第12話 彼女を怒らせてはいけない
「何言ってんだ、お前……」
革ジャンの男は、オルレアの不敵な態度に苛立ちを隠せない。
彼の靴底がオルレアの顔をさらに強く押し付ける。
そのとき、玄関の扉が開く音が響き、全員がその方向に目を向けた。
「ただいま」
フローゼの澄んだ声が、家の中に響き渡る。
穏やかな調子が、普段の平穏な日常を感じさせるが、部屋の中の緊張感は一層増した。
彼女は何か異変を感じ取ったのか、すぐに続けて問いかける。
「誰かお客さんでも来ているの?」
客間のドアが開かれると、フローゼが姿を現す。
その瞬間、部屋の空気が一変する。
彼女は無表情で、周囲の様子をじっと見つめた。
「なにこれ? 人の家で何やってるの?」
フローゼの落ち着いた調子には、不思議な威圧感があった。
彼女の目が、部屋にいる男たちを射抜くように見つめ、彼らの顔に動揺と困惑が浮かび上がる。
部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
「お、おい……この女、どこかで見たことがあるぞ……」
一人の男が、震える声で呟く。
その言葉が他の男たちにも伝わり、彼らはフローゼを改めて見つめる。
その瞬間、彼らの表情に驚きと恐怖が浮かび上がった。
彼女が誰であるかに気づいたようだ。
「おかえり、フローゼ。今日は、遅かったじゃん」
オルレアはまだ踏まれたままの姿勢で、穏やかな声でフローゼに言った。
その言葉には、まるで日常の挨拶のような温もりが感じられる。
「フローゼ……ヴァル……ヴァレンティーノ」
リーダーの口からその名が漏れる。彼の顔は青ざめ、目は驚愕で見開かれていた。
ヴァレンティーノ家の名は帝国中に知れ渡っており、その当主であるフローゼ・ヴァル・ヴァレンティーノを知らない者はほとんどいない。
「まさか……ここって、そのヴァレンティーノ家の……」
一人が声を絞り出すように言う。
その言葉が部屋全体に重く響き渡り、男たちは口々にざわめき始める。
フローゼの名が口にされるたびに、その恐怖はますます明らかになった。
彼女は彼らの動揺を冷静に見つめていた。
表情には微かな怒りの色が浮かび、まるで嵐の前の静けさのように、確実に怒りが積もり積もっているのが感じ取れる。
「てか、何故私の家がこんなに荒れてるわけ?」
口調こそは静かであったが、その中に抑えきれない怒りが込められていた。
彼女の目が荒れ果てた客間を一巡し、そこにいる全ての男たちを一人一人見つめる。その中には、オルレアも含まれている。
彼はその冷徹な視線にさらされると、半ば呆れたように言い返す。
「いや、俺を睨むのはおかしいだろ。俺も被害者なんだぞ、ここで踏みつけられてるしさ」
「お前の連れじゃないのか? どう見ても、関係者にしか見えないけど。てか、数日前に半殺しにいた生徒もいるし」
フローゼは彼の言葉を聞き流すようにして、冷たく言い放つと、オルレアは苛立ちを隠せずに、指を己に指して説明を続けた。
「ほら、見てくれ。完全に襲われてるだろ。こいつらが全部やったんだ。俺はまったく関係ないよ」
「何が被害者だ。日頃の自分を思い返してみろ。襲われる理由の一つや二つぐらい、あるんじゃないか?」
オルレアはその辛辣な指摘に対して、口を閉ざすしかなかい。
彼は日々の行いが決して模範的でないことを自覚していたし、それがフローゼの目にはどう映っているかも、十分に理解していた。
「明日、腹を刺されててもおかしくない人間なんだよ、お前は」
オルレアは、その発言に怒りが込み上げてくるのを感じる。
彼は、まさにその瞬間に踏まれている足を払いのけ、無理やり起き上がる。
顔には土埃がついていたが、彼の目には怒りの炎が宿っていた。
「いやいや、ムカついてるのは分かるけど、俺に当たりがきつすぎるだろ!」
オルレアは、苛立ちを隠しきれずにフローゼに詰め寄った。
彼女もまた、彼の勢いにひるむことなく、冷静に彼を見返す。
「そう? これでもまだ優しいくらいだと思うけど」
オルレアとフローゼの間に、一瞬、火花が散る。
彼の顔には怒りと苛立ちが浮かび、フローゼの目には冷たい静寂が広がっていた。
二人の間には、敵対する竜虎が相まみえたような緊張感が漂う。
「性格が悪いってことは知っていたが、よもやこれほどまでとは思わなかった。その人格じゃ、いくら顔と身分が良くても、結婚相手なんて見つからないぞ」
フローゼは彼の侮辱に全く動じず、むしろ小さく笑みを浮かべる。
その笑みは冷酷で、まるで相手を見下すかのようであり挑発的だ。
「新しい発見があって良かったじゃない。驚きに満ちた日常なんてのは、冒険家や子供、そして愚か者の特権だから。羨ましいわ」
そのやり取りに、部屋にいたチンピラたちは完全に圧倒され、二人の間で繰り広げられる激しい口喧嘩に困惑するしかなかった。
彼らは、自分たちが引き起こした状況が一瞬のうちに全く異なる方向に展開していることに戸惑いを隠せない。
しばらくするとフローゼの冷たい笑みは消えると、その鋭い視線をチンピラたちへと向ける。
「てか、お前らもこの男を襲いたいなら、好きにすればいい。でも、それは私の家じゃなくて他所でやれ」
それはすこしも大声ではないのに、ぴしりと彼らの呼吸を止めてしまう。
彼女の決意がはっきりと表れており、容赦しないというメッセージが込められていた。
「それとも、私に喧嘩売ってるの? 買ってやってもいいけど、お遊びで済まないからな。お前らこの国に居られなくしてやろうか?」
フローゼの厳しい言い回しに、チンピラたちは明らかに怯む。
迫力と威圧感に圧倒され、その場に立ちすくむしかなかった。
オルレアでさえ、その場の緊張感に押されて一瞬黙り込んだ。
彼は、彼女の怒りが頂点に達しつつあるのを感じ取り、これ以上エスカレートする前に何とか止めようと考え、彼女を宥める。
「フローゼ、俺の生徒もいるからさ。もう少し落ち着こうぜ。ここで大騒ぎするのは得策じゃないだろう?」
「火に油を注いだのはお前だろ。何が落ち着けだ。何が得策だ。どの口が偉そうに言ってる?」
フローゼはオルレアの言葉に対して一切の容赦を見せず、その視線をチンピラたちから逸らさない。しかし、次の瞬間、彼女は深い深呼吸をするとその表情は少しだけ和らいだ。
彼女はオリバーとルーカスに目を向ける。
向けられた視線には、怖がらせてはいけないということから、少しの優しさが混じっていたが、それでもその中には明らかな威圧感が残っていた。
「驚かせてごめんね。君たち二人は、もう帰ってくれるかな?」
声は穏やかだが、有無をいわせぬ口調だ。
オリバーとルーカスは、その呼びかけに躊躇いを見せ、どうすべきか迷っている様子だ。
彼らの反応を見て、彼女はさらに穏やかに、しかし恐ろしいほど冷静に続けた。
「私が優しく言っているうちに、帰った方がいいよ」
その一言と同時に、彼女の笑顔は一瞬で消え、再び冷淡な空気が彼女の表情を支配する。
オリバーとルーカスは、その促しにようやく動揺を隠しきれず、明らかな恐怖を見せた。
空気の読めないオルレアも、フローゼが爆発寸前ということを悟り、彼らを急かすように促した。
「いいから、お前ら早く帰れ」
オルレアの言葉に、オリバーとルーカスはついに観念し、ゆっくりと部屋を後にしようとした。
彼らの背中には、フローゼの冷たい視線が突き刺さっていた。
「気をつけて帰るんだぞ」
オルレアの最後の一言に、オリバーとルーカスは軽く頷き、足早に部屋を後にする。
その姿を見送りながら、彼とフローゼは再び対峙し、部屋には再び緊張した空気が流れ始めた。
チンピラたちは、フローゼの存在に圧倒されながらも、状況がさらに悪化するのを恐れ、静かにその場を離れる準備をし始めた。
しかし、彼女の視線がまだ彼らに向けられていることを感じ取り、逃げ出す勇気も出せずに立ち尽くしていた。
「さて、どう落とし前つける? 指でも落とす?」
とても淑女の口から出たとは思えないフローゼの物騒な提案に、チンピラたちの顔が青ざめた。
いや……と、一人が弱々しく言いかけたが、すぐに言葉を失い、再び沈黙が部屋を支配した。
彼女は一歩前に出て、まるで獲物を狙う猛禽のように威圧する。
「黙ってないで、何か言えよ」
部屋の空気はさらに重くなり、誰もが一瞬たりとも身動きできない状況に追い込まれていた。
誰も何も言わない時間が数十秒続くと、フローゼはため息混じりに言葉を紡ぎ出す。
「まぁ、いいわ。数日やるから、お前たちで決めてこい」
フローゼの提案に、チンピラたちは一瞬の希望を見出し、何とか逃げ出す方法を模索し始めた。しかし、彼女の次の言葉がその希望を打ち砕く。
「私の優しさから先に言っておくけど、万が一飛んりしたら分かってるよな。そんな酷いこと、私にさせないでくれよ」
逃げようとすれば、それ以上の地獄が待っているという警告だ。
オルレアは、フローゼの冷酷な宣告を耳にし、彼女が本気であることを理解する。
彼はため息をつき、何とか事態を収束させるために声を上げた。
「フローゼ、もう十分だ。こいつらを帰らせてやろう。ここで何かあったら、後で面倒なことになる」
オルレアの提案に対して、フローゼは一瞬目を細めたものの、やがてゆっくりと頷いた。
彼女は深く息を吸うと、少しづつ冷静さを取り戻していく。
「そうね。でも、覚えておきなさい。私の家にカチコミをかけるなんて、二度としないことね」
フローゼの一言に、チンピラたちはまるで命がけの戦場から逃げ出すように、急いで部屋を後にしようとした。
その様子を見て、オルレアもついでに紛れ込んで部屋を抜け出そうと足を動かし始める。だが、彼が一歩踏み出した瞬間、背後から冷ややかな声が響いた。
「どこに行く気だ。お前の家はここだろ?」
フローゼの言葉は、氷のように冷たく、オルレアの背筋を凍らせた。
彼は足を止め、振り返ることなく小さなため息をつく。そして、フローゼの怒りが今から自分に向かうであろうことを覚悟しながら、恐る恐る振り返った。
「えっと……ちょっと散歩にでも……」
オルレアは苦笑しながら言い訳を試みたが、フローゼの鋭い眼差しがそれを一瞬で封じた。
「お前には聞きたいことが沢山ある」
フローゼの冷徹な態度に、オルレアは逃げ場を失ったことを痛感する。
彼の顔に浮かんだ苦笑は、状況の深刻さを理解した上でのものだった。
「……はい」
オルレアは小さく答え、肩を落とす。
彼の返事には、もうこれ以上の抵抗が無意味であることを示す諦めが込められていた。
部屋の中で再び緊張が高まり、オルレアはフローゼの次の動きをじっと見守るしかなかった。
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