第6話 反感と逆鱗

 夕刻の理事長室は、普段の静けさとはかけ離れた喧騒に包まれていた。

 窓から差し込む柔らかな夕陽が、室内の重厚な調度品に反射して煌めいているが、その美しい景色は荒れた議論の舞台としての緊迫感に埋もれていた。


「どうかお考え直しください、理事長!」


 前列で一際声を張り上げたのは、白髪交じりの初老の男性教授だった。

 その鋭い声が響き渡るたび、彼の拳が理事長の机に打ち付けられる。

 教授陣は全員険しい表情を浮かべ、次々と抗議の声を上げている。


「私たちは、このオルレア・ツァラトゥストラという、どこの馬の骨とも知れぬ男に、非常勤と言えども、この学院の講師職を任せるのは断固反対です!」


 彼ら声には鋭い刃のような強い意志が込められており、その発言に同調するように、他の教授陣も次々と口々に抗議の声を上げた。


「初日から遅刻、授業放棄、さらに生徒たちへの態度も酷いと聞いています! あんな人物が学院の名誉を守れるとお考えですか?」


「相談窓口に苦情が殺到しているそうです!」


「それだけでなく、あの男には“前科”があるという噂まで……!」


 詰め寄る教授陣の中には、カミーユの姿もあった。

 彼女は普段冷静な人物で知られているが、この場では他の教授たちと同じく険しい顔をしている。

 室内の議論は混沌とし、教授陣の抗議の声が重なり合っていく。

 そんな中、理事長であるギュスターヴは、机の奥の椅子に深く腰掛けていた。


「先生方のお気持ちは、十分に理解しております。ですが……どうか少し落ち着いてください」


 ギュスターヴの声は低く穏やかだったが、その声色がこの場を完全に静めるには不十分だった。


「理事長!」


 初老の教授が再び強い声を上げる。

 他の教授たちも一様に頷き、室内の怒りの空気は消えるどころかますます強まるばかりだった。


「このような男を採用した理由は、一体何なのですか? 学院の伝統と品位を守るべき立場として、説明を求めます!」


 ギュスターヴは、怒りに満ちた教授たちの視線を受け止めながら、やや苦々しい表情でゆっくりと口を開いた。


「……彼を採用したのは、ヴァレンティーノ女史たっての推薦があったからなのだよ」


 教授陣は一瞬言葉を失ったが、すぐに新たな抗議の声があちこちから上がった。


「ヴァレンティーノ家の推薦と言えど、それだけが理由で採用を決定するなど――!」


「学院の品位を守るべき立場として、あまりに無責任ではありませんか!」


 ギュスターヴは騒然とする教授陣の中で静かに視線を落としながら、もう一度重い口を開いた。


「ヴァレンティーノ女史だけではない……実は魔法省からも、彼を採用するようにという通達を受けているのだ」


 その言葉に、室内が一瞬静まり返る。


「……魔法省からですと?」


「そんな……国からの介入が?」


 驚愕と戸惑いが教授たちの顔に浮かんだ。


「そうだ。彼がこの学院で非常勤講師として雇用されることは、上層部の意向だ。このような状況で、我々に彼の採用を断る選択肢があると思うか? 不満はあるだろうが、もう少し様子を見ようではないか」


 ギュスターヴの言葉は冷静でありながらも重く、教授たちの抗議を押し返すような力を持っていた。

 それでも多くの教授陣は納得できない様子で声を上げ続ける。


「しかし理事長、これでは学院の自主性が――!」


「いくら上層部の意向でも、教育の現場で問題が起きれば、生徒たちが被害を被るのでは?」


 その時、議論が最も白熱している中、柔らかな低い声が部屋を静かに包み込んだ。


「みなさん、少し落ち着きませんか?」


 一際落ち着いたその声の主に、教授陣は一斉に振り返った。

 声を発したのは、若く端正な顔立ちの男性だった。二十代半ばの彼は、この場にいる他の教授たちとは対照的に冷静な態度を崩していない。

 縁の細い眼鏡は知的な印象を与え、その端正な顔立ちは穏やかな微笑みと相まって、見る者に安心感を抱かせる。

 彫りの深い目元と引き締まった口元は、どことなく貴族的な雰囲気を醸し出しており、その姿は教室に立つ教授というより、舞踏会での貴公子を彷彿とさせるものだった。


 彼の名はルシエル・エヴァンゼル。

 エデンガルド帝国魔法学院の中でも指折りの天才魔術師であり、帝国全体でもその名を知らない者はいないと言われるほどの実力者だ。


「もちろん、皆さんが不安や疑問を感じておられるのは十分理解できます。ですが、ここで感情的になるのは少し早いのではないでしょうか?」


 彼の穏やかで優しい声色が、興奮状態にあった教授陣を冷静に戻し始める。


「エヴァンゼル教授、しかし――!」

 

 抗議の声を上げかけた教授がいたが、ルシエルは相手の目を優しく見据え、柔らかに首を横に振る。


「確かに、ツァラトゥストラ先生の態度には目を見張るものがあります。遅刻、授業放棄、生徒たちへの対応……いずれも擁護しがたい問題ですね」


 その言葉には、あくまで同調する姿勢があり、教授たちは思わず頷いた。


「ですが、まずは理事長のおっしゃる通り、もう少し様子を見てみるのが賢明ではないでしょうか?」


「見守るですって?」


「しかし、彼の行動が生徒たちに与える影響を考えれば――」


 抗議の声を上げかけた年配の教授がいたが、ルシエルはその声を遮ることなく、ただ静かにその人を見つめた。

 金縁の眼鏡の奥の瞳は柔らかで、けれど揺るぎない意志を秘めている。


「確かに、問題があるのは事実です。ですが、ヴァレンティーノ女史、そして魔法省が彼を推している以上、そこには何かしらの背景や意図があるはずです。それを無視することが賢明だとは思えません」


 一瞬室内が静まり返る。その間に、ルシエルは微笑を浮かべながら、なおも言葉を重ねる。


「もちろん、皆様が抱いている不安が解消されない限り、この問題が終わらないことは承知しています。そして、生徒たちが不安を抱える状況を改善することが、我々の最優先事項であることも疑いようがありません」


 その声には、一切の敵意がなく、ただ純粋に周囲の意見を尊重する姿勢が込められていた。

 彼の言葉が終わるたびに、教授たちの表情からは徐々に険しさが薄れ、代わりに思案する色が浮かび始めた。


 だが、一部の教授たちの胸中には、どうしようもない苛立ちが渦巻いていた。

 こんな若造に―― その言葉が、何人かの心に浮かんだのは間違いない。


 ルシエルの年齢はまだ二十代半ば。ここにいる教授陣のほとんどは彼よりも一回り、二回り以上年上であり、長年この学院で教鞭を執ってきた者たちだ。

 それなのに、この若者の柔らかな言葉が場を収めていく様子に、彼らはどうしようもない屈辱感を覚えていた。


 だが、誰も彼に反論することができなかった。

 彼の言葉には確かな説得力が宿り、それを支えているのは、紛れもない実績だったからだ。


 ルシエル・エヴァンゼル――その名はすでに魔法界の歴史に刻まれている。

 魔法理論に革命をもたらした数々の論文、難解な魔法現象の解明、幾多の高位魔術師をも唸らせる実践能力。どれも他の教授たちが成し遂げるのに一生を費やすような業績ばかりだ。

 その圧倒的な功績は、彼の若さへの嫉妬や苛立ちを凌駕し、誰もが彼に敬意を抱かざるを得ないものだった。


「……エヴァンゼル教授の言う通りかもしれない」


 沈黙を破ったのは、一人の中年教授だった。彼に続き、他の教授たちも次々と頷き始める。


「エヴァンゼル教授……」


 カミーユが静かに呟いた。その声は低く抑えられていたが、ただの敬意以上の感情が滲んでいた。

 それは微かに震えるような響きを伴い、どこか恋心にも似た温もりを含んでいた。


 彼女も自分でも気づいていなかったかもしれない。

 普段冷静で理知的な彼女にとって、その感情はいつもの自分らしくないものだった。だが、その場でルシエルが見せた柔和な笑み、押しつけがましさのない穏やかな態度、そして彼の能力を裏付ける輝かしい実績――それらが、カミーユの胸に小さな火を揺らしたのは間違いなかった。


 そんなカミーユの変化に、ルシエルは気づいたのかもしれない。

 彼は視線を向け、微笑を浮かべながら静かに頷くと、話を続ける。


「ありがとうございます。ですが、私はただ、先生方が最良の結論にたどり着くための少しばかりの助力をしただけです」


 その謙虚な姿勢に、反論しようとしていた教授たちの言葉がまた消えた。彼が心からの誠意で話していることが、誰の目にも明らかだったからだ。

 すると、その場の緊張を締めくくるかのように、ギュスターヴが重々しく口を開いた。


「さすがはエヴァンゼル教授だ。実に見事な判断を、実に見事な結論を導き出してくれた。こうして議論を収束させてくれる存在が、学院にいることを私は誇りに思うよ」


「ありがとうございます、理事長。ですが、私の意見が全て正しいとは限りません。今後も、先生方と協力しながら、問題に向き合っていければと思います」


 彼の言葉に、多くの教授が静かに頷いた。

 その裏にある誠実さと冷静さが、議論に一区切りをつけることを暗に示していた。

 ギュスターヴはもう一度周囲を見渡し、重々しく話を切り上げる。


「それでは、この件については一旦ここで議論を終えるとしよう。あと数週間は、ツァラトゥストラ先生の様子を見守り、問題があるようであれば、その時に再び対策を協議しよう。もちろんヴァレンティーノ女史には、私から話を通しておく」


 教授たちの中には納得いかない表情を浮かべる者もいたが、理事長とルシエルの二人が議論を収束させた以上、これ以上抗議の声を上げることはできなかった。


「それでは、先生方。お疲れ様でした」


 ギュスターヴに促され、教授たちは一人、また一人と部屋を後にした。

 その中には、まだ不満を抑えきれない様子で肩を落とす者もいたが、ルシエルの存在が議論の終焉を決定づけたことは疑いようがなかった。


◇   ◇


 空はすっかり夕闇に包まれ、ローウェンの街は夜の帳を迎えつつあった。

 街路を照らすガス灯が、柔らかな光を周囲に放ち、石畳の道にかすかな陰影を落としている。

 行き交う人々は昼間の喧騒を終え、それぞれの家路に急ぐ姿が見える。

 馬車の車輪がカラカラと音を立てて通り過ぎ、遠くで響く教会の鐘が時間の流れを静かに告げていた。


 オルレアは疲れた足取りで歩きながら、薄暗い街並みをぼんやりと眺めていた。

 街の中心部を抜けると、次第に人影はまばらになり、彼が進む道の先には貴族たちが住む住宅街が広がっていく。


 貴族屋敷が立ち並ぶ街区は、昼間でも静けさに包まれているが、夜になるとその静寂はさらに深くなる。

 巨大な鉄柵の門と高い塀が、道沿いに次々と並び、その奥には暗がりの中に浮かび上がるように堂々たる屋敷が佇んでいる。

 石造りの建物はどれも風格があり、磨き抜かれた窓ガラスが、ガス灯の明かりをわずかに反射している。

 オルレアは、まるで誰かに見られているような、妙な居心地の悪さを覚えながら、その道を歩き続けた。


「まったく、大層な家ばかりだよな……」


 彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。

 手をポケットに突っ込みながら、わざと気にしない素振りを装って歩を進める。


 やがて、彼の視界の中に、他の屋敷とは一線を画する豪奢な建物が現れた。

 他の貴族の屋敷ですら見劣りしてしまうほどの壮麗な姿――その屋敷は、ヴァレンティーノ家の邸宅だった。


 高くそびえる石造りの壁、門柱に彫られた精緻な紋章、手入れの行き届いた庭園を覗かせる巨大な鉄の門。

 そして、屋敷そのものは、荘厳さと華美さを兼ね備え、まるでこの街全体を支配しているかのような威圧感を放っている。

 暗がりの中で、その巨大な建物の輪郭がぼんやりと浮かび上がり、屋敷に据え付けられた灯火が不気味なほどに輝いている。


 見慣れた建物のはずだった。何度もこの門をくぐり、何度も中へと足を運んできた。だが、今夜に限って、その屋敷はいつもと違う雰囲気を纏っているように感じられた。

 彼の心に湧き上がるのは、説明のつかない嫌悪感と、奇妙な不安だった。

 屋敷へと近づくにつれ、その感覚はさらに強まる。彼の胸の中で小さな声が囁く。


「お前は虫だ。この屋敷に近づくのは、蜘蛛の巣に引き寄せられる愚かな虫だ……」


 心臓がわずかに早く打つのを感じる。

 門がまるで巨大な蜘蛛の巣の入り口のように見えた。

 門柱に飾られた紋章の彫刻が、暗がりの中で微かに光を帯び、そこに目を奪われるたびに、彼は一歩を踏み出すのにためらいを覚えた。


「馬鹿馬鹿しい……」


 オルレアは自分自身に言い聞かせるように呟いた。だが、その声はどこか弱々しく、かすれていた。

 手を伸ばし、門の鉄柵に触れる。冷たく硬い金属の感触が指先を通して伝わってくると、彼は何とか気を取り直し、門を押し開けた。


 門を押し開けると、ギギギ……と鈍い音を立てて重い鉄の門が動いた。 その音が、静寂に包まれた庭に不自然に響く。

 彼は一瞬立ち止まり、屋敷の正面にそびえる大きな扉を見つめる。

 暗闇の中で、それはまるで目を覚ました怪物の口のように思えた。


 彼はもう一度、自分に言い聞かせるように呟きながら、足を動かした。

 玄関扉に手をかけると、冷たい金属の感触がまた指先に伝わる。鍵は開いている。彼はゆっくりと扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。


 ヴァレンティーノ家の広大な玄関ホールは、夜にもかかわらず煌々と明るく照らされていた。

 天井から吊るされたシャンデリアが無数の光を放ち、その光が磨き抜かれた大理石の床や、壁に飾られた高価な絵画の額縁に反射してきらめいている。

 そんな光の中、玄関に立つ彼の目の前に現れたのは―― フローゼ・ヴァレンティーノ。


 彼女は相変わらず完璧なまでに美しかった。漆黒の髪が波のように肩に流れ、深紅の瞳が輝きを放っている。

 その唇には優美な笑みが浮かび、その顔立ちは、見る者すべてを魅了する魔性を秘めていた。


「おかえりなさい、オルレア」


 フローゼの声は甘やかで、耳に心地よい響きを持っていた。それが彼女の魅力の一部であり、罠の一部でもある。

 オルレアはその笑顔を見て、どこか心の奥底で諦めにも似た感覚を覚えた。

彼女の笑顔の背後に隠されている冷たさ、計算された冷酷な本性。それを彼はよく知っていたからだ。


「なるほどな……」


 オルレアは心の中で思った。

 敗軍の将は、退却開始の相当前から、その運命を自覚したはずである―― 歴史の言葉が不意に脳裏をよぎり、彼はその真意を今になってようやく理解した気がした。


「どうした? 顔色が悪いぞ」


 フローゼが首を傾げる。その仕草すら、何か恐ろしい策略の一環であるかのように見えるのは、彼の偏見だろうか。


「いや、ちょっと学院に忘れ物をしてしまってな」


 オルレアはできるだけ自然に振る舞いながら、言葉を選んで口にした。これは数日は家を離れた方が良い。そういった確信が彼の中にある。


「だから、取りに戻らないといけないんだ。すぐに行ってくる」


 そう言って後ずさり始めると、フローゼは微笑を深めたまま、軽く首を振った。


「忘れ物? 明日も学院に行くのでしょう? だったら気にすることはない」


 その声には、逃がすつもりはないという確固たる意志が込められていた。


「いや、まあ……今日中にどうしても必要なものなんだよ。それに――」


「いいから」


 フローゼの言葉が彼の反論を遮った。その声には甘さが残されていたが、ほんの一瞬、その瞳が冷たく光ったように見えた。


「それよりも、少し話がある」


 彼女は手を軽く振り、後ろを向くと、長いローブの裾を揺らしながら優雅に歩き出した。

 オルレアは一瞬、ため息をつきたくなる衝動を覚えたが、それを飲み込む。


「……仕方ないな」


 彼はしぶしぶ足を動かし、フローゼの後ろについていった。彼女の背中に見え隠れする蜘蛛の糸のようなものを感じながら――。

 広大な屋敷の廊下を進む二人の影が、シャンデリアの光に長く映し出されていた。

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