第4話 ジャムパンは裏切らない

 教室内には、ひそひそとした囁き声が響き渡っていた。


「うわー、見ろよ。あの講師を……」


「あぁ、初めて見た……自分の講義で眠くなってる人なんて……」


「真面目に授業をやる気があるのかあの講師」


 生徒たちの冷ややかな視線は一斉に教卓の方に向けられていた。そこでは、オルレアが教卓に足を乗せ、ウトウトしながら教科書を読み上げていた。


「~~またピクシーの特徴として、20センチほどの身長、青白い皮膚、闇でも光る目~~が挙げられ、~~生息地は古代の塚やストーンサークル、洞窟など~~」


 オルレアの声は無機質で、感情が込められていない。まるで機械が朗読しているかのような口調に、生徒たちの失望は募るばかりだった。


「あぁ、グライム先生はよかったな……」


「そうだよね。早く復帰してもらいたいよね」


 オルレアの行う初めての授業、それは生徒たちからしてみれば酷いものでしかない。

 彼の態度は教職を冒涜するかのようで、教科書に書かれた内容をただ機械的に読み上げるだけのお粗末な説明に終始していた。

 こんな授業は拝聴するだけ無駄であり、その時間に自分で教科書を開いて独学した方がよっぽどマシなものがなるだろう。


「……この授業はぶっちゃけ自分で勉強した方がいいかもしれないな」


「あぁ、それにしてもあの変人講師、よく採用されたな」


「やっぱり、コネとかあるのかな?」


 普段であれば授業中に私語などほとんどしないであろう生徒達も、オルレアのやる気のない態度に感化されたのであろうか、皆思い思いに喋り始める。

 それでもごくわずかに、この最低な授業から何か得るべきものを得ようとする真面目で健気な生徒もいた。


「あの先生……質問があるんですけど」


 とある小柄な女子生徒がおずおずと手を上げる。

 名前はエマ。守ってあげたくなる保護欲を存分に掻き立てられる、おとなしいそうな雰囲気の少女だ。


「えっ……質問ね。どうぞ、言ってみな」


 オルレアは眠たそうにしながらも、ちゃんと講師らしく言葉だけは返す。

 彼はパタンと教科書を閉じると、少女の方に向き直る。


「ええと……先ほど先生は、ピクシーは魔法薬の材料として用いられていると説明されていましたが……どのような魔法薬に使われているのですか?」


 少女はおどおどしながらも、なんとか最後まで自分の思いを伝えきったようだ。

 そんな健気で努力家な少女の質問に、オルレアは頭を搔くと面倒くさそうな態度で説明を始める。


「例えば、ピクシーの鱗粉には脳内の神経伝達物質の働きを調整し、精神を安定させる作用があるんだ。コンソラーレ薬って知ってるか?  うつ病やPTSDの治療に使われるやつだ。あれの主要な成分がピクシーダストなんだよ」


 ここでオルレアは一旦句切ると、僅かに間をあけてから言葉を続ける。


「また、ピクシーの血には強力な鎮痛作用がある。昔はこれを乾燥させて、鎮痛剤として使っていたんだ。だけど、この血にはもう一つの作用がある。気分を高揚させるんだ。だから、過剰に摂取すると依存症を引き起こし、最悪の場合、死に至る」


 彼は少し間を置いて、生徒たちの反応を窺うように視線を巡らせる。


「まぁ、三百年ほど前までは、その血を乾燥させたものが広く鎮痛剤として使用されていたけどね。そして、この血を材料とし、さらに効果を強めたものが悪魔の薬・カエメディカ薬ということだ。まぁ、薬というより麻薬に近いかもな」


 彼の説明は、どこか淡々としていた。しかし、その内容はどれも興味深く、どこか暗い魅力を持っている。

 長い冬の夜に語られる禁断の物語のように、聴く者の心に深く刻み込まれていった。


 教室内では、生徒たちの反応が二分されていた。

 一方では、オルレアの無気力な態度に失望する者、もう一方では、その暗示的な話に引き込まれる者。特にエマは、彼の言葉に真剣に耳を傾け、時折メモを取る姿が見受けられた。


「まぁ、ピクシーが昔から乱獲されるのはこういった理由がある。……この辺で終わりでいいかい?」


「はい、ありがとうございました」


 そう言って頭を下げるエマ。

 一方、オルレアはそんな彼女の真面目で熱心な態度を一瞥すると、すぐに教科書に視線を戻し授業を再開する。


 そんなこんなで彼による授業は進み、やがて今日の内容を終える。

 彼の初授業は、期待通りとは言えなかったが、それでも一部の生徒には何かを残したようだった。

 生徒たちは、彼が無気力で怠惰な態度を見せながらも、教師らしい一面を垣間見せたことに、複雑な思いを抱きながら教室を後にした。


 ◇   ◇


「ふわぁ、疲れたなぁ。午後の授業、まったく気が進まないな」


 現在、時刻は十二時を少し過ぎたところ。昼休みの穏やかなひとときが訪れていた。

 オルレアは、彼の領地とも言える研究室で一人、欠伸を堪えながらミント茶を淹れる準備をしている。


「……やっぱりこれだな」


 彼は小さく呟き、白い角砂糖を一つカップに投げ入れる。カップの中で氷が溶けるかのように、砂糖はゆっくりと姿を消していく。

 スプーンでゆるやかにかき混ぜると、まるで月明かりが水面に映るように、ミント茶は淡い色合いを帯びて輝き出した。


 静かな部屋の中、清澄な液体がティーカップに注がれる音が、微かに響く。ミントの爽やかな香りが、まるで春の風が草原を駆け抜けるように、部屋全体に広がっていく。

 鼻孔をくすぐるハッカの清涼感が、オルレアの心をそっと包み込み、授業で溜まった疲れを解きほぐしていった。


 エデンガルド帝国魔法学院では、非常勤の講師であっても個人の研究室が提供されている。

 この施設は、多くの教授たちが昼休みや放課後に自分の研究に没頭するための拠点となっていた。

 学院内の教授たちは、魔法の奥義を探求し、複雑な実験に没頭し、深遠な論文を執筆する場として、この空間を活用している。しかし、オルレアにとっては、そんな重厚な活動とは無縁のただの隠れ家に過ぎなかった。


 オルレアの研究室は、まるで彼自身の性格を映し出したかのように、シンプルで無駄のないデザインが施されていた。余計な装飾や物品は一切なく、清涼感すら漂うほどに簡素だった。

 彼には物質的な執着心が欠けているのか、あるいはただの面倒臭がりなのか、その簡潔さは彼の暮らしに対する無頓着さを示していた。


 淹れたてのミント茶を手に取り、彼は研究室の一番奥にあるデスクに腰を下ろした。カップから立ち上る湯気が、まるで彼の疲れを慰めるように揺れ動く。


 学院の本館には、生徒たちに人気の食堂があり、そこで提供される料理は、低価格でありながらも格別に美味しいと評判だ。

 豪華な魔法の調理技術が惜しみなく使われており、学院の食堂はまるで小さな美食の楽園のようだった。


 生徒たちは、食堂での賑やかな食事を楽しみにしており、友人たちと談笑しながら食事をするのが日常の光景であった。しかし、オルレアにとって、そのような社交の場はどうも性に合わない。

 喧騒の中で食事をするよりも、静寂に包まれたこの個室で、ただ一人、穏やかな時間を過ごすことの方が心地よかったのだ。


 今日の昼食は、朝早く訪れた近くのパン屋で購入した苺のジャムパンが二つ。

 フローゼが作らない限り、彼の食事はいつもこんな具合で質素なものだった。

 外見は素朴だが、その中身はオルレアの心を掴んで離さない。


 オルレアは、カップを片手に苺のジャムパンを一口かじる。

 パンの生地はふんわりとして柔らかく、噛むたびにほのかな甘みが口いっぱいに広がる。そして、パンの中央から現れるのは、鮮やかなルビーのように輝く苺ジャム。

 ジャムの甘酸っぱさが舌の上で絡みつき、その芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。まるで、幼い頃の記憶が一気に蘇るかのような懐かしさと、心を満たす幸福感が一体となる。


「やはり俺はジャムパンが好きらしいな。だが果肉入りだとか、やたら気取っているものはダメだ」


 オルレアは、お茶でパンを流し込むと、誰に聞かせるでもなく静かに呟く。

 彼にとって、このジャムパンの魅力は、気取らないシンプルさにある。

 素朴なパンの味が、苺ジャムの甘酸っぱさによって一層引き立てられ、そのバランスが完璧なのだ。


 彼は、ジャムの絡みつく甘さとパンのふんわりとした食感を一口一口味わいながら、丁寧に咀嚼し続ける。そして、また一口……。その間、部屋の中には、静かにパンを咀嚼する音と、時折ミントティーを啜る音だけが響いていた。

 それは、静寂が奏でる穏やかなメロディのように、オルレアの心を包み込んでいた。


 彼はティーカップを手に取り、一口ごとにその温かな液体をゆっくりと味わう。

 ミントティーの爽やかな清涼感が、喉を通り過ぎるたびに、心の奥底まで浸透していくようだった。

 ティーカップを持つ指先に感じる暖かさが、まるで心をも温めてくれるかのようだ。


 窓の外を眺めながら、オルレアの視線は遠くへと向かっていた。

 格子窓越しに見える景色は、どこか淡く霞んでいる。

 外の世界は生徒たちの賑やかな笑い声と、喧騒で溢れているだろう。しかし、彼にとって、その賑やかさはどこか異質で、まるで別の世界の出来事のように感じられた。


「まったく、どいつもこいつも堕落が足りない。堕落こそが、人を救う道だと言うのに」


 オルレアがぼそりと呟いたのは、ちょうどカップのお茶を飲み干そうとした時だった。

 その声は低く、どこか哀愁を帯びている。彼の口元から零れた言葉は、まるで古い詩篇の一節のように、重く心に響いた。


 彼の目には、学院の中庭で談笑する学生たちも、担当のクラスの生徒たちも、まるで檻の中の鳥のように映っていた。

 彼らは自由を求めて羽ばたきたくもなく、また檻から出たいとも思わない。

 与えられた小さな世界で満足しているように見える彼らの姿は、彼の心に重くのしかかっていた。


「さて、と……」


 カップのお茶を飲み干したオルレアは、再び静かな部屋に視線を戻し、手の中の空のカップを見つめた。その中には、残り少ない時間のように、わずかなミントの香りだけが漂っていた。

 彼はその香りに癒されながらも、同時に、束の間の平穏が過ぎ去ることに一抹の寂しさを覚えていた。

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