第5話 非常識な講師にはご注意を
エデンガルド帝国の魔法学院において、魔法薬学の授業は講義と演習が一体となって進められる。そして、魔法薬の調合は生徒や講師自身が手を動かし、素材を細やかに加工し、器具を繊細に操り、触媒や試薬を正確に取り扱うのだ。
その過程では、衣服がひどく汚れたり、薬品の匂いが染み付くことも少なくない。だからこそ、オルレアは彼の研究室で、調合用のローブに着替えることにしたのだ。
研究室の一角にあるロッカーから、彼は真新しいローブを取り出す。それは黒いローブなのだが、黄金の模様が独特なものだった。
全体的に深い黒で染色されているのだが、袖や裾、襟元などに赤のラインが走り、その模様をより際立たせていた。
彼はローブに着替えると、そのまま研究室を後にする。
向かった先は、魔法薬学の実習室だ。
この実習室は、この魔法学院の中でも特に神秘的な魅力的な場所とされている。
オルレアがゆっくりと扉を開けると、不思議な香りが彼を迎えた。
その空間は、昔ながらの錬金術師のアトリエを思わせる趣があり、天井までに届きそうな棚には無数の瓶や壺がぎっちりと並んでいる。
それぞれの容器には、色とりどりの液体や奇妙な粉、乾燥した薬草や輝く鉱石が詰められており、室内は神秘的な空気が満ち溢れていた。
室内には十数台の作業机が設置されており、どれも4〜5人が座れる大きさだ。
その机は長年の使用により、かすかな傷や焦げ跡が刻まれ、魔法薬作りの歴史を物語っていた。
各席には、魔法薬の調合に必要な器具が整然と配置されており、調合用の釜や乳鉢、刃物などが用意されている。
オルレアが、どこか気怠げに足を踏み入れると、生徒たちは一斉に彼の方を振り向いた。
彼は生徒たちに軽く頷き、実習室の一角にある自分の席へと向かう。
そのデスクの背後には、大きな黒板が備えられていた。
「さて、今日は魔法薬の調合だ。これからお前らには、魔法薬学の基礎中の基礎を学んでもらう。これは講義というより実習だ。実際に手を動かして、魔法薬を作る作業をしてもらうわけだな」
魔法薬の調合は、この学院の魔法教育において特に重要な課題とされている。
薬の調合に成功すれば、それは魔法薬学の理論を理解した証となり、生徒たちの自信を大いに高めることになる。
オルレアはゆっくりと歩きながら話を続けた。
「魔法薬の調合というのは極めて難しい作業だ。材料の種類を間違えれば失敗するし、温度管理が不適切だと薬の効果が失われることもある。適切な手順を守り、几帳面に作業することが重要だ」
彼の口調には、一瞬だけ真剣さが垣間見えた。
オルレアは黒板の近くに置かれていたチョークを手に取り、簡単な図式を書きながらさらに説明を続けた。
「例えば、薬品の中には温度が一定以上で効果を発揮するものや、逆に熱を加えると揮発してしまうものもある。また、魔法的特性を持つ液体は、それぞれが干渉し合う性質を持っている。混ぜる順番や割合を間違えれば、ただの効果を現れないどころか、毒薬になることもあるから注意しろ」
彼の説明は、一見すると的確であり、実習を成功させるための具体的な指導のように聞こえた。
だが、チョークを置いて手を払うと、黒板を指さしながら肩をすくめた。そして、こう付け加えた。
「まぁ、今話したことは、全部教科書の1ページ目に書いてあったから、たぶんそうなんだろう。よくは知らないけど」
その瞬間、教室内の雰囲気が一変した。
緊張感がみるみるうちにしぼみ、真剣にノートを取っていた生徒たちの手が止まる。彼の言葉は、まるで精巧に作られた極上のステーキの上に、生クリームをぶっかけたようなものだった。
せっかく少しばかり盛り上がっていた気持ちを台無しにされた生徒たちは、困惑したように顔を見合わせた。
「教科書の64ページを開け。今日の課題はハーブポーションについてだ」
そう言いながら、オルレアは椅子に腰を下ろし、手元の教科書を開いた。
そのページをめくる手はどこか機械的で、情熱の欠片も感じられなかった。
「えーとこの魔法薬の主な材料は、癒し草、リブハーブ、そしてノストリのキノコとなっており……」
教科書に書かれた材料を指し示しながら説明を続行する。
「癒し草はその名の通り、傷や病気を癒す効能を持っている。また、リブハーブは体力とエネルギーを回復させる効果があり、最後にノストリのキノコは、これらの効果を強化し、調整するのに役に立つ」
オルレアは小さな欠伸を噛み殺そうとすらせず、大きく口を開けてあくびをした後、適当に指先で教科書を叩きながら説明を続ける。
生徒達は彼の一言一言に耳を傾けてはいたが、あまり授業に集中してる様子はない。やはり、彼の態度に触発されているのだろう。
「癒し草とリブハーブは細かく切って、沸騰した釜に入れるんだ。それから、だいたい十分くらい煮る。……たぶん。そしたら、ノストリのキノコを乾燥させたやつを粉末にして、最後に加える。で、かき混ぜれば完成するらしい」
彼の説明は終始淡々としており、教科書の内容をただそのまま読み上げているだけに過ぎなかった。
語尾には確信も情熱も感じられず、「らしい」「たぶん」といった言葉が頻繁に挟まる。その姿からは、講師としての責任感どころか、この授業自体への興味も微塵も伝わってこない。
「お前ら、ここに書いてある通りにやればいいからさ」
オルレアは教科書を指差しながら続ける。
「具体的な手順とか細かいポイントは、まぁ、そのページに全部書いてあるよな。だから、俺が一々繰り返す必要あるか」
生徒たちは次々とため息をつき始めた。彼らは最初こそ真面目に聞いていたものの、講師のこのやる気のない態度を前に、集中力を保つのが難しいと感じているようだった。
後列の生徒たちは既にペンを置き、肩をすくめて隣の生徒と目を合わせる。
前列に座っていたセレスティアでさえ、額に手を当てて小さく頭を振り、露骨に不満を表していた。
しかし、オルレアはそんな生徒たちの反応を全く気に留めることなく、話を続けた。
「ちなみに、こういう実習の目的ってのはだな、要するに『やってみて覚える』ってことだ。だから、何かあったら教科書を見ろ。ページ数はさっき教えたよな?」
そのあまりに無責任な発言に、生徒たちのため息はますます大きくなる。だが、オルレアはそれを気にするどころか、むしろ楽しんでいるようにも見える。
「では、実際に調合してみようか。早速始めてくれ」
オルレアが言い終わるやいなや、生徒たちは一斉に立ち上がり、調合の準備を始めた。しかし、その動きはどこかぎこちなく、調合を成功させる自信がないことを示していた。
無理もないことだ。魔法薬の調合は高度な技術と知識を要する複雑な作業であり、単なる手作業とは次元の違う難しさを孕んでいる。
そんな中、教室の片隅では、講師であるオルレアが机に突っ伏して堂々と眠り始めていた。
頬杖をついたままいつの間にか頭を沈め、微かに響いていた寝息は、次第にはっきりと音を立てるようになった。
そのリズミカルな音が、実習室の中に浮いている。
「……この先生、本当にひどいよね。こんなに授業に興味がないなんて」
前列の一人の生徒が小声でつぶやいた。その言葉は、実習台を囲む仲間たちにも十分聞こえる音量だった。
「正直さ、この先生って何考えてるか分からないよね」
「せっかくこの学院に入れたのに、こんな授業のために努力したのかと思うと、情けなくなるよ」
「やる気がないなら、早く辞めればいいのに」
他の生徒たちも視線を交わし、軽い同意の仕草を見せた。中には明らかに憤りを隠せない表情を浮かべている者もいる。
「どうせ、授業が終わったら適当に誤魔化して、俺たちが失敗したのを責めるんだろうな」
「あの態度で講師としての責任感とか、絶対にないよな」
そうした不満が小さなささやき声から始まり、次第にあちこちの実習台で話題に上がり始めた。
生徒たちの顔には苛立ちや落胆の色が広がり、不満が教室全体に蔓延していく。
「せめて、こっちの作業を見てるフリくらいしろよ」
「他の先生ならちゃんと教えてくれるのに……あんな奴、どうして講師になれたんだ?」
そんな声が次第に大きくなり、オルレアの寝息に混じって、実習室はざわつき始めた。
やがて、そのざわめきがオルレアの耳にも届いたのだろう。
彼は重たそうに頭を上げ、寝ぼけたような顔をして周囲を見渡した。そして、眉間にしわを寄せながら不機嫌そうに口を開いた。
「うるさいなぁ……」
教室内のざわめきが一瞬止まり、全員がオルレアに視線を向ける。
「人が寝てるんだから、もう少し静かにできないのか?」
その一言は、信じられないほどの衝撃と怒りを生徒たちに与えた。
講師としての責任を果たさないどころか、自らの怠惰を堂々と主張する彼の態度に、教室内の空気が一気に凍りつく。
「俺はデリケートなんだよ」
さらに追い打ちをかけるようにオルレアが続けた。
「寝てる間に周りでガチャガチャされると、全然落ち着かない。だから、もうちょっと気を使ってくれると助かるんだけどな」
教室内は完全に静まり返った。だが、その静けさは決して落ち着きによるものではなく、尋常ではない怒りと不満が蓄積された結果だった。
「昼にジャムパンを食べたから、血糖値が上がっているんだろうな。眠いし、研究室に帰るわ」
オルレアが椅子にもたれかかりながら呟くと、教室全体を一瞬で凍りつかせた。
それまでの彼の態度に怒りを抑えていた生徒たちも、この発言にはついに堪忍袋の緒が切れたようだ。それも、当然であろう。
前列に座っていたセレスティアが勢いよく立ち上がり、机を叩く音が教室中に響く。彼女の碧眼には怒りの炎が宿り、その声は震えていた。
「いい加減にしてください!」
その一喝に教室がさらに静まり返り、他の生徒たちは息を呑んで二人を見守る。
「あなたは本当に講師ですか? 教える能力もなければ、教える資格もない。そんな態度で授業をするくらいなら、さっさと辞めた方が良いんじゃないですか?」
セレスティアの言葉は、これまでの生徒たちの不満をすべて代弁するかのような鋭い一撃だった。だが、オルレアはその言葉に動揺するどころか、面倒くさそうに肩をすくめただけだった。
「どうしてそう話を逸らすかな。俺は今、ジャムパンを食べて血糖値が上がったって話をしているんだよ」
残された生徒たちは呆然としていたが、次第に怒りがこみ上げてきたようだ。
彼らの怒りは、オルレアの無責任な態度に対するものだけでなく、彼らの努力や学びを軽視する姿勢に対するものでもあった。
「ふざけないでください!」
セレスティアが再び声を張り上げた。
碧眼には激しい怒りが宿り、その声は教室全体に緊張感をもたらした。
彼女の震える声には、学院への期待と努力を無にされたことへの強い悔しさが込められている。
「講師としての責任を全く果たしていないじゃないですか! 私たちは真剣に学びたいと思っているのに、あなたはその気持ちを冒涜しているんですよ!」
教室内の他の生徒たちも彼女に同意しているのか、強く頷いたり、小さな声で「そうだよ」とつぶやいたりしていた。
全員がオルレアに対する不満を隠すことなく表に出している。それほどまでに、彼の態度は容認しがたいものだった。
しかし、オルレアはそんな抗議の声をものともせず、冷めた目つきでセレスティアを見返すと、肩をすくめてこう言った。
「まぁ、俺に文句を言うのは自由だよ。でも正直、無駄だと思うけどな」
「何が無駄なんですか?」
「俺はさ、人に何度注意されたとしても改めない性格なんだよ。だから、そんなことに時間を費やすよりも、この学院の本館にある生徒相談窓口に行った方がよっぽど意味があると思うけどな」
その無関心で他人事のような態度に、生徒たちの間からざわざわと怒りの声が漏れ始める。しかし、オルレアは教室に漂う怒りと不満の空気をまるで意に介さない様子で、大きく伸びをした。そして、面倒くさそうに席を立ち、ゆっくりと扉の方へ歩き出す。
「じゃぁ、そういうことで」
軽く片手を上げて生徒たちに背を向ける。
その態度は、あまりにあっけなく、無責任だった。教室に残された生徒たちは、一瞬、その行動が冗談なのか、それとも本気なのか分からなかった。だが、オルレアがそのまま何の迷いもなく実習室の扉を開け、姿を消した瞬間、彼らはそれが現実であることを理解した。
「……本当、何なのあいつ!」
セレスティアが怒りを爆発させるように叫ぶ。
彼女の声には抑えきれない苛立ちが込められていた。その言葉を皮切りに、教室内の生徒たちの不満が一気に噴き出した。
「意味が分からないよ! 何であんな人が講師なんだ?」
「信じられない、あまりに非常識すぎる」
口々に不満をぶつける生徒たちの声が部屋に響き渡ったが、オルレアにはもう届いていないだろう。しかし、それでも彼らはその不満を口にせずにはいられなかった。
それは、彼らの間に芽生えたある種の連帯感のようなものだったのかもしれない。
生徒たちは、彼に対する不満を共有し、彼に対して抗議することを心に誓ったのだ。
その日の授業が終わる頃には、生徒たちの間に一種の結束が生まれていた。
彼らはオルレアに対する小さな反抗の意志を共有し、彼との間に静かな対立の火種を抱えることになったのだった。
彼の姿が消えた後も、彼らの中にはまだ怒りの炎がくすぶっていた。
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