第3話 破天荒な講師
エデンガルド帝国の魔法学院では、授業に遅刻する生徒や、サボる者は滅多にいない。それは学院においては意識の低さと見做され、到底許されないからだ。
ましてや生徒のひたむきな熱意に応えるべき講師が授業に遅刻するなど問題外。通常ありえないはずだった。
「……遅すぎる」
魔法学院北館一階の最奥、二学年三組の教室は、担任がホームルームに来なかったばかりか、担当授業である魔法生物学にさえ姿を現さないという異常事態に見舞われていた。
原因は、もちろんオルレアだった。
彼が教室に姿を見せないまま、授業開始からすでに二十分が経過していたのだ。
教室内はざわつき、生徒たちは時間を持て余すように、近くの席の生徒と会話を始める。
「就任初日から大遅刻とは、俺たちを舐めてるとしか思えないな」
「決めつけるのはまだ早いんじゃないかな。何か理由があるのかもしれないし」
「確かにちょっと変だよね」
不満を口にする者や、擁護する者。様々な反応が教室内を飛び交う。
焦燥と不安がじわじわと生徒たちの心に広がっていく中、突然、教室前方の扉がガチャリと音を立てて開いた。
どうやらやっとオルレアが到着したようだ。
生徒たちの視線は一斉に彼へと向けられる。
オルレアのだらしない服装と気だるげな歩き方は、お世辞にも洗練されているとは言えなかった。しかし、その容姿は不思議と魅力的で、怠惰ささえも一種の風情のように感じさせた。
彼は生徒たちの注目を意に介することもなく、スタスタと教壇に向かい、教卓にもたれかかるように肩肘をつく。
「パンを買いに学院の外へ出たら、遅くなってしまった。まぁでも、お前らも自由に時間を使えただろうし良かっただろ」
まったく悪びれた様子もない彼の発言に、教室内の空気は一転険悪なものとなる。しかし、そんな生徒たちの怒りと失望の念が籠もった視線を浴びても、オルレアはどこ吹く風といった様子で明後日の方向を向き、チョークを手に持つと黒板に名前を書き始めた。
「本日から約三ヶ月間、このクラスを受け持つことになったオルレア・ツァラトゥストラだ。魔法生物学と魔法薬学を担当する。以上だ、終わり。質問は?」
心なしか声を張って喋ってはいるが、相変わらず面倒くさそうな気怠げな口調だ。
その内容もさることながら、あまりにも不遜な態度に、生徒たちは唖然とし、どう反応すればいいのか戸惑いの表情を浮かべていた。しかし、そんな中、教室の前側の席に座っていたとある女子生徒が手を上げる。
名前はセレスティア。純金を溶かしたような長い金髪と、宝石のような碧眼を持つ、どこか気品の漂う美しい少女だった。
彼女の肌はシルクのようにきめ細かく、その清楚で気丈な気質は、容姿や立ち振る舞いからも感じられ、その瞳には強い意志と揺るぎない気骨が宿っていた。
「私から一つ先生に申し上げたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「ああ、構わないぞ。ご自由に」
言葉遣いこそ丁寧なものであったが、その舌先には氷をのせたような冷たさが籠もっていた。
そんな彼女の問いかけを、オルレアは適当に了承する。その返事を聞いた彼女は堂々と立ち上がった。
「遅刻をして私たちの時間を奪っておきながら、その態度はいかがなものでしょうか。教育者の前に一社会人として問題があるように思われます。まずは謝罪の言葉から始められるのが筋ではないでしょうか」
そんな彼女からの突然の批判に、オルレアは特に表情を変えることもなく淡々と答える。
「残念ながら、まったくそう思わないな。なぜ俺が君たちに謝罪しないといけないんだ?」
オルレアは何故叱られているのか全く理解できないといった様子で、逆にセレスティアに問いかける。
その彼の態度と言葉には、聞くものをどこか馬鹿にしているような嫌らしさが籠もっていた。
そんな挑発的な態度に少し腹を立てたのか、彼女はますます語気を強める。
「いや、数秒前に申し上げた通り、あなたが私たちの時間を奪ったからです」
「他人の時間を奪うことの何が悪いんだ?」
「社会人でありながら、そんなこともわからないのですか! 人の時間を奪うなど悪いことに決まっているでしょう!」
「だから、どうして?」
「私たちの『時間』という財産、つまり権利を著しく失する行為だからです」
「他者の権利を侵害することの何がいけないんだ?」
セレスティアの熱の入った発言に対しても、オルレアは心底不可解だとでも言いたげに表情を歪める。
その顔からは反省や謝罪といった感情は微塵も伝わってこない。そんな態度がより一層彼女を苛立たせていることだろう。
彼女の碧眼は、彼の無遠慮で挑発的な態度にますます険しい光を宿していた。
深呼吸をして自分を落ち着かせると、毅然とした声で反論を続ける。
「先生、正気ですか? 自分が他人の時間を奪うことを正当化するならば、あなたは他者から権利を侵害されてもいいのですか?」
セレスティアの言葉は鋭く、教室内の空気はさらに張り詰めた。しかし、オルレアは冷静に微笑み、肩をすくめて答える。
「やりたいなら勝手にやれよ。どうぞご自由に」
セレスティアはその無責任極まりない発言に再び憤然とした表情を浮かべた。
「正気じゃありませんね。権利が侵害されると苦しいでしょ? 他人が苦しんでも平気なのですか?」
「苦しいことの何が嫌なんだ?」
「それは……誰だって苦しいのは嫌だし、幸福になりたいと思っている」
セレスティアは調子を崩されたのか、オルレアの問答法というか質問攻めのスタイルにだんだんと歯切れが悪くなっていく。
「なぜ、君は幸福になりたいんだ?」
「……そんなの当たり前じゃないですか」
「君は当たり前とか常識とかいう言葉に逃げるけど、それじゃあ何も説明になってない。具体的に『遅刻の何が悪いのか』をきちんと論理立てて説明してみろよ」
セレスティアはオルレアの容赦のない追及に対し、喉が詰まるような感覚に襲われた。彼女の顔には混乱と悔しさが浮かんでいる。
教室内の他の生徒たちは静まり返り、誰もが息を呑んで、二人のやり取りの行方を見守っていた。
オルレアの言葉に、セレスティアの声が少しずつ弱くなっていく。彼の問答法、まるで相手の言葉を飲み込むかのような質問攻めに彼女は明らかに押され始めていた。
「……それは、その……」
セレスティアは反論しようとしたが、オルレアの勢いの前に黙り込んでしまった。
「見ろよ。できてないじゃないか。自分の言葉に根拠がないくせに、初めから突っかかってくるなよ」
その瞬間、教室の空気は一層張り詰めたものとなり、セレスティアの青い瞳には怒りと悔しさが浮かんでいた。
彼女がさらに反論しようとしたその時、突如として廊下側から冷静な声が飛び込んできた。
「……うるさいんですがね、えーと、確かツァラトゥストラ先生」
現れたのは、隣のクラスで授業をしていた カミーユ教授 だった。
彼女は美しいブラウンの髪を右頭部のみで結んだ、いわゆるサイドテールをしており、知的な印象を与える縁なしの眼鏡をかけている。
その眼差しは冷静で鋭く、周囲の状況を一瞬で見通すような威厳がある。
服装は学院の教授らしく品格が漂うシンプルな黒のローブだが、胸元や袖口には上品な銀の刺繍が施され、控えめながらも華やかさを醸し出している。
「一体、何をそんなに騒いでいるんですか?」
カミーユは、教室に入るなりそう問いかけた。声には静かな怒りが含まれており、その場の全員が一瞬黙り込む。
オルレアは振り返り、やれやれといった表情を浮かべる。
「いやね、こいつが遅刻したとか言うからさ」
彼は目でセレスティアを示しながらのらりくらりと答える。
カミーユは眉をひそめ、冷静な口調でセレスティアに目を向けた。
「遅刻したのですか?」
「当然、違います!」
「では、誰が遅刻したのですか?」
カミーユがさらに問いかける。その視線には、事実を確認しようとする確かな意図が感じられた。
その瞬間、オルレアは無造作に手を挙げ、事もなげに言い放つ。
「遅刻したのは俺だよ」
「……えっ?」
カミーユはその答えにわずかに困惑し、思わず眉を上げた。
「ツァラトゥストラ先生が遅刻したのですか?」
オルレアは軽く頷き、気にする様子もなく言葉を継ぐ。
「そうだよ。それで彼女が遅刻したのがどうのって怒るもんだからさ、『遅刻の何が悪いんだ?』って聞いたら、ちゃんと答えられないんだよ」
「……遅刻した先生が、された生徒を怒っているんですか?」
カミーユはさらに困惑した表情を浮かべた。その声色には微かな怒りも混ざり始めている。
「その通りだ」
オルレアは自信満々に答える。その様子には反省の色どころか、むしろ自らの行動を正当化する楽しさすら感じられる。
「……何を考えているのですか?」
カミーユは深いため息をつき、眼鏡を軽く押し上げた。その仕草には疲れと呆れが滲み出ていた。
「遅刻くらいいいじゃないか。むしろ、遅刻がどうこうなんて、いちいち気にする方がどうかしてる」
「遅刻が良いわけないでしょう。あなたは学院の教師としての自覚が……」
しかし、その言葉を遮るように、オルレアが肩をすくめて笑いながら答える。
「これだから頭の固い奴は嫌なんだよ。遅刻したとしても、その後の授業できっちり教えたらそれでいいじゃないか」
その発言に、教室内の生徒たちも困惑と苛立ちが入り混じった表情を浮かべる。
セレスティアは一歩前に出て、怒りを抑えきれない声で言った。
「遅刻して授業の時間を奪うこと自体が問題なんです。そんなことを言って、生徒たちが納得すると思いますか?」
オルレアはセレスティアの怒りを真正面から受け止めるでもなく、気だるげな態度で頭をかきながら応じた。
「お前らは勘違いしているよ」と、教室全体を見渡しながら言葉を放つ。
「学校に来ることがゴールじゃないだろう? ゴールは物を憶えること、つまり知識を身につけることだ。学校に来るっていうのは、あくまでその過程でしかない。遅刻がどうとか、そんな些細なことで騒ぐ必要があるか?」
その発言に、生徒たちは驚きと困惑を隠せなかった。
教室のあちこちで小さなざわめきが起こる。オルレアの言葉は彼らの常識を覆すようなものであり、その挑発的な態度が不快感を助長していた。
カミーユは再び一歩前に出て、鋭い声で反論した。
「そういう問題ではありません! あなたの無責任な行動がどれほど迷惑をかけているのか、理解していますか?」
「そんな大げさな話じゃないだろう。だが、どうしてもそういう話にしたいなら、俺も言わせてもらおうか」
カミーユは腕を組み、じっと彼を睨んでいる。オルレアはその視線を気にする様子もなく、教室内を見渡しながら話し続けた。
「人間っていうのは、生きているだけで迷惑をかける生き物だろ? 俺が少し遅刻して迷惑をかけたって言うなら、そもそもお前ら全員、誰かに迷惑をかけて生きてるじゃないか」
教室内は静まり返ったが、その沈黙には戸惑いや苛立ちが満ちていた。オルレアは気にせず、さらに言葉を重ねる。
「例えばだ、この学院の倍率は相当高いよな? つまり、お前らがここに受かって座っているってことは、誰かが落ちてるってことだ。落ちた奴らにとってみれば、お前らがここにいること自体が迷惑だと思わないのか?」
生徒たちはその言葉に一層困惑した表情を浮かべた。
セレスティアは怒りで頬を赤らめながらも、言葉を失っている。
カミーユの額にも明らかに苛立ちの色が見えるが、オルレアは意に介さず続ける。
「つまりだ、世の中っていうのは、迷惑をかけたりかけられたりすることで回ってるんだよ。迷惑かけたい放題の迷惑世の中じゃないか。迷惑ワールドじゃないか」
教室内に漂うのは、困惑と怒りが入り混じった沈黙。
生徒たちは呆気に取られたようにオルレアを見つめていたが、その視線を彼は受け流すようにして、さらに語気を強めた。
「それにしてもだ、自分は他人に迷惑をかけているくせに、他人からは少しも迷惑をかけられたくない。そういう卑しい商人のような態度が、俺には何よりも気持ち悪く思える」
彼の目がじわりとカミーユたちを捉えるが、彼女は怒りで頬を赤らめたまま言葉を失っている。その様子を見て、オルレアは少し鼻で笑うように続けた。
「少々でも恥じらいの感覚があれば、お前らみたいなことは言えないでしょうね」
その言葉が教室に響くと、教室の空気はさらに凍りついた。
彼女らはなおも反論しようと、強い意志を込めた視線でオルレアを睨みつける。しかし、彼はその視線を受け止めるどころか、意図的に無視するような態度を取った。
カミーユもまた口を開こうとしたが、オルレアはそれを遮るように、片手を軽く挙げた。
「悪いけど、もうそろそろ授業を始めたいんだ。そろそろ出て行ってくれないか? 邪魔なんだよ」
その言葉に、カミーユの顔には明らかな苛立ちが浮かんだが、彼女はぎりぎりまで冷静さを保ちながら、深く息を吸った。
「ツァラトゥストラ先生、あなたの態度は――」
「お疲れ様です、カミーユ先生。お互い大変だよな、教師って。じゃあね」
オルレアはカミーユの言葉を遮り、半ば強引に追い出すようにして彼女を廊下に放り出した。
セレスティアもまた、その場に居続けるべきか迷ったようだったが、彼の冷淡な態度に諦めたのか、悔しげに唇を噛みしめて席に戻った。
教室に残されたのは、生徒たちのどこか重たい視線と、オルレアの飄々とした態度だけだった。
彼は教壇から教室全体を見渡し、気だるげに口を開いた。
「他に意見や質問がある者はいるか?」
当然ながら、誰一人として手を上げる者はいなかった。あれほどざわついていた教室が嘘のように静まり返り、生徒たちはただ困惑と苛立ちを抱えながら、目を伏せるか、別の方向に視線を逸らしていた。
その態度を見て、オルレアは満足したように小さく頷いた。
「いいね。みんな理解が早いじゃないか」
教室内の生徒たちは、「話の通じない変人」だと彼を判断したのだろう。
それ以上、誰も言葉を発することはなかった。
オルレアの屁理屈と挑発に付き合うだけ無駄だと気づいたのか、彼らはその沈黙で反抗の意思を表明していた。
「じゃぁ授業でも始めるか。……めんどくさいけど」
最後にボソッと本音を漏らすと、オルレアは気怠げに教科書を開く。
「一つ言い忘れていたのだが、基本的に俺の授業は友人と喋ろうが、内職をしようが、何をして頂いても構わない。自分のやりたい事をやりたいようにやってくれ。俺もそうするから」
どこか投げやりな様子でそう言い切ったオルレアは、先程から変わらぬ気怠げな口調で授業を開始する。
生徒たちはそんな彼の態度に、ただ茫然とするしかなかった。
そんなクラスの面々を置き去りに、間違っているのは自分じゃなくて世界だと言わんばかりに堂々と、彼は板書を始める。
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