情からはいつもの軽薄な態度が消え、代わりに深い集中の色が浮かんだ。


「……船底は座礁し、もう足元にまで水が浸かっているというのに、乗客たちは気づかない。どこまで来れば気づくのか……」


 ペン先が紙の上を走りながら文字を紡いでいく。

 彼の口元からは、自分に言い聞かせるような小声が漏れ、彼の思考が物語に没入していく様が伺えた。


「……腰まで浸からないと気づかないのか、それとも……頭の先まで浸からないと気づかないのか……」


 ペンを動かす彼の手には迷いがなく、まるでその物語が彼の中に既に存在しており、それを紙に映し出しているかのようだった。

 時折ペンを止め、書いた文章を見つめるが、すぐに再びペンを走らせた。


「……いや、その船が沈まない限り、気づかないだろう」


 ペンの動きは再び止まり、彼は紙束をじっと見つめた。その瞳は深い思考に沈み込み、紙の向こうに広がる物語を凝視しているかのようだ。


「であるならば、その浸水の速度を上げてやるべきではないか」


 独り言のように呟きながら、彼は再びペンを動かす。物語に込められた思考が彼自身をも絡め取り、彼はますますその世界に没頭していく。


 オルレアが行っているのは単なる物語の執筆ではない。

 それは、彼自身の思想や観念を表現し、内省するための手段だった。

 直接的な主張や短絡的な説教を喚き散らすのではなく、小説やエッセイを通じて思索を展開するという手法――それは、伝統的な知的エリートとしての素養を証明するものである。

 彼が意識しているかは別として、この行動の背景には、貴族社会に根付いた教養と品格の追求がある。


 貴族階級の中で、思想や主義を短絡的に口にすることは、品位を欠くものとされてきた。率直すぎる主張は下世話であり、直接的な攻撃は下品と見なされる。

 それゆえに、彼らはしばしば文学や哲学、芸術といった間接的な形で自らの思索を表現した。

 その方法は、品格と自己抑制を求める文化に根ざし、思索を熟成させる知的な姿勢の現れだった。


 オルレアの手法も、この伝統に基づいている。

 物語という形を借りて、自身の考えや矛盾、社会への批評を投影し、観察者に間接的に問いを投げかける。

 その姿は、彼が単なる無気力な男ではなく、教養ある者としての側面を持つことを示している。


 彼の書く物語は、単なる娯楽作品ではない。それは彼自身の内面を覗き込む窓であり、世界を観察し、分析するための思考実験の場でもある。

 オルレアにとって、物語を綴ることは自己表現であると同時に、彼が抱える疑問や葛藤を整理し、他者に伝えるための最も品位ある手段なのだ。


 直接的な主張ではなく、物語という枠組みを通して語ることで、彼は読者に考える余地を与える。

 その姿勢は、効率性や結果を追い求める近代的な実利主義とは一線を画す。

 むしろ、過程そのものに美徳を見出し、言葉を尽くして思想を練り上げる――それが彼の選んだ道であり、伝統的な知性の証明だった。


 オルレアはペンを動かす手を止め、紙面をじっと見つめた。しばらくの間、静寂が教室を支配する。

 彼の眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には苛立ちの色が浮かんでいた。そして、突然、彼は低く呟いた。


「なんだ……クソが」


 その声には、呆れと自己嫌悪が混じり合っていた。

 彼は勢いよくペンを机に放り投げると、書き上げたばかりの紙を丸めて手に取り、無造作に教室の隅にあるゴミ箱へ投げつけた。

 紙の丸まりは軽々と空中を舞い、ゴミ箱にポスンと音を立てて収まる。


「気づかせて、どうなるんだよ……」


 オルレアは椅子に深く寄りかかり、天井を見上げた。その視線にはどこか投げやりな光が宿っている。


「船が沈んでるだの、気づけだの、いちいちご大層なことを言ったところで、それにいったい何の意味があるってんだ。何かが変わるとでも? 仮に変わったところで何の意味がある?」


 吐き捨てるように言うと、彼は再び天井から視線を落とし、机の上のペンや紙束をじっと見つめた。

 しばらくの間、何かを考えているようだったが、やがて小さく鼻で笑い、椅子を軋ませながら体を起こした。


「くだらねぇな……そんなことよりとっと諦めて、ウィスキーでも飲んで、適当に眠りについた方がよっぽどいいだろう」


 そう言って、オルレアは荷物をまとると、椅子を引きずる音を立てながら立ち上がった。教室を後にし、廊下を歩き出す。

 その足取りはいつも通り気だるげで、早く研究室に戻ってウィスキーを飲むことだけを考えているようだった。

 だが、途中ですれ違った人物がその気怠げな空気を断ち切った。


「ツァラトゥストラ先生、こんにちは」


 柔らかな声が響き、オルレアは足を止める。

 廊下の向こうから現れたのは、学院で知らぬ者はいないであろうルシエル・エヴァンゼル教授だった。

 優美な金髪が太陽の光にきらめき、いつもの柔和な笑みを浮かべている。

 その姿は、生徒にも教授にも絶大な信頼を得ている彼の人気を如実に表していた。

 オルレアは軽く会釈するに留め、そのまま行こうとした。しかし、ルシエルは親しげな調子でさらに声をかけた。


「いやぁ、こんな時間にお一人とは珍しいですね。授業が終わって、これからお休みですか?」


 その声には、一切の敵意や皮肉が含まれていなかった。

 それどころか、孤立している生徒に積極的に声をかけ、手を差し伸べる教師のような、穏やかで押しつけがましさのない優しさがにじみ出ている。

 オルレアは心中で小さく溜め息をつきながら、適当に切り上げる言葉を探した。


「まぁそんなところだ。では、失礼――」


「ツァラトゥストラ先生、たまには僕との会話にも付き合ってくださいよ」


 オルレアは思わず足を止め、彼の方を振り返った。

 その笑顔は変わらず柔和だが、その口調にはどこか親しみを込めた鋭さがある。


「日替わり講師として、週に何回かあなたの生徒たちに教えていますので。それぐらいは付き合っても罰が当たらないでしょう?」


「おや、意外だな。学院のスター教授がそんな恩着せがましいことをおっしゃるとは」


 オルレアの口元には皮肉めいた笑みが浮かび、言葉の端々にも軽薄さが混じっていた。

 彼の反応を見たルシエルは、一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐにそれを和らげる笑顔を浮かべる。


「そんなつもりはありませんよ。ただ、あなたとはもう少し話してみたいと思いましてね」


 ルシエルは変わらぬ笑顔を浮かべながら、歩き去ろうとするオルレアの後ろを追い、軽快な調子で続けた。


「興味があるんですよ。あのフローゼ・ヴァレンティーノが推薦した男が、一体どのような人物なのか」


 その言葉を聞いて、オルレアはわずかに足を止めた。

 彼の口元には、いつものように皮肉めいた笑みが浮かんでいる。


「ただの穀潰しだよ。そんなに大層な人間じゃない」


 軽く肩をすくめながら、オルレアは再び歩き出そうとする。しかし、ルシエルは一歩も引かず、その言葉を受けてさらに踏み込んだ。


「そんなわけないでしょう。ルドルフォン家のご令嬢相手に、随分な大立ち回りをされたと聞きましたよ」


「大立ち回り? あんなものは子供の戯れだよ。ちょっと戯れぐらいで粋がるほど、俺は幼くないんでね。それくらい幼ければ、この世ももっと楽しめたのかもしれないが。実に残念だ」


 オルレアの声には相変わらず皮肉が漂っていたが、その奥にはどこか虚無的な重さが含まれていた。

 それを受けたルシエルは、一瞬だけ表情を曇らせたものの、すぐにその特徴的な柔らかい微笑みに戻る。


「あれだけ自由な振る舞いをしていながら、楽しくなかったのですか? てっきり苦悩や不満などなく、さぞ愉快な日々を送られているのだろうと思っていましたよ」


「学院のスター教授も忘れ物をするとは思わなかったよ」


「忘れ物、ですか?」


 ルシエルが眉をひそめて問うと、オルレアはすかさず肩をすくめた。


「デリカシーをどこかに置き忘れたんじゃないかと思ってね」


 一瞬の沈黙の後、ルシエルの顔に笑みが広がった。その微笑みには嫌味や皮肉の影はなく、むしろその場を和ませる柔らかさがあった。


「面白い冗談をおっしゃいますね。ツァラトゥストラ先生には敵いません」


 その反応に、オルレアは軽く鼻で笑った。


「どう見えているかは知らないが、毎日が不愉快だ。楽しみと言えば、酒を飲むことぐらいで、あとは朝起きてから夜眠るまで、ずっと不愉快だよ。もちろん、怒っているわけじゃないんだがね」


 彼の投げかけた言葉は皮肉を交えつつも、どこか冷めた響きを持っていた。

 それがルシエルにはかえって興味を引き起こしたようだった。ほんの少し目を細め、考え込むように顎に手を当てる。


「やっぱり面白いですね」


 冗談めいた調子こそ感じられたが、根底には確かな関心が垣間見えた。

 オルレアの虚無的な態度や、隠しきれない鋭さに対して、ルシエルは自然と好奇心を抑えられなくなっているのかもしれない。


「これは話し合いのしがいがありそうだ。よかったら、今後も話を聞かせてくれませんか?」


 その問いは飾り気のない率直さで放たれたものだったが、オルレアにとっては少しばかり鬱陶しく感じるものだった。いつもの軽薄な態度を表に出しながら、彼は肩をすくめて軽く鼻を鳴らした。


「好きにすればいいさ」


「ありがとうございます、それは嬉しいですよ」


 ルシエルの声はどこまでも穏やかで、彼の好意的な姿勢に何の疑いもないことを示していた。それがオルレアにとってはさらに居心地の悪さを感じさせた。

 この優男はどうしてこんなにも絡んでくるのだろう、と彼は思った。


「ツァラトゥストラ先生からは、他の人とは違う、何かを感じますしね。研究者の勘ってやつですかね?」


 ルシエルは軽く笑いながら言葉を続けたが、オルレアにはそこにほんの少し含みを持たせた意図が隠されているようにも感じられた。


「……ジョークですよ」


 そう言って笑う彼を見て、オルレアは一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐにまたその軽薄な表情に戻る。


「はは、それは面白いジョークだな。そろそろ行くよ。じゃあな、エヴァンゼル教授」


 彼は気怠げな調子で言いながら、軽く片手を挙げて別れの挨拶をした。

 それ以上会話を続ける気はないという雰囲気を全身から漂わせ、すぐに踵を返して廊下を歩き出す。その足取りはいつも通りゆったりとしているが、どこか急いているようにも見えた。

 背後から聞こえるルシエルの声は、柔らかく、相変わらずの調子だった。


「では、またお時間があれば。ツァラトゥストラ先生」


 ルシエルの言葉には、どこか含蓄がありながらも、丁寧さと親しみが込められている。その声が廊下に響くと、オルレアはわずかに肩をすくめる仕草を見せたものの、振り返ることはなかった。

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