第7話 堕落の真意
オルレアは重い足取りでフローゼの後を追った。
広大な廊下の両側には、装飾された大きな柱が規則正しく並び、その間には高価そうなタペストリーが掛けられている。
足元には深紅の絨毯が敷かれ、その上を歩くたびに靴音は吸い込まれるようにかすかなものとなる。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、無数のクリスタルが煌めき、まるで星空を閉じ込めたかのように輝いていた。
その光が二人の影を長く廊下に映し出し、二人の距離感をさらに際立たせているようだった。
どこか薄気味悪い静けさが漂う中、オルレアは自分の胸に渦巻く嫌な感覚を振り払おうとした。
それでも、フローゼの背中を見ていると、彼女の周囲に見えない蜘蛛の糸が張り巡らされているような錯覚が頭を離れない。
フローゼがリビングの扉を開け、中へと足を踏み入れた。
ヴァレンティーノ家のリビングは、まさに富と権威の象徴だった。
天井は高く、壁には金箔を施された木製のパネルが並び、そこに飾られた巨大な油彩画が部屋全体に荘厳さを与えている。
部屋の中央には、深紅のベルベットで覆われたソファが置かれ、その前には大理石のコーヒーテーブルが据えられている。
暖炉の上には精緻な彫刻が施され、火が灯るたびに彫刻が生きているかのような陰影を作り出していた。
フローゼは何の躊躇もなく、中央のソファに腰を下ろした。その動きは優雅で、どこか威圧感さえ漂わせている。
彼女はオルレアに向かって、空いているソファを指さした。
「早く座れ」
オルレアは一瞬ため息をつきたくなったが、無駄な抵抗はやめようと心の中で結論を下し、渋々ソファに腰を下ろした。座り心地が良すぎるのが、妙に腹立たしい。
フローゼは組んだ足を軽く揺らしながら、じっとオルレアを見つめた。
その瞳には冷たい光が宿り、唇には微かに笑みが浮かんでいる。
「随分なめた真似をしてくれたな。学院から連絡があった」
彼女の声には怒りを押し殺した静けさがあり、余計に威圧感を増している。
「初日から遅刻をして、挙げ句の果てに授業を放棄したんですって?」
「おいおい、そんなに怒るなよ」
オルレアは肩をすくめ、ふざけた口調で応じた。
「せっかくの可愛い顔が台無しになるぞ?」
その軽口に、フローゼの眉間にかすかな皺が寄る。
「ふざけるな」
その一言だけで、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「朝、ちゃんと学院まで連れて行ったわよね? どうやったら遅刻なんてできるの?」
「いや、それがさ、パンを買いに寄ったら――」
「そんなことを聞きたいんじゃない!」
フローゼの声がわずかに鋭くなり、オルレアは思わず口をつぐんだ。
「どうして、ちゃんとできないの?」
彼女は深く息をつきながら問いかけた。その声には怒りだけではなく、どこか諦めにも似た響きが含まれていた。
「確かに、君の言う通りだ。俺はあえて遅刻をしたし、授業内容も酷いものだったと思う。それらは既存の道徳規範からすれば、けしからん罪だろう」
フローゼは息を吸い、何か言いたげだったが、オルレアはその前に言葉を続けた。
「だが、このことの何がいけないんだ?」
彼の声には一切の後悔や反省は感じられない。むしろ、その口調はどこか挑戦的だった。
「それって、上辺だけの道徳規範だろう? そんなものを守って生きるのが、人間の本質だとは思えないんだ。人間なら、それでいいじゃないか」
フローゼはオルレアの発言を聞いて、何か言いかけたが、その表情には明らかな苛立ちの色が浮かんでいた。
美しい深紅の瞳が怒りにわずかに輝き、彼女の手がソファの肘掛けを軽く握る。
指先に力が入り、完璧に整った爪がベルベットの生地をわずかに沈ませる様子から、彼女の感情が高ぶっていることが見て取れた。
「オルレア――」
「最後まで聞いてくれ」
オルレアは彼女の言葉を遮り、手のひらを軽く上げて制した。
「俺も君も、生きている。そして、生きるということは、ほぼ必ず堕落することだ」
その言葉にフローゼの表情が曇る。
「堕落というのは、要するに誤魔化したり、汚いことをしたり、嘘をついたり……もっと言えば醜い劣情、例えば色欲や怠惰、暴力性とかね。これらは誰しもが持つもので、どんなに綺麗事を言ったところで、人間の本質から切り離せるものじゃない」
オルレアは天井を見上げながら、少しだけ自嘲気味に笑った。
「結局、人間とは堕落する本質を持った生き物だ。その事実は変えられない」
フローゼは目を細め、じっと彼を見つめていた。
その視線には明らかに怒りが宿っていたが、オルレアは意識してか、それとも無意識なのか、その怒りを無視して話を続けた。
「だからこそ、俺は堕落を恐れるべきじゃないと思うんだ。むしろ堕ちるところまで堕ちるべきなんじゃないか?」
彼女の手がソファの肘掛けをさらに強く握りしめるのが見えた。
その完璧な爪が、生地に深く沈み込む。怒りが頂点に達する寸前だったが、オルレアはそれに気づいていないかのように言葉を重ねた。
「でもね、フローゼ。人間は最後まで堕ちきることはできないと思う。どこかで、何かに気づくんだよ。堕落の果てで、自分自身でたどり着いた価値観なり、これは大事だと思えるものをね。そういうものを発見する。それが、たぶん人間が本当に『人間らしく』なる瞬間なんだ」
彼の瞳にわずかな光が宿る。
「俺はね、人間とはパンドラの箱みたいなものだと思う。表面上は厄災しか入っていないように見える。色欲、怠惰、暴力性――そんなものばかりが詰まっているように見えるだろう?」
フローゼは眉を寄せたまま、微動だにしなかった。オルレアはそれを確認しながらも話を続ける。
「でも、その箱の一番奥には、希望が入っているんだよ。そして、堕落をしないというのは、その箱を途中で閉めるようなものだ。つまり、その中に隠されている希望を永遠に閉じ込めてしまう行為なんだ」
「……」
「俺が思うに、人間ってのは、自分の汚れや醜さを隠さず、吐き出し、正直に向き合うことで初めて、その奥に隠されていた希望にたどり着けるんだと思うんだよ」
彼女の表情は険しく、怒りと呆れが混ざり合った複雑なものだった。だがその一方で、彼女は何も言わなかった。
オルレアはそんな彼女の反応をちらりと見やり、軽く笑った。
「だからさ、俺が遅刻して授業を適当にやったくらいでそんなに怒るなよ。堕ちに堕ち、堕ちきった先、最後に残るものは人の善意なのだから」
フローゼは、オルレアの無神経な一言に一瞬だけ瞳を伏せたが、すぐに彼を真っすぐ見据えた。
その深紅の瞳には冷たさと怒り、そして抑えきれない激情が宿っていた。
唇が微かに引き攣る様子から、彼女がどれほど苛立っているかが一目で分かる。
「……オルレア、私はね」
フローゼは深く息を吸い、彼の視線を一切外さないまま低い声で語り始めた。
その声には怒りが込められていたが、それ以上に抑制された冷静さが感じられた。それは、彼女がただ感情をぶつけるのではなく、彼を論破する意志を持っていることを示していた。
「私がこの社会を見て思ったことは――人間はお前が思っている以上に、もっとどうしようもない存在だということだよ」
その一言は重く、冷たかった。
彼女は肘掛けから手を離し、背筋を伸ばしてソファに優雅に座り直した。
その動作一つ一つには、まるで自分の感情を制御し、言葉を冷静に紡ぐ準備を整えるような意志が感じられる。
「いくら堕ちても、『大事なものを発見する』なんてことは、稀だと言える。ほとんどの人間は、堕落の果てになど辿り着かない。むしろ、果てちなく堕ち続け、さらに深い穴を掘り続けるんだ」
オルレアはその言葉を聞きながら、ソファに沈み込むように体を預けていた。
だが、その顔からは軽薄さが消え、少しだけ真剣な表情が浮かんでいる。
彼の薄い微笑みは消え、瞳にわずかな興味が宿ったようだった。
フローゼはそれを確認したかのように言葉を続けた。
「悲しみや、他者を救いたいという利他的な精神から堕ちるのならば、私は許せる。人間の弱さや哀しみが理由なら、そこには確かに救いの可能性があるかもしれない」
ここで彼女は一呼吸置き、その瞳がさらに鋭くなる。
「傲慢にも新聞を読んだだけで、ちょっと貯金があるだけで、ちょっと他人と違う能力があるというだけで、堕落の底で威張り散らしている、自己満悦している人間を嫌というほど見てきた」
フローゼの声は冷たさを増し、彼女の指が再び肘掛けを掴んだ。
その姿は美しい彫像のようだったが、その中に秘められた怒りの炎が微かに揺らめいているのを、オルレアは感じた。
「お前のように、堕落の果てに希望があるなんて――とてもじゃないが、私は言えない」
フローゼはオルレアを鋭く見据えたまま、唇を引き締めて言葉を続けた。
彼女の声は一層冷たく、しかしどこか重苦しい響きを帯びている。
それは単なる怒りだけでなく、彼女自身の中に深く沈んだ絶望や、どうしようもない諦念が混じったものだった。
「そういう意味で言えば、現代人はもう『人間』なんて呼ぶべき存在じゃないのかもしれない。むしろ、軽蔑の意味を込めて、『ヒューマン』、もしくは『サピエンス』と呼ぶべきだろう」
フローゼは微かに笑みを浮かべたが、その笑みは冷たく、皮肉に満ちていた。
「そうだ、私一人が立派なはずがない。私だってきっと、首元まで単なるヒューマンに成り下がっているのだろうよ」
フローゼは肩をすくめるように身を動かしたが、その動きはどこか硬く、重かった。
「だがね、オルレア。お前がいくら堕落を語ろうが、希望を探そうが――ヒューマンに囲まれた中では、必ず負けるだろう。実際に、今お前は負けているじゃないか」
オルレアは、その言葉に一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに元の気怠げな表情に戻った。
彼はフローゼの指摘を受け流すような態度を取っていたが、その目には彼女の言葉の一つ一つを噛みしめているような色が見え隠れしていた。
「仮に希望があるとすれば――この堕落の中で、危機の中で、混迷の中で――千人に一人、一万人に一人でも、高貴なる義務、つまりノブレス・オブリージュを果たしながら、実に高潔に楽しく生きている連中がいるということを示す以外にないのだろう」
フローゼの言葉が静かに部屋に響き渡った後、オルレアは小さくため息をつき、ソファの背もたれに深く身を預けた。
「相変わらず、悲観主義というか……ペシミズム的な世界の見方をどうにかした方がいいんじゃないか?」
オルレアは皮肉混じりに言いながらも、どこか軽やかさを感じさせる口調だった。
「遅刻や授業放棄を注意するために、そこまで話を広げられるのは、ある意味才能だな」
その言葉に、フローゼは唇を引き締めたままじっと彼を見つめた。
彼女の瞳には冷静な光が宿り、表情は微動だにしなかったが、その内心では呆れと苛立ちが入り混じっていた。
「お前が話を広げたんだろう?」
フローゼはため息をつきながら、肩をすくめて言った。
「私は普通に注意するつもりだった。もっと簡単に、『時間を守れ』とか、『生徒に責任を持て』で済む話だったんだよ」
「いやいや、君だってかなりノリノリで語っていたけど」
オルレアは少し笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「こんな哲学的な議論をするために、俺の授業態度を持ち出したんだろう?」
「……お前がそう仕向けたのよ」
フローゼは眉をひそめたが、その口元にわずかな微笑が浮かぶ。
「それより、お前こそ、その楽観主義に基づく似非ヒューマニズムをどうにかしたらどうだ?」
「似非ヒューマニズムだと?」
オルレアは茶化すような笑みを浮かべて答えたが、その目にはどこか挑戦的な光が宿っていた。
「そうよ。お前の言う『堕落の果てに希望がある』なんて考えは、どう考えても似非ヒューマニズムでしょう。本当に馬鹿馬鹿しい」
フローゼの声には冷たさが含まれていたが、その中にはどこか柔らかい諦めのような響きも混じっていた。
二人はしばらく見つめ合った後、同時にため息をつき、それぞれソファに深く腰を沈めた。
部屋には静けさが戻り、暖炉の炎がパチパチと小さく弾ける音が響いていた。
「まぁ、どちらが正しいかはいずれわかるだろう。短い付き合いじゃないんだ。俺の性格くらい、君も知っているだろう? 人の言葉で意見を変えられるほど、柔軟じゃないということを」
フローゼは静かに微笑んだ。その微笑みには、どこか疲れたような、しかし諦めきれない優しさが漂っていた。
「もちろん知っている」
彼女は暖炉の炎を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「だけど、こうして言うべきことをたまには言ってやらないと――お前、すぐに暴走するでしょう?」
その言葉に、オルレアは片眉を上げて、軽く肩をすくめた。
「俺が暴走する? それは少し過小評価じゃないか?」
「いや、過小評価でもなんでもない」
フローゼは軽くため息をつき、彼を真っ直ぐに見つめた。その瞳には微かな苦笑が浮かんでいる。
「オルレア、自分では気づいていないかもしれないけれど――案外、危なっかしいところがあるのよ。自由気ままなのはいいけれど、放っておいたらどこに行くか分からない」
オルレアはそれを聞きながら、膝の上で指を組み、少し考え込むような仕草を見せた。
「まぁ、そうかもしれないな」
彼はそう言うと、わずかに口角を上げた。
二人の間に漂う空気には、奇妙な安堵感があった。
長年の友人同士が互いの欠点を理解し合いながらも、それを責めるでもなく 受け入れるような、自然な関係だった。
フローゼはソファの肘掛けに手を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「お前には時々思うことがある。どうして簡単に私をイラつかせるのに、許せてしまうところがあるのかってね」
「それは俺の魅力だろうな」
オルレアが即座に答えたその言葉に、フローゼは呆れたように小さく笑った。
「いいえ、ただの慈悲よ」
フローゼの反論には冷たさがあったが、その声にはどこか温かさも混じっていた。
「それでも、君が俺を見捨てないのは事実だろう?」
オルレアは茶化すように笑いながら言った。
フローゼは一瞬だけ彼を睨んだが、やがて微笑を浮かべ、暖炉の火を見つめ直した。
「ええ、そうね。だって、放っておいたら本当にどうしようもないことになりそうだから」
オルレアとフローゼの関係は、まさに絶妙なバランスの上に成り立っているものだった。
互いに相手を完全に理解しているわけではない。皮肉や苛立ち、時には怒りが混じりながらも、その根底には揺るぎない繋がりが存在している。
「まぁいいさ」
オルレアは立ち上がり、軽く伸びをしながら言った。
「いずれどちらが正しいか、時間が教えてくれるだろうよ。それまでは、君の説教を聞くのも悪くない」
「説教じゃないわ、注意よ」
フローゼは微かに笑みを浮かべながら言い返した。
「そうだな。じゃあその注意、ありがたく受け取っておくよ」
オルレアのその言葉に、フローゼは少し呆れたように目を細めた。
暖炉の炎が優しく揺れ、二人の間に温かな光を投げかけていた。
それは、口喧嘩のようでいて、実はどこかで深く結びついている二人の関係を象徴するような光景だった。
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