第9話 決闘
魔術師の決闘――それは古来より魔術師同士の軋轢や争いを解決するために存在してきた伝統的な魔術儀礼の一つである。
魔術師とは、世界の法則を知り、その力を掌握した者たちだ。
彼らの放つ火球は広大な森を一瞬で焼き払い、彼らが召喚する稲妻は大地を裂き、山を砕くほどの破壊力を秘めている。
もし彼らが好き勝手に争うことを許されれば、それはただの個人間の衝突では済まされず、時に国や文明そのものを揺るがしかねない。
そのため、古の時代、魔術師たちは自らの力を制御するための規律として「決闘」という形を整えた。
それは力と力、知恵と知恵が正々堂々とぶつかり合う、ある種の象徴的な儀礼であり、己の力を証明すると同時に相手に対する敬意や礼節をも示す行為でもあった。
しかし、帝国が近代国家として法整備を進め、秩序を確立した現在――この伝統はほとんど形骸化している。
現代の魔術師たちが軋轢を抱えたとしても、弁護士を雇い、法廷で法と証拠をもって争う方が遥かに効率的で、何より拘束力があるからだ。
決闘という手段はもはや非合理的であり、実務的な解決策として選ばれることはほとんどない。
だが、それでもなお、「古き良き伝統」として決闘を尊重し続ける生粋の魔術師たちは存在する。
魔術をただの学問や技術ではなく、誇りと責務を伴った「生き方」として捉える者たち――その象徴とも言えるのが、名門ルドルフォン家の令嬢、セレスティアである。
第二訓練場は、学院の敷地の北側に位置する広大な屋外演習場だ。
日中は生徒たちが実践的な訓練を行う場所であり、魔術の実験や戦闘演習に耐えられるよう、周囲は強固な魔法障壁で守られている。
場内は直径50メートルほどの円形の闘技場のように整備されており、足元は魔術の詠唱を妨げない滑らかな石畳が敷き詰められている。
夕暮れの時間帯、石畳に伸びる長い影が、空に浮かぶ茜色と藍色の混ざり合った薄明かりに照らされ、場内にはどこか幻想的な雰囲気が漂っている。
観覧席にはちらほらと生徒の姿があり、友人同士でひそひそと囁き合う声が広がっている。
遠巻きに見守るその様子は、決闘が始まるのを待ちわびる観客そのものだった。
「ねぇ、どっちが勝つと思う?」
ひそひそとした声が場のあちこちで聞こえてくる。
「心情的にはセレスティアだけど、相手は講師だからな……」
「いや、ツァラトゥストラ先生、どう見てもやる気なさすぎるし、本当に勝つつもりあるのかな?」
「でも、見たことないだけで実はすごい実力者かもよ?」
そんな憶測が飛び交う中、中央の闘技場に立つ二人は、まるで別の空間にいるかのように静かに向き合っていた。
セレスティアの姿は凛とした気高さに包まれていた。
彼女は強い風にも揺るがぬ一本の柱のように真っ直ぐに立ち、金色の髪が夕暮れの光を反射して淡く輝いている。
その姿勢には一切の迷いがなく、視線は真っ直ぐオルレアを射抜いていた。
一方のオルレアは、どこか気だるげな様子でポケットに手を突っ込んだまま、辺りを軽く見渡している。
集まってきた野次馬たちや遠巻きに見守る生徒たちの存在も、彼にはどうでもいいことのように見える。
「ふーん、随分と盛り上がってるな」
彼は小さく鼻を鳴らし、肩をすくめると、対峙するセレスティアに向かってゆるりと笑みを浮かべた。
「さて、いつでもいいよ?」
セレスティアはオルレアの余裕綽々とした態度を注視しながら、徐々に心に生まれた焦燥感を振り払おうと必死だった。
相手の無造作な立ち振る舞いと、まるで場違いなほどの軽薄さ――それが逆に彼女に一抹の不安を抱かせる。
額から伝い落ちる一筋の汗が、彼女の頬を伝い、静かに地面に落ちる。
その瞬間、自らの胸中にわずかに広がり始めた後悔を、セレスティアは認識した。
冷静に考えれば、彼はこの学院の講師として採用されているのだ。
どれほど態度が悪くても、どれほど問題行動を起こしていようとも、学院の採用基準に照らせば、それ相応の実力が担保されているはず。
それが普通の判断ならば、彼は単なる怠惰な男ではなく、確かな実力を秘めた魔術師である可能性が極めて高い。
「ほら、どうした? かかってこないのか?」
オルレアの軽口が、冷えた風のように彼女の鼓膜を叩く。
その声は、彼の自信と余裕をそのまま伝えるような響きを持ち、動揺の欠片もない表情が、彼女の不安をさらに煽った。
「……くっ」
セレスティアは唇をきつく噛みしめた。
なぜ、自分はこんな男に決闘を申し込んだのか。
その態度や言動に怒りを覚えたとはいえ、衝動的に手袋を投げつけ、後戻りできなくなった自分を、少しだけ責める思いが胸をかすめる。
彼が余裕を見せているだけなのか、それとも本当に歴戦の魔術師としての自信に裏打ちされたものなのか――それを見極める術は、彼女にはなかった。
だが、ここで退けるはずがない。
彼女の胸に根付いた誇り、そしてルドルフォン家の名にかけて、あのような男を野放しにしておくことはできない。
それに、勝ち目がないわけではない。
セレスティアは小さく深呼吸をし、内なる迷いを振り払った。
相手がこれほどまでに油断している以上、自分にもチャンスはある。だが、それは恐らく一度きりだ――最初の一撃で全てを決めるしかない。
余裕ぶった態度が、最初で最後の隙となる。
彼女はそう確信すると、杖をきつく握りしめ、その先端に魔力を収束させた。
心臓の鼓動が高鳴る中、彼女の目には再び強い決意が宿り、その瞳はオルレアを捉えて離さなかった。
彼女は一瞬の逡巡も許さない気迫で、一撃必殺の魔術を繰り出す準備を整えた。
その全身に緊張がみなぎり、場の空気がわずかに震え始める。
石畳の闘技場は、嵐の前の静けさを湛えたように、張り詰めた緊迫感で満たされていた。そして、決闘の火蓋が切って落とされるその瞬間を、誰もが固唾を飲んで待ち構えていた。
セレスティアは覚悟を決め、右手を鋭くオルレアへ向けた。
彼女の唇から力強く呪文が紡がれる。
「《
その声が響くと同時に、彼女の手の先端から強烈な風が巻き起こった。
風は瞬く間に拡大し、訓練場の中央に巨大な竜巻を形成する。
石畳を砕くほどの勢いで風が渦を巻き上げ、轟音を伴って天へと伸びるその姿は、自然界の猛威をそのまま具現化したかのようだった。
周囲の観客たちは思わず目を覆い、風圧に逆らって必死に立ち続ける。
だが、セレスティアはその一撃では終わらなかった。
「《
彼女がさらに呪文を唱えると、竜巻を構成する風が一瞬青白く光り始めた。
やがてその光は雷鳴を伴い、次々と稲妻へと変わっていく。
巨大な竜巻の中を稲妻が幾重にも走り、渦を巻くごとに爆発的な閃光を放つ。
それはもはや単なる竜巻ではなく、破壊と混沌を象徴する稲妻の嵐と化していた。
竜巻は唸り声を上げながらオルレアを中心に飲み込んでいく。
青白い光が次々と炸裂し、その度に地面が揺れ、周囲に魔力の波が放たれる。
「やっぱりセレスティア、すげぇ!」
「でもこれ、やりすぎなんじゃ……殺す気じゃん」
周囲の生徒や野次馬たちは、驚愕と畏怖の入り混じった表情を浮かべながら口々に感想を漏らした。
その破壊力に満ちた光景は、誰の目にも圧倒的な威力を持って映っていた。
竜巻の勢いは次第に弱まり始め、稲妻の閃光も徐々に霧散していった。
やがて全ての光と風が静まり、訓練場には深い静寂が訪れる。
竜巻が収束したその中心には――無防備なオルレアがボロボロになり、倒れているはずだった。しかし――。
「そん、な…………」
セレスティアは、自分の目の前に現れた光景に絶望的な表情を浮かべる。
完全な勝利を確信していた彼女の瞳に映ったのは、ポケットに手を突っ込んだまま、傷一つないオルレアの姿だった。
彼はまるで何事もなかったかのように立っていた。
風に煽られた形跡すらなく、髪や衣服は整ったままで、そこには圧倒的な余裕すら漂っている。
「おいおい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ。頑張りすぎて疲れちゃったのかな?」
彼の口元には皮肉めいた笑みが浮かび、軽い調子で話しかける声がセレスティアの耳に響いた。
その瞬間、彼女の背中を冷たい汗が伝い、全身が戦慄に包まれる。
教訓場の静寂を切り裂くように、生徒や野次馬たちが次々と驚きの声を上げた。
「な、なんで無傷なんだよ! 今のを食らってそんなの、絶対おかしいだろ!」
「おい、あの竜巻と稲妻だぞ? どんな防御をしたらあれを防げるんだよ!」
その場にいた全員が、目の前で繰り広げられている信じられない光景に釘付けになっていた。
セレスティアの全力の魔法を真正面から受けてなお、無傷で立っているオルレア――その存在自体が常識を覆していた。
「生徒の疑問に答えるのは、講師の務めだからな。これならどうだ?」
そう言うと、彼はポケットに突っ込んでいた右手を抜き、ゆったりとした動作で空中に手をかざした。
その瞬間、彼を中心にして半透明のドーム状の構造物が静かに姿を現す。
淡い虹色の光が表面にちらつき、まるで夢幻的な色彩を放ちながら場内に現れるそれは、強固な魔法障壁であることが一目で分かった。
「……魔法障壁……!」
セレスティアは自分の目の前に現れたものに驚愕し、思わず息を呑んだ。
その驚きは、それが障壁そのものであるということ以上に、無詠唱でこれほど完璧な防御を展開できたオルレアの実力に対してだった。
「無詠唱で……こんな強力な魔法障壁を……?」
「正解だ。そして、君はこの障壁を抜けないだろう。だからさ、もう無駄なことはやめて、負けを認めてくれないか?」
彼女が勝てないことが既に確定事項であるかのような提案だ。だが、セレスティアはそれを真っ向から拒否した。
彼女は怒りを瞳に宿し、手を高く掲げると、次々と魔法を発動させて障壁に叩き込む。火球、氷塊、刃のように鋭い風――彼女が持てる限りの魔術を次々と解き放つ。
しかし、そのどれもが障壁の表面に触れた瞬間に力を失い、無惨にも霧散していった。
セレスティアの顔には焦燥が浮かび、息が荒くなり始める。
だが、それでも彼女は魔法の詠唱を止めることなく、何度も攻撃を仕掛けた。
オルレアはそんな彼女を見ながら、深いため息をついた。
「これ以上やると、倒れるぞ……まったくしょうがないな」
彼は軽く指を動かすと、空中に魔法の光が形を取り始めた。
「《
呪文が静かに響いた瞬間、光の縄が宙に現れると、まるで生き物のように素早く動き、セレスティアの体を巻き付けた。
光の束縛は彼女の四肢を固定し、身動きが取れなくなる。
オルレアはそんな彼女に近づき、軽い調子で肩をすくめる。
「はいはい、これが実力差ってやつだよ。もうよかろう? 降参してくれよ。そうすれば、俺も早く帰れるしさ」
セレスティアは、屈辱と怒りに燃える瞳で彼を睨みつける。
彼女の口元は硬く結ばれ、息が荒くなりながらも、はっきりとした言葉を吐き出した。
「私は、魔術師の誇りにかけて……絶対に降参なんてしない!」
声には決意とともに恐怖が混じっていたが、彼女の意志の強さは揺るがなかった。
オルレアは短くため息をつくと、困ったような表情を浮かべる。
「強情だな……でも、俺的にはさっさと帰りたいんだよ。どうしても降参する気がないなら……」
彼は手を再び軽く動かし、別の魔法を発動させた。
その瞬間、セレスティアの体が宙に浮き上がり、拘束されたまま空中に漂い始めた。
さらにオルレアが次の呪文を唱えると、彼の目の前に、巨大な釜が突然出現する。
その釜は漆黒の金属でできており、表面には奇怪な紋様が浮かび上がっていた。
釜の下では炎が赤々と燃え盛り、その中は煮えたぎる液体がぶくぶくと泡を立てている。
「今から君をこの釜の中に落とそうと思う」
オルレアの冷徹な声が場内に響くと、観覧していた生徒たちは一斉にざわめき始めた。
そのざわめきは次第に恐怖と混乱の色を濃くし、一部の生徒は観覧席から身を乗り出して声を張り上げた。
「先生、本気でやるつもりなんですか!? やめてください!」
一人の生徒が耐えきれず叫びながら、観覧席を飛び越え、演習場の端まで駆け寄る。
その表情は驚愕と恐怖で歪んでおり、何とかしてこの状況を止めたいという焦りがありありと見て取れる。
周囲にいた他の生徒たちも続き、オルレアの下へ駆け寄る。
「冗談でしょ!? 何でこんなことに……!」
「先生、やめてください! 本当に殺す気ですか!?」
しかし、そんな叫び声の嵐の中で、オルレアは微動だにせず、ポケットに片手を突っ込んだまま、セレスティアを宙に浮かせた状態で悠然と立っていた。
「だそうだけど、どうする? 降参する気になったかい?」
オルレアの言葉に応じようとしないセレスティアは、しかしその瞳に宿る決意とは裏腹に、声すら出せないほどの恐怖に包まれていた。
その顔は蒼白になり、唇は微かに震えている。浮かべられた姿勢のまま、彼女の身体は緊張で硬直し、全身から冷たい汗が流れていた。
しかし、彼女は相変わらずオルレアを睨みつけていた。恐怖を抱えながらも、その瞳には未だに屈しないという意志がかろうじて宿っている。
「聞こえないな。降参する気になったかどうか、もう一度聞いてやるよ」
だが、セレスティアは動けないまま沈黙を続けた。
「なら仕方ない」
彼は淡々とした口調でそう言うと、軽く手を振り、セレスティアを吊るしていた光の縄を解除した。――その瞬間。
セレスティアの身体が、まるで操り糸を切られた人形のように釜の中へと落ちていった。
水の中へ落ちる音と同時に、周囲の生徒たちから悲鳴が上がる。
「何を考えているんですか! 先生は今、生徒を殺してんですよ!」
怒号と悲鳴が入り混じる中、オルレアはそれらを無視して悠然と釜の方へ歩み寄った。驚きも恐れも微塵も見せず、むしろいつも以上に穏やかな表情を浮かべていた。
「どうだ? 少し頭は冷えたか?」
釜の中を覗き込むようにして言うと、周囲の生徒たちはその様子に再び困惑の声を上げた。
だが次の瞬間、釜の中から人影が浮かび上がった。
「え……?」
最初に声を漏らしたのは、群衆の中の一人だった。
続いて、生徒たちが目を凝らし、信じられないという表情を浮かべる。
釜の中から現れたのは、傷一つないセレスティアの姿だった。
水が体から滴り落ちていたが、その表情には怒りと困惑が入り混じったものが浮かんでいた。
「驚いたか?」
オルレアが嫌味な感じで、にやりと笑った。
「これは魔法で生み出した釜だぞ。もちろん、沸き立つ水もな。温度くらい自由に変えられる。彼女にはいいお湯加減、いや水加減だったんじゃないか?」
オルレアの言葉に、セレスティアの顔は怒りで赤く染まった。彼女の身体から滴る水が石畳に落ち、響き渡る音が場の静寂をさらに際立たせる。
彼女は拳を震わせながら、オルレアを睨みつけた。
「……ふざけるのもいい加減にしてください! どこまで私を侮辱する気ですか!」
「いやいや、ふざけてなんかいないさ。ただ、実力差ってやつを理解してもらえたかなと思ってね」
オルレアは肩をすくめ、余裕たっぷりに微笑みを浮かべたまま、再びポケットに手を突っ込む。その態度は、どこまでも飄々としており、セレスティアの怒りをさらに煽るかのようだった。
だが、セレスティアは言葉を返さなかった。いや、返せなかったのだろう。
圧倒的な力の差を目の当たりにし、悔しさと挫折感が混じった表情を浮かべる彼女の姿は、決闘を挑む前の凛々しい姿とはまるで別人のようだった。
その様子を見たオルレアは、わずかに目を細めた。そして、軽く首を傾げると、まるで思いついたかのように口を開いた。
「じゃあ、これでお開きだ。俺はそろそろ帰るけど、みんなも楽しめたかい?」
彼は軽く手を振り、立ち去る素振りを見せる。だが、一歩を踏み出す前に振り返り、思い出したように言葉を付け加えた。
「そうそう、大事なことを言い忘れてた。俺の授業には、もう出なくていいぞ」
その言葉に、周囲の生徒たちは驚きの声を上げた。
「どういうことですか?」
「理事長がな、俺の授業の時間に、自習室を開いてくれるらしいんだよ。そこには日替わりで講師もつけるとか。だからさ、そこで自主勉でもなんでも好きにやってくれよ」
オルレアはそのまま手を振り、気だるげに歩き出した。
「ま、俺としては助かるよ。面倒なやりとりが減るしね」
セレスティアは何かを言おうとしたが、その背中に声をかけることはできなかった。彼の言葉には皮肉と軽蔑が込められていたが、それ以上に実力でねじ伏せられたという現実が、彼女の誇りを重く圧し潰していたのだ。
オルレアの姿が消えると、訓練場に残された生徒たちはただ静かにその場を見つめ合うしかなかった。まるで嵐が通り過ぎた後のような、奇妙な空気が辺りを包み込んでいた。
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